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遥か遠い空の・・・

 本多家の朝はいつも賑やかだ。

 朝の店の手伝いを終えた孫が、慌ててシャワーを浴びて学校へ行く準備をして、ほぼ毎朝走って駅へと向かう。

 今日も変わらず、仕度を終えた孫が二階の自室から、ばたばたと騒がしく階段を駆け下りている。

 いつもと違ったのは、土間まで孫が来る前に、どさっと何かが落ちる音が聞こえた事だった。



 店で食パンを並べていた勝則は、手を止めて怪訝に眉を寄せた。

 階段を駆け下りていた孫の足音が聞こえない。

「悠馬?」

 孫の名を呟き、勝則は土間から上体を乗り出させて階段のほうに目を向けた。

 居間から見える階下。そこに落ちていたのは、孫が調理師学校に通いだした時に通学用にと買ったメッセンジャーバッグ。

 ひゅっと喉が嫌な息を吸う。

 勝則は名を呼ぶ余裕もなく階段に駆け寄った。

 落ちていたのはバッグのみで、孫が転落したわけではないと胸を撫で下ろす。

 勝則は重いバッグを拾い、二階にいるだろう孫息子の名を呼んだ。

「悠馬! どうした? 遅刻するぞ!」

 そう言いながら孫の部屋へと向かう。

 急いでいたのだろう、部屋のふすまは開けられたままだった。

 勝則はひょいと顔を部屋の中へ向け。

「悠馬……?」

 誰も居ないその部屋に、髪の付け根が引っ張られるような感覚を味わう。そして一気に、指先が冷たくなる。

「悠馬、まだ風呂か?!」

 一階に向け大声を出す。

「悠馬っ!」

 焦り、二階を見て回る。

「悠馬?!」

 階段を駆け下り、浴室とトイレを開ける。

 嫌な汗が、背中をつたう。

「悠馬……!」

 台所、工房、裏庭、店、もう一度二階に上がり孫の部屋を見て、混乱しながらまた階段を駆け下りて。

「っ!」

 はっとした。

 何かが落ちた物音は、悠馬のバッグが落ちた音だろう。その音の前に聞こえていた、階段を駆け下りていた足音はなんだったんだ? と――。

「ゆうま……」

 愕然と名を呼び、立ち尽くした。



 二〇一〇年七月十三日―― 勝則の孫、本多悠馬は忽然と姿を消した。



***



 悠馬の家出人捜索願いは、その日の昼に出された。

 勝則自身の身分証明書と印鑑、悠馬の写真、捜索の手がかりになればと、バッグに入れられたままだった悠馬の携帯電話も持って行った。

 自主的に家を出た可能性もあると、最初は一般家出人扱いから始まり、まともな捜査などされなかった。

 勝則は孫の小中高と専門学校の友人を一人ひとりあたって行き、失踪の原因を探った。

 悠馬の友人がパソコンで作成してくれたビラを毎日配り歩いた。

 調査事務所に行き、家出人の調査依頼もした。

 孫の素行に問題はなく、虐めもしていないし、されてもいない。過去に交際があった女性にも問題はなく、誰かとトラブルを起こしていた訳でもない。

 携帯電話には友人と遊ぶ約束のメールが残されており、自ら失踪したと思わせるものは何もなかった。

 八月になりやっと事件に巻き込まれた可能性があるとして、特異家出人として捜索されだしはしたが、警察の手を借りてですら、手がかりは何も掴めなかった。

 


