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*異世界のパン屋さん*  作者: 河野 晶
第七話 はらはらさせないで
23/36

 

 掴まれた右手首が痛い。

 力加減などなく握り締められているせいで指先が痺れてきている。

 強張って動かない体は、無理やり引っ張られているせいで足がもつれ、半ば引きずられるように連れて行かれている。

 恐怖でただ、がちがちと奥歯が震えるだけで悲鳴の一つも出てくれない。


 こわいこわいこわいこわい―――!!

 

 男は何かをひっきりなしに話している。

 浅く早く打つ自身の鼓動が大きく聞こえ、男の声はとても聞いて理解できる余裕はなかった。

 ―― あの日もそうだった。

 レンを連れる男は前を見据えて言う「奴隷商人と通じてる」

 ―― 強く手首を引かれて、投げるように商人に渡された。

 レンの恐怖など構いもせずに男は言う「騙されてるのも知らないで」

 ―― 変わりに商人は、小麦の袋を地面に置いた。

 レンがよろけると男は掴んだ手首を引き上げて立たせ、またすぐに早足に歩き出す。

 男は背中越しにレンを振り返り言う。

「そんな珍しい目をしているからだ」

 断片的に聞こえる男の声。


 ああ、わたしはもうずっと、こんなふうに、いきていくの?



 放り込まれた納屋の中。舞った干草の香りを嗅ぎながら、レンは自分をあきらめそうになる。

『ハンナとアダルとコヒ以外は鍵を開けないように』

 一人出かける度にそう言い聞かせていた青年を想う。

「――っ。ぅ……ま、ゆーまゆーまぁぁっ!!」

 ぱん。と乾いた音が納屋に響いた。遅れてじんじんと左頬が熱もって痛み出す。

 こわいこわいこわいこわい!

「ユーマッ! ユーマァ!」

 男は泣きじゃくるレンの両肩を掴み「黙れっ!」と一言恫喝する。

 あんなと男は続ける。

「あんなどこの骨かもわからない移民!」

 強く上体を揺さぶられレンはひっと息を詰めた。

 渾身の力で手足をばたつかせて暴れるが、大人の男の力に敵うわけなく相手はぴくとも動じない。

「どんな甘言にほだされたか知らないが――」

「ユーマァァァッ!!」


『まもるよ。だからおいで』


「ユーマユーマ、ユーマァァァッ!」




 走りすぎた所為で嘔吐感が込み上げてきた。

 げほっといやな咳をして、唾を飲み込み吐き気を堪える。

 アダルとアルゲたち、ハンナやコヒたちもレンを探すのを手伝ってくれている。

 どこを探せばいいのかなど、わかるわけがない。

 ―― もしも。

 もしも、この世界に来たことが神様と呼ばれるもののいたずらなら、そんな事は許すから、あの子を守らせてくれと、パン屋の青年は懇願した。

 体はもう倒れたいと呻いている。汗にまみれて疲弊した体を動かす。

「レンッ! どこにいんだよ!」

 


 馬乗りになられて何事か怒鳴られ続ける

 唯一助けを求められる青年の名を叫んだ口は塞がれた。

 くたりと、体の力が抜ける。もう、暴れることにも疲れてしまった。

 大人しくなったレンの顔から男は手を離し、よく聞けと言う。

 その顔だけは一度店で見て知っていた。

 町内会で悠馬と同じ祭りの役員になった人だ。そう聞いた。

 だから、玄関を開けてしまった。悠馬はもう寄合い場所に向かいましたと、伝えようとしたら、逃げる間もなく連れて行かれた。

「聞けっ!」

 ひっと喉の奥で悲鳴が引き攣る。

「ゆーま……」

 震える声で名を呼ぶ。

 もう意識を手放そうか? 覚えていなければ無かった事と同じだ。

 レンは見えない耳を塞ぐ。なにも聞こえなければいい。

 今度はどこに連れて行かれ、何と交換されるのだろう? 小麦? お金?

