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太陽が、真上にあった。けれども七月の陽でないことは半袖のシャツから伸びた素肌に感じる空気でわかった。
硬められただけの土の地面。周りに生えている背の高い木々。鳥の声。
異様なほどのどかな光景に、悠馬は恐怖した。
心臓が潰れるのではないかと思う位に強く鼓動している。背筋を冷たい汗が伝い。一瞬にして口腔が乾く。思考がまったく働かない。家に、居たはずだというのに。
「な、んだよ……。どこだよ、ここ」
呆然と辺りを見渡すが、何もない。知っている光景ではなかった。
はっとして手元を見るが、持っていたはずのバッグも見当たらない。携帯電話も財布もなにもかもその中だというのに。
纏わりつく恐怖に駆られて意味もない叫び声を上げそうになるのを堪える。
じっとしていれば足下から這い上がってくる不可解な恐ろしさに囚われそうで、悠馬は不安を連れて前へと歩き出した。
(これ、道だよな。固めてあるし。タイヤの跡はないけど、なんか行き来してる跡はあるし)
歩けばどこか市内に出るかもしれない。
人が居ればここがどこだか聞ける。小銭もないから何処かで電話を借りて家に連絡を入れて。
(大丈夫。そうだよ、交番で電話借りたらいいんだよ)
何してんだと、祖父には叱られるかもしれないがかまわない。
悠馬はそう思い、作り出した安堵感に足を動かした。
携帯電話があれば必要なかったので時計は持っていなかった。時間がわからない事がこれほど不便な事だとは考えた事もなかった。
たとえば携帯電話を忘れていても駅には必ず時計があるし、どこかの店を覗き込めば時計がある。街中にある公園にも時計は設置されているので困る事はないのだ。
今が何時なのかが分からない。ずいぶん前から腹は減ってきている。
自室を出たときは七時四十分ごろだった。だから本当なら今は昼のはずだというのに。
(電気がないとこんなに暗いんだな……)
赤い夕日が沈んでいくのを見ながら悠馬は呆然とした。
靴下だけの足裏は皮が捲れてしまったらしく、じくじくと痛み血がにじんできている。
「……このまま夜になったらどうなるんだ?」
ぞっとして、悠馬は頭を振って沈む思考を振り払らった。
無心で悠馬は歩き続けた。
そして遠くに見え始めた町並みに歓喜の声を出した。足の痛みを忘れて駆け出した。人が居る。これで助かったと、悠馬は笑みを浮かべた。
なんとなくは分かっていた。期待していなかった訳ではないけれども、酷い落胆はしなかった。
陽か沈みきってから辿り着いた町は、見知った日本の町並みではなかった。
通りを歩く人々も、その人たちが着ている服も、日本ではないと告げていた。
大丈夫大丈夫と、呪文のように心で唱える。
悠馬は石畳の町を歩きながら声を掛けれそうな人を探した。そして同じ年頃にの青年を見つけて声を掛けた。
「すいません。近くに交番か電話借りれる所ありませんか?」
悠馬に呼び止められた青年は怪訝そうに眉を顰めた。
『何だって?』
ああ、ほら。日本語じゃない。
悠馬は落ち込む気持ちを堪えて懸命に言葉を発した。
「ええっと、プリーズ・ポリスボックス。ええっとジャスト・モーメント・プリーズ・ヘルプああっとユーアースピークジャパニーズ!」
『は?』
わけが分からないといった顔をされた。悠馬自身も何を言っているのか分からなくなった。
(あああ英語ちゃんと勉強してれば良かった! つーかこの人)
『何だ。何を言ってるんだ? 頭おかしいのか。向こうへ行け、警邏隊を呼ぶぞ』
硬い声音。怪しい者を見る眼差しに悠馬は愕然とした。
日本語でも英語でもない言葉。
(地球にでも知らない言葉はいっぱいあるんだ。分からなくてもおかしくないよな。けど――)
「ハロー? ニーハオ? ウィ? あと何だ? あ……」
悠馬が唸っている間に青年は怪訝な表情のまま足早に背を向けて去ってしまった。
追う気にはなれなかった。
手当たり次第に声を掛けた。
悠馬が発する言葉に大半の者は不審者を見る目を向けてくる。親身になって分かろうとしてくれた人も何人かは居たが、どうにもならなかった。
腹の底からじわじわと絶望感が広がっていく。
ここは、日本ではないし、地球でもない。そう結論付けられた事実に、希望も期待も、失われた。
悠馬は真夜中まで町を彷徨った。皮が剥けた足の裏は立ち止まるともう二度と歩けないと思った。
七月だったはずなのに、ここは随分と寒かった。腹は減りすぎてもう感覚がなくなってきている。
悠馬は崩れるように路地裏で丸まって、気を失うように眠った。
夢なら、それでいい。
朝起きたら子供のように祖父に話そう。俺、めちゃくちゃ怖い夢見たよと。
けれども、夢ではないと、現実だと、白み始めた空を見上げ、悠馬は絶望と共に異世界での朝を迎えた。
***
黒い雲に覆われ始めた空を悠馬はぼんやりと見上げた。
何もする気が起こらなかった。立ち上がり、歩く事が怖かった。
降り出した雨に酷い孤独感を感じた。
霧がかかる程強く降り出した雨に体温が奪われていく。
(このまま死ぬのかな? それとももう死んでるのかな?)