 ―― そして、ようとして居所がわからないまま、半年が過ぎた。




 和馬、早苗さん。と、息子と嫁の名を呼んだ。

 孫が三つになった時、二人は交通事故で死んだ。

 早苗が運転する車で、出張へ行く和馬を空港まで送っている途中、スリップしたトラックに巻き込まれての事故だった。

 突然の死。即死だったと、聞かされた。

 寂しくて、寂しくて。残した息子が気懸かりで、連れて行ってしまったのか? と、勝則は胸の内で呟いた。

 古い印画紙の中で、十六年前と変わらない笑顔を浮かべる息子夫婦。

 勝則は仏壇に皺だらけの手を伸ばし、そっと写真立てを取った。

 膝の上に力なく写真を置き、ぼうっと仏壇に残るもう一つの写真、妻の多加子の笑顔を見る。



 いろいろな、感情が、せめぎ合う。

「多加子なら、信じてくれるか……?」

 あの日、悠馬は階段に居た。それは、間違いではないはずだ。

 家の中で、孫は何処かに消えた。

 自分の頭がおかしくなったのか? と、何度も思った。

 大切な存在を失って、気が狂ってしまったのか? と。

 大工に頼み、階段の板をすべて外しもした。

 いぶかしむ大工をよそに、勝則は板が外された階段を、縋り付くように見た。―― いるはずも、ないのに。

 もう、流せる涙もないほどに、勝則は憔悴していた。



 自身の世話もままならない程になった勝則の、食事や洗濯の世話をしている遠方に嫁いでいた実妹の、週一度の訪問が、二度、三度と増えていったのは、痩せていく兄を心配しての事だ。

「建替えちゃってるけど、やっぱり実家はいいわね。私、もう出戻っちゃおうかしら?」

 と笑う妹に、勝則は兄妹のありがたさを知った。

 ぴちゃんと、台所から水音がした。

 今はもう古いが、建替えた当初は最新のシステムキッチンだった。

(あの時は、和馬に笑われたんだったな)

 もう、戻らない、遠い昔。



***



 早くに妻を癌で亡くし、男手一つで息子を育てた。

 妻に顔向けできないような、子の育て方だけはしまいと、勝則なりに、精一杯の愛情と厳しさをもって育てた。

 十数年のうちに、自分の背丈を追い越した息子に、少しの寂しさを感じ、子離れを知る。

 ―― そして。



 店に朝一番の焼きたての食パンを並べていると、機械関係の専門商社に勤める息子がネクタイを締めながらやってきた。

 おやじと、息子は声を掛けてきた。

「おやじ。今度の日曜日の昼さ、時間空けといてくれる?」

「日曜にか?」

「ん。紹介したい人いるから」

 何気なく言われ、勝則は息子の顔をまじまじと見てしまった。

「なんだよ?」

「いや、和馬もそんな年になったんだな」

「なったんだよ。おやじのパン食べたいって言ってたから、なんか焼いてて」

 じゃあ行ってくると、一言残し通勤して行く息子を見送り、勝則は手で顔を拭った。

 止まってしまったパンの仕度を黙々をこなしていく。

 そして、ふと、目を細めて呟いた。

「多加子、和馬が嫁さんにしたい子、連れてくるってよ。でかくなったもんだ」

 勝則は腕を組み、眉を顰めて考え出す。

 嫁を貰うのなら、最近流行の二世帯住宅に建替えたほうがいいのか?

 いやいや、それより舅と同居なんて嫌がるかもしれん。いやいや然し、歓迎していると意思表示に、若い子が使いやすいように台所のリフォームというのは、したほうがいいのか? いやいや然し同居を前提に考えちゃいかん。和馬たちがいいようにするのが一番いいのだから。

「多加子、笑うか? 会ってもいないのに、あれこれ考えしまう」

 けれど、自分の息子が選んだ子だ。良い子に決まってる。

 おめでとう。ありがとう。幸せに――。伝わって欲しい、家族の喜びを。

 


 息子の和馬が、大学時代から交際していた女性と結婚したのは、それから一年後。

 同居する事になった為、急いで台所を改装した。

 なにもわざわざと、息子には笑われたが、嫁の早苗は喜んでいたので良かったと思った。

 そして二年後の秋、掛け替えのない、大切な命が生まれた。

  


