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*異世界のパン屋さん*  作者: 河野 晶
第三話 また、おいていかれるのか
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2


 元の世界は七月だった。こちらに来たときは既に肌寒くなっていて、三ヶ月たった今はすっかり冬と言えるほど寒くなっていた。

 そんな中、悠馬は一度体調を崩した事がある。

 気候の急激な変化に体が付いていかなかった事と、精神的な疲れが原因で、高熱を出したことがある。

 ブルクに世話を焼かれ情けないとも思ったが、熱い額に触れた手が冷たくて、それでいて暖かくて、ほっとしたのを覚えている。

 日本に残してきてしまった祖父を忘れた訳ではなかったが、ブルクはもう一人の、祖父のようなような存在だった。



 毎朝、焼きあがったパンを店に並べだす頃には、ちらほらと朝食のパンを買いに客がやってくる。

 客の相手をするのは概ねブルクで、悠馬は次々に焼きあがるパンを厨房から運び並べていく。

 一通りの作業が終わると次は配達がある。近所に住む老夫婦の家に毎朝パンを運んでいるのだ。悠馬は籠に選べるように数種類のパンを入れて「いってきます」と店を出た。

 乾いた冷たい風に一瞬背筋を震わせて、元はブルクの、仕立て直された厚手の上着の襟を立てた。

 もう見慣れた、石畳の町並み、木と石で出来た土壁の家々、日本で見上げるのと同じ、青い空。

(季節が違うのか、時間がずれてるのか、どっちなんだろう。向こうじゃもう十年とか経ってたりして)

「……捜索願、出てんだろうな。失踪宣告って七年で死んだことにされるんだっけ?」

 祖父はどうしているだろう? 七年経てば死んだことにして、孫が居なくなった事に対して、心に折り合いをつけてくれるだろうか?

「…………」

 言葉なく、悠馬は足を動かす。せめて、生きている事だけでも伝えられたらと、唇を噛んだ。



 老夫婦の家は三階建ての集合住宅の一室にある。

 一日分のパンを売り、少しの間世間話をして、悠馬はブルクのパン屋へと帰る。

 その途中でたまにだが、残ったパンを買う者もいて、悠馬のこの世界での顔見知りは日に日に増えていた。

 人と人との繋がりを持って、悠馬は世界に溶け込んでいく。それでいいと、自身に言い聞かせていく。



 店に戻ると朝焼いた分はほとんど売れていた。

 悠馬は厨房に行き、次の分を仕込んでいるブルクに声を掛ける。

「ただいま、ブルク。ドルクさんたちは、げんきでした。さむいと」と悠馬は膝をさすりながら「いたい言うがしてた」

 と、老夫婦の様子をブルクに伝えた。

 ブルクはパン生地を丸めながら。

「おかえりユーマ。そうだな、寒くなると間接が痛くなる。年は取りたくないものだな」

「ブルクはいたい、ないですか?」

 悠馬の問いに、ブルクは黄土色の瞳を細める。

 答えないブルクに悠馬は、発音が悪かったのか? と、もう一度同じ質問をした。

 ブルクは笑い答える。

「ああ、膝は痛くない。肩は凝るがね。年を取ると生地を捏ねるのも苦労するな。それより、しーゆの様子はどうだね? うまく出来そうか?」

「『醤油』できるのらいねん。つぎ『味噌』作るする」

「みそ? それも調味料かね?」

「です。今はパン作るする」

 そう言って悠馬はブルクと並んで生地を取り分けていった。


 竈にパン生地を入れ、一息ついた頃、ブルクは悠馬を手招いて文字が書かれた紙を見せた。

「ユーマの名前だ。覚えられるな? 書けるようになっていてほしい」

「書くをおぼえますか?」

「ああ。永住手続きに署名が必要なんだ。―― ユーマがまた旅をしたければそれでも、いいが……。どちらにせよこの国の永住権は持っていたほうがいいだろう」

「えっと、おぼえるは、なにか、なまえを書くしますか?」

「そうだ。明日一緒に役場に行こう」

 悠馬は首を傾げつつも、明日までにケマセン語で書かれた自分の名前を覚えておけば良いことは理解し、わかるしましたと、頷いた。


 ブルクは厨房の作業台を片付けている悠馬の後姿をじっと見ていた。

 不思議な青年だと思う。聞いたことのない言葉と文字。食べたことのないパンや菓子を作る事も含めて、悠馬を不思議な青年だと感じた。

 初めて会ったときに着ていた服も、人の手ではあり得ない縫い方がされていた。

 黒い髪に黒い瞳は珍しい訳ではなかったが、その顔立ちは見ないものだった。

 悠馬のことは、東大陸からの移民だということにしているが、本当は違うはずだ。『にほん』という国は東大陸にも、ここ西大陸にもない。

 国立図書館で調べたとしてもきっと、そんな国はどこにも記載されていないだろう。

(何者でもいいじゃないか)

 そう思う。

 ふいにブルクは眉を顰めた。震える足で厨房を離れる。

 台所から廊下へ出て口元を手で覆った。

 しばらくして、ブルクは大きく息をつく。

「……はやく、してやらねばな。あの子がここで暮らせるように――」



***


 

 翌日、悠馬がブルクと共にやってきたのは町の中心部にある大きな建物だった。

 中に入った雰囲気で役所のようだと悠馬は思い、それはその通りなのだが、実際が分からずに悠馬はきょろきょろと辺りを見回した。

 ブルクと共に小部屋に連れて行かれ、三時間ほど専門用語を並べられた意味の分からない話をされて、どっと疲れだした頃、一枚の紙を渡された。

 いぶかしんでいるとブルクから。

「ユーマ。名前は書けるな?」

 と言われ、なんの書類なのか不安に思いはしたが、ブルクのことは信頼している。署名しろというのなら書いたほうが良いのだろうと、悠馬は覚えたての字を書いた。

 くねったミミズの様なこちらの文字は書いていても合っているのかどうか分からなかったが、頷かれ紙を役人に提出したのを見るに間違ってはいなかったのだろう。

 用紙を受け取った役人の男は、悠馬に視線を向けて言った。

「ユーマ・ソシューさん。これであなたはわが国、ナガセ国の国民となった。ただし、君がわが国を害した時、犯罪を犯したその時には国民の権利は剥奪されます。君が良き国民である限り、国は君を庇護するでしょう」

「はあ」

 内心なんだろう? と思いつつも悠馬は返事をし、礼を述べて頭を下げたブルクに習ってお辞儀をした。

 ブルクと、養子の手続きをしたと知ったのは、冬が終わってからだった。

 


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