だとしたらここは、天国か地獄か――。
三つの時に亡くなった両親の顔を思い出した。死んでいるのなら迎えに来て欲しいと願った。
衣服に雨が染み込み、傷を負った足がじくじくと痛みを増した。
ふと体を打つ雨が止んだ。
ふんわりとあたたかな手の熱を感じた。
座り込んだまま悠馬は、ぼんやりと閉じていた目を開けた。
『どうした?』
祖父と同じ年頃の老人が傘を差し出していた。
ずぶ濡れの悠馬を気遣いながら身を屈めている様子に、悠馬は祖父を思い出した。
悠馬は力なく、息を吐きながら口元だけを笑みの形にする。
「おじいさん知ってる? ここどこかな?」
土砂降りの雨の中。悠馬はこの世界での、家族に出逢った。
***
手を引かれて連れてこられたのは老人の自宅だった。
一階建ての家は壁も床も木で立てられていた。
ずぶ濡れのままの悠馬を暖炉の前に座らせて、老人は急いで火を熾した。
『拭くものと着替えを持ってこよう。ここに居なさい』
座っていろと言われたのだろうか? と悠馬は取り合えず頷いき、暖炉に冷え切った体を近づけた。
差し出された布で体を拭き、老人のものだろう、乾いた服を借りて着替えた。
『ほら。スープが温まった。足りなければ作るから温まりなさい』
目の前に湯気の立つ皿を出され、悠馬は泣きそうになった。
「ありがとうございます。いただきます」
言葉は伝わらないとは分かっているが、感謝を口した。
手を合わせてお辞儀をして、木でできたスプーンを手にし食べ始める。
半分ほど食べた頃、ぬるま湯をはった桶を手に自身の足元に座り込んだ老人に、悠馬は驚いて食べるのを中断した。
老人は笑って悠馬の足を指差して。
『怪我をしているだろう。手当てしないと化膿してしまう。まずは泥を落とそう』
桶の中を指差して首を傾げる老人に、悠馬は戸惑いつつも泥と血で汚れた両足を湯の中につけた。
傷に染みはしたが、きれいに洗われた足を見て随分気分が落ち着いた。
軟膏を塗られて柔らかな布を巻かれて。悠馬は深く頭を下げた。
言葉が通じないのだ。身振り手振りで感謝の気持ちを表すしかない。
伝わって欲しいと、悠馬は老人を見た。そして優しく細められた黄土色の瞳に安堵して、悠馬は小さく微笑んだ。
「あの、ありがとうございます。なんで助けてくれたの?」
『ん? 腹はくちたか? もう少し食べるか?』
お互いに発した言葉に、お互いに困った顔をした。
どうしようか? と二人して首を捻る。
先に声を出したのは悠馬だった。自身を指差しこう言った。
「悠馬です。悠馬、悠馬」
きょとんとした老人の顔を真剣に見ながら、悠馬は何度も名前を繰り返した。
「ユーマ?」
繰り返された言葉に悠馬はほっとして頷いた。「おじいさんの名前は?」とくるりと指を老人に向けた。
合点がいったのか大きく頷いて。
『わたしはブルク・ソシューという。ブルクだ。ブルク、ブルクだ。ユーマ』
「ブルク? ブルクさん」
『? ブルク』
敬称を付けたら首を傾げられたので、悠馬は頷いて「ブルク」と返した。
ブルクは笑って言う。
『ユーマは見かけない顔立ちをしているな。旅でもしているのか? 言葉が分からないのなら不便だろう。行く所がないのならユーマが居たいだけここに居れば良い』
「ブルク?」
『スープをもう一杯食べるか?』
ブルクは空になった皿を指差してから、暖炉にかけている鍋を指差した。
分かりやすい身振りに悠馬は頷いた。
「ブルク」
『ん?』
「ありがとう」
この言葉がどうか、伝わりますように。
***
目が覚めた時悠馬は、旅行に来てたんだっけ? と知らない部屋を見渡して思い、足裏の痛みに一昨日からの記憶が頭を巡った。
「やっぱ、これ、現実なんだな」
きっと自分はもう二度と、帰れない。
口を硬く引き結び、悠馬はぎゅっと目を閉じた。
「起きよう。動け、俺」
そう独り語ちて、目を見開き勢いよくベッドから飛び起きた。