 病院で、生まれて間もない孫を初めて抱いたとき、例えようのない歓喜を感じた。

 名付けはおやじがやっていいよと言われ、毎晩遅くまで名付け本と格闘した。

 秋。実りの秋に生まれた孫の名。宝の名前。

 正座して、墨をすり、筆を取る。



『命名 悠馬』



 そう書いた色紙を和馬に見せると。

「天高く馬肥ゆる秋?」

 と、返してきたので、それもあるが違うと、勝則は答える。

「漢語でいうとあまり言い意味じゃないからな。悠馬の名前の意味は『悠遠なる天を駆ける幸運』」

「それは、また、えらい仰々しい名前になったな」

「字画もちゃんと調べたぞ? 五格も良いし配列も良い。お前の字から一文字取ったし。これ見ろ、本多悠馬の画数が、五、六、十一、十で」

 と、勝則は色々書き込んだ用紙を和馬に見せ説明してみせる。

 孫の名前で息子とやり取りしていると、くすくすと、若い女性の笑い声が聞こえてきた。

 眠る子を腕に抱き、早苗はにっこりと笑う。

「良かったわね? おじいちゃんが名前付けてくれたよ、悠馬」

「早苗さん。その名前でいいか?」

「はい。お義父さん、ありがとうございます」



 悠馬。どうか幸せな人生を歩めます様に―― やさしさを持って、幸せをつかめます様に。




***



 

 ―― 色々な感情がせめぎ合う。

 悠馬が帰って来るために、誰か他に代わりがいるのなら何人だって攫って来てやる。そうとも思うし、もう誰も悠馬のよう目に合って欲しくはない、残される辛さを誰も味わって欲しくはないとも思う。

 勝則は息子夫婦の写真を握り締める。

 疲れ果て、枯れて生気のない声をもらす。

「和馬、早苗さん―― 多加子……」

 返してくれ。返してくれ。お願いします。生きていてください。無事でいてください。

 どうかあの子を守ってください。どうかどうか。

「悠馬を返してくれっ!!」

 何をした! いったいあの子が! 俺が! 何をしたというのだ?!

「―― ゆうまを、かえしてくれ」

 この命など、いくらだってくれてやる。それで悠馬が帰ってこれるのなら、この命などくれてやる。

 だから、どうか。

「もう何も、奪わないでくれ……」

 お願いします。どうかお願いします。

 悠馬を助けてください。守ってください。

 


 囚われる想いは、すべて家族への愛。

 辛くとも、苦しくとも、願うのはただ一つ。家族が無事でいますように。それだけだ。



 ぴちゃんと、台所からまた水滴が落ちる音が聞こえる。

 勝則は震わせながら嗚咽を混ぜた息を吐き、息子夫婦の写真を仏壇に戻した。

 しんと静まり返った室内で、聞こえたのは水滴とは違う音。

 


 買い物に出た妹が帰って来たのか? と、勝則はのろのろと顔を上げ、振り返る。

「っ……」



 驚きは、一瞬の事だった。

 哀しさ、優しさ、辛さ、労わり―― そんな感情を秘めた、それでいてとてもあたたかさを感じる眼差し。

 自分とさして変わらない年頃の男が一人、視線の先に佇んでいた。



 勝則はただ呆然と、その男の、黄土色の瞳を見る。

 男は淡く微笑んだ後、口をすぼめ、軽く開けた。

 


 ゆーま。



 短い、その口の動きで、孫の名を呼ばれたのだと気付き、勝則は目を見開いて男に駆け寄った。

「あ、あんた! 知っているのか?! 悠馬を、悠馬が何処にいるのか!」

 手を伸ばしたその先には、誰も、いなかった――。

 今のはなんだ? 人が、年配の男が一人、立っていたはずだ。

 自分はとうとう幻覚を見るほどに、疲れ果ててしまったのだろうか?