 こんな目に産まれなければ、戦争がなければ、家が焼けなければ、両親が生きていれば。

 悠馬の言いつけ通り鍵を開けなければ、良かったのに。

 忌まわしく思う瞳を閉じる。

 いっそのこと、抉り取ってくれたらいい。そうすれば、もう、怖いおもいをしなくて済む。

 閉じられた瞼から流れる涙が痛かった。

 もうこのまま気を失ってしまえと思った時。

 ごっ!! と、鈍い音が近くから聞こえた。と同時に、体に圧し掛かられていた重みが消えた。

 レンは互い違いの色の目を開ける。

 見えたのは動くもの。靴の裏。足。

 なにが起こったんだろうと考える前に、上体を引き起こされた。

 男の力だったけど、怖くない、その腕に抱きしめられる。抱き上げられる。

 呆然とレンは自分を腕に収める青年を見る。

「レンっ!」

 名を呼ばれ、くしゃりと顔が歪んだ。つんと鼻の奥が痛くなる。

 レンはもう構わずにしゃくり上げて泣いた。

「ぅ……ま、ユーマ。ひ、っく。ぅわあああああっ!」

「レン。ごめん。一人にしててごめん」

「ひっく。こわ、こわか、ったあ! うわあああ!」

 しがみ付いた悠馬から伝わる振動で移動していることはわかった。

 力強く抱えられたまま、今度はどこに連れて行かれるんだろう、なんて、そんなこと思わなかった。もう、ここは安全なのだから。



 レンを連れ出し、納屋の鍵を外からかけた。これで内側からは開けられない。

 薄暗がりで相手の男の顔ははっきりとは見えなかったが。

「ミニュス? おとつい店に来たやつ?」

 腕の中でこくんと頷いたレン。その震えている背を軽く、あやす様に叩いてやる。

「三人以外は開けるなって言ったよね?」

「ごめんなさい。ごめんなさい!ごめんなさいっ」

「おこってるんじゃないから。しんぱいした――」

 納屋の中から立った物音に、悠馬は納屋の扉を見据える。

 しかしそれきり声一つ聞こえてこない事に、ふうと肩の力を抜いた。

 名前が聞こえた。とても小さく、名前を呼ばれた。飛び込んだその先でレンを押さえ込んでいる男の後ろ姿が見え、誰何する前にレンの上から蹴り避けた。

 顎に当たったようなので、しばらくまともには動けないだろう。

 泣き過ぎて咳き込んでいるレンを抱いたまま納屋から離れる。

 アダルか誰かを探して見つかったことを伝えるより、このまま警察に行って閉じ込めたミニュスを捕らえた方がいいだろうか?

 月明かりを頼りに裏路地から表通りへと抜ける。

 街路樹で背中を支え、ずり落ちてきた腕の中の少女を抱え直す。

 肩に細い腕を回して離れようとしないレンに悠馬は。

「……レン。なにもされてないよな?」

 ぴくんと強張った体に血の気が引いた。

 レンの身体に視線を向ける。衣服に乱れはないけれど、恐ろしい思いをしたのだろうか。

「―― れた。ほ、ほっぺた叩かれた」

「あ? どっち? 口の中けがしてない? 開けて」

 歯で内頬を切った様子はない。が、強く頬を打たれたのであれば、中耳炎になる可能性もある。

 とりあえず、頬は早く冷やしたほうがいいだろう。

「他は? 痛いところない?」

「うん」

 怖かった……。

 消えない泣声で言うレンを、悠馬はぎゅっと抱きしめる。



 この世界で、一人ぼっちだと感じていた。

 このまま、いつか死ぬまで一人きりだと思っていた。

 どんなに仲の良い友人が出来ようと、壁を壊してはいけない。異質な自分は、一人でいるべきだと―― そう、考えていた。


『わたしの家族を押し付けたっ……』


 ブルク―― あなたはあの時、どんな気持ちであの言葉を口にしたのですか……?



 レンに家族を求めてる。

 存在のあやふやな己の拠り所に、行き場のなかったレンを据えた。

 守ると決める事で、この世界での存在価値を見出そうとした。

 養護院や里親などの選択肢を与えずに――。

 子供を守るのは大人の役目だと偉そぶったところで、結局は一人で立っていられないから、自分より弱い存在が欲しかっただけの、卑劣。


 ―― 最低だ。それでも、そうだとしても……!


 レンが居ないとわかった時、一番に思ったのは、レンが無事でいるかどうかだった。

 その事に嘘も偽りもない。

 


 泣きじゃくった後、安心したように小さな笑みを零した腕の中の少女を。


「もう大丈夫。こわくないよ」


 触れるこのぬくもりを、手放せないことを、どうか許してください――。

 



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