床に着いた両足が痛んだが、歯を食いしばって堪えた。
ブルクから借りた寝巻きを脱いで、昨日から借りている服を着る。
ゴムやベルトはなくズボンも紐で縛る形のものだ。上着はゆったりとしていて頭からすっぽりと被り、これも腰あたりで布でしばる。
「一人で着れるタイプの服で良かったよな」
着物のような物であったら一人で着替えれたかわからない。
窓から見える空は、昨日と打って変わって青空が広がりそうな明るい朝日を覗かせていた。
悠馬は厚手の布でできた、こちらの世界の靴なのかスリッパなのかは分からないが、それを履いて部屋を出た。
かなり早い時間だからブルクは起きてはいないだろうと思ったが、昨日食事をした暖炉があった部屋の奥から人が動く気配がして、悠馬はそちらへと向かった。
一段低くなっている部屋は石床になっていて壁際に竈があり、中央に大きな作業台が置かれていた。
悠馬は部屋の入り口で立ち尽くした。
背を向けたブルクが台の上で白い柔らかそうな物を切り分け、丸め、並べている。
時折打ち粉を足して、また丸めて、パンを作っていた。
毎朝、必ず、当たり前のように見ていた光景。もう見れないと思っていた光景がそこにあった。
ブルクと、悠馬は声を掛けた。
小麦粉で白くなった両手のまま、ブルクは振り返り悠馬を見た。
『ユーマ。もう起きたのか。早いな。まだ何も焼けていないぞ?』
そう言ってブルクはまた作業に戻る。
『少し待っていてくれ』
「ブルク。その量って自分ち用じゃないよね? ブルクはパン屋なの? あ、エプロン借りれる? まだある?」
『?』
悠馬は首を傾げるブルクの前掛けを軽く引っ張って、自分の胸を叩いた。そして辺りを見回して水桶を指差して両手を擦り合わせて、手を洗う仕草をした。
「手伝ってもいいかな?」
『手伝いたいと言っているのか? はは、それは助かるな。さて、何をしてもらおうか?』
ブルクは笑って予備の前掛けを悠馬に渡し、手洗い用の桶を指し示した。
悠馬は手を洗い、深呼吸をして、ブルクの横に立った。
打ち粉用の小麦を手に取り台に打つ。残りを手につけてブルクに問う。
「昨日のパンもブルクが作ったもの?」
『パンを作った事があるのかね? 一応売り物なのだがな。そうだな、朝食用のパンを二、三作ってもらおうか?』
「えっと、同じ大きさの丸パンで良い? これまだ一次発酵前、か。手早くしないとな」
通じない言葉のやり取りをしながら、二人はパン生地を丸めていく。
悠馬の手際の良さにブルクは目を丸くした。
『上手いな。パン作りをしていたのか?』
雰囲気で何か聞かれた事は分かったが、やはり意味は分からず悠馬は首を傾げた。そして先ほどから何度か聞いたバフィという単語を口にした。
ブルクは頷いてパン生地を指差す。
『バフィ。カリ・バフィ。エモ・ゼケウィ・ツチヂエ(そう、これはパンだ。今は生地を作っている)』
「バフィ……ブルク、俺ずっとパン、バフィを作ってたんだ。毎朝じいさんと二人で」
均等に生地を丸めながら悠馬は言う。
嬉しいのか、それとも悲しいのか、自分の感情が理解出来なかった。それでも、だからこそ、悠馬は笑った。笑って言う。
「ブルク。俺ここでバフィ作ってもいい? たくさん頑張って働くよ。言葉も頑張って早く覚える」
だから。
「パンをさ? 俺にパンを作らせてほしい」
最初のパン作りは竈に火を熾す事から修行が始まった。一年ほど前からやっと売り物の生地も触らせてもらえるようになった。
高校を卒業し調理師専門学校に進学したのも、パン職人になるために、製菓だけでなく広い調理技術を身につけたかったからだ。
(ああそうだ。五歳の時だ。五歳の時に俺じいさんに言ったんだ)
― じいちゃん。おれね、おとなになったら、じいちゃんみたいなパンつくるひとになる ―
悠馬の異世界での生活はこうして始まった。