 両の手で顔を被い、膝をつく。

 幻覚など、見ている暇などないというのに。孫を探さなければならないというのに。

 深いため息をつき、勝則はぱたりと膝に手を落とす。

 そして、見るともなしに、視界に入った物。

「これ、は?」

 こたつの上に置かれた、わら半紙に似た数枚の紙。

 メモ用紙など、置いていただろうか? と、勝則は一番上の紙を一枚引き寄せた。

 ぼうと紙面を見た、その目が、驚愕に揺れる。

 慌てて残りの紙にも目を走らせる。

 何度も、何度も、何度も、そこに書かれた少し角ばった癖のある字を読んでいく。



『バフィ= パン

 アポヤ= おはよう

 オレコタウ= ありがとう

 カワネテ= こんにちは(だと思う。挨拶時の言葉)

 ポの発音がピョに似てる』

 


「な、んだ? これは・・・・・・?」



『シェゼ= 掃除・片付け

 トヒ= 食べる

 ドエゼウ(ヂュゼイ?)= 大丈夫

 ドとゼとヂュが聞き分け難い』



 見間違えるわけがない。これは。

「悠馬?」

 悠馬の、孫の字だ。

 本当に、穴が開いてしまうと思えるほどに、勝則は悠馬が書いた字を見つめる。

 片仮名で書かれた言葉の読みと、日本語での意味。

「…………」

 そして、紙の端に書かれた、いくつかの短いメッセージ。



『こっちの世界に来て、一週間は経つ。靴の裏がゴム製じゃないのが、こんなに歩きづらいとは思わなかった』

『こっちの小麦は水分が少ない。うどん作ろうかな』

『海がない? 遠いのかな、川魚ばっかみたいだ』

 


 知らず、ぼたぼたと、涙がこぼれた。枯れたと思った涙が溢れた。

 何気なく書かれた様子のそれらの言葉。

 


『やっぱりもう帰れないんだろうな』

『コジ= 風邪・咳。キセ= ? ブルクの風邪が治ったら意味確認する』

『単語帳もう少し見やすくしよう』



 どういう事だ?

 ブルクの風邪? 誰のことだ?

 これは何なんだ?

「悠馬・・・・・・本当に悠馬が書いたのか?」

 もう帰れないんだろうなとは、いったい何処の国にいるのだ?

 これは、何処の国の言葉を書き出したものなのだ?

 こっちの世界とは、何処にある?



『じいさん、俺は生きてるよ』



「っ!?」


 無言の嗚咽が止まる。

 呼吸も、戦慄く老いた体もぴくとも動かずに、瞬きすら忘れ、その文字を食い入るように見やる。



『じいさん、俺は生きてるよ。ちゃんとパン作ってるよ。俺にできること頑張ってるよ。毎日パンを焼いてるよ』



 嗚呼。

 孫の、あの小さかった手で、顔も服も小麦で真っ白になりながら、初めてパンを焼いたのは幾つの時だっただろうか?

 子供向けの番組のキャラクターの顔を模したパンを焼いたのだ。

 少し歪になってしまったけれど「おれもつくれたあ」と楽しげに笑う孫と二人で食べたのだ。

 口のまわりに餡子をつけて、にぱっと笑って孫は言ったのだ。

「じいちゃん。おれね、おとなになったら、じいちゃんみたいなパンつくるひとになる」

「そうか。パン好きか?」

 そう返し目を細めて、幼い悠馬の頭を撫でたのだ。

 成長し、孫が本当にパン職人への道を選んだときは、とても嬉しかった。

 別の道を選んでいたとしても孫の選んだ事ならば、どんなものでも良かったのだけれども、結果はパン職人を選んだから、本当に―― 嬉しかった。



「ゆうま、生きてるのか? どこかで生きてるのか?」

 生きていてくれていると、信じていいのか?

「―― パン、焼いてるのか?」

 幼い頃の夢そのままに、あの子はパンを作っているのか?

 思わせてくれ、そう思わせてくれ。孫は、悠馬はどこかで生きていて、パン職人になっているんだと――。

 もう帰れないと、その言葉通りでも構わない。

 二度と会えなくとも構わない。生きていてくれている。それだけでいい。

「悠馬……」

「兄さん」

 勝則が呟いた孫の名に、返って来たのは妹の声だった。

 勝則は流れる涙を拭わずに、買い物袋を提げた妹を見上げる。

 和子は困ったふうに笑い「ただいま」ともう一度兄に声をかけた。

 食材の入った袋を床に置き、その横に自身も正座した。

「兄さん」

 勝則は口の端で小さく笑う。

「なんだか、お前には恥ずかしいところばかり見られるな」

「何十年兄妹やってると思ってるの? そんなのいくらだって見てるわよ」

 なにこれ? と、和子がこたつに置かれた悠馬のメモに顔を向ける。

「これ、悠馬の学校のノートか何か?」

「なんだ、お前にも見えてるのか。ああ、じゃあこれは本当だ――」

「え、何が?」

「いや、いい。いいんだ」

 勝則は服の袖で顔を拭い、ふと、先ほど男が立っていた場所を見た。

 優しげな黄土色に瞳。

(あんたがブルグという人か? あんたの所に悠馬はいるのか?)

 信じていいのか?



 ぼうっと虚空を見る兄に、和子は一度目を伏せる。そして膝をすって傍により。

「兄さん。いつ言おうかって思ってたんだけど、あのね?」

「ん?」

「うちの美穂ね、子供できたのよ。今四ヶ月になったところ」

 突然の、姪の懐妊の吉報に、勝則は目を丸くした。

 そういえば、去年籍だけ入れたと言ってたなと、びっくりしつつも「そりゃめでたい。お前もとうとう五人のばあちゃんか」と微笑みを浮かべた。

「五人も孫が出来るなんて思わなかったわ」

 ふふふと笑う和子に、勝則はめでたい事だと繰り返す。

 その声音に、微笑む顔に、和子は多少の無理を感じる。

「お互いいい年寄りね」

「こんな爺になるとはな」

 感慨深く苦笑する勝則に「あのね兄さん」と和子は言う。

「おばあちゃんになっても、私は兄さんの妹だし、甥っ子だって姪っ子だっているのよ。姪孫だっているのよ?」

 家族だわ。と妹は言った。

「私たちは、兄さんの家族よ。ねえ? もう一人だと思わないでよ」

 妻を亡くし、子を亡くし、孫を失い。その悲しみや辛さがどれだけ絶望を叫んでも。

「私たちがいる事を忘れないで」

 孤独だと、思わないで欲しい。

「……兄貴だっていうのにな」

「え?」

「妹に心配ばかり掛けちまってるな」

 微苦笑する勝則に、和子も同じように小さく笑って返す。

「いいんじゃない? 兄妹なんだから。結婚して、名前変わったって、一緒に住んでなくったって、家族よ」

「…………」

 ああそうだ。忘れていた。離れていようが、家族は家族だ。

 どこに居るのかわからなくとも、無事ならば、それで良い。

 勝則は、悠馬が書いた文字を指先でなぞる。

 生きていてくれたらいい。

 ああそうだ。

「パン、焼かないとな」

 もうずっと、孫が行方不明になってから作っていない。

 竈は大丈夫だろうか? 薪は湿ってはいないだろうか?

「パン? 兄さんのパン、食べさせてくれるの?」

「おう。食ってけ。材料見ないとな」

 どれ、と立ち上がる勝則に妹は少し驚きの声を掛ける。

「作る気になったの?」

 心配気な妹に、勝則は笑う。

「ああ。パン職人がパン作らないでどうする」

 職人として、パン作りを教え込んだ。大切な孫で、大切な弟子。

 毎日パンを焼いていると書いていた悠馬。

 師匠の自分が作らずにいてどうする?

 遠い何処かの空の下で、きっと今日もパンを焼いているだろう孫を想う。

 勝則は妹へ顔を向け目を細める。

「生まれてくる子がパン好きになるように、美穂にはしっかりパン食ってもらわないとな」

「うちの子たちは皆、兄さんのパン好きよ?」

 おう、任せとけと、勝則は笑う。

「麺麭工房ホンダのパンはどこでだって美味いんだ」



 信じよう。悠馬が生きていていると、パン職人として頑張っていると。

 逢いに行くことができない、遥か彼方だとしても構わない。



 生きて、どうか幸せな人生を歩めます様に―― やさしさを持って、幸せをつかめます様に。



 悠馬―― 大切な孫。離れていても、家族を想うこの気持ちが、どうか伝わりますように。



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