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蝉とは違う鳴く虫が、町中のそこかしこで「ちきちき」と舌を打つような音を出している。
くま蝉のけたたましく鳴く音よりは暑苦しさを感じないように思えるが、じりじりと照る太陽は日本もここも同じに暑い。
それでも空気が乾いていてじっとりとした暑さ出ない分、日本よりは過ごしやすいかもしれないと、本多悠馬は小麦の袋を肩に担いで強い陽射しの下を行く。
家に帰る途中で小規模の市場の中を通り、その中で見かける知った顔の露店主と「おう。最近どうだい」「どうにかやってるよ」等の日常の挨拶を交わし合う。
中肉中背の黒髪黒目の平均的な日本人顔の悠馬は、この国の人々の中では少し浮いている。
この国の壮年の男たちは皆りっぱなあごひげを保っているし、体格も東洋人の悠馬よりがっしりと筋肉質が多い。
なまりの残る喋り方をして、この国の人々が知らないパンや菓子を作る悠馬は『ポンク通りのパン屋の店主』として少しずつ、このナガセ国に馴染んでいっていた。
そして、この世界へ来て初めての夏がやってきた。
***
三十キロはある小麦の袋を担いだまま三十分は歩いたのだ。悠馬は店に帰る頃には、額や背中にびっしりと汗をかいていた。
内開きの扉を体を使ってどうにか押し開けて、悠馬は買出しの間店番を頼んでいたハンナに「ただいま」と声を掛けた。
悠馬は重い袋を床に置き、ぐるぐると肩を回しながらカウンターに近づき留守の間の様子を尋ねた。
「お帰りユーマ。お客さんは少なかったわよ」
「昼のこの時間はね。店番ありがとうハンナ」
「いいよいいよ。お駄賃もらうし」
答えてにこにこ笑うハンナに、悠馬も笑って返す。
ハンナには彼女の家業である雑貨屋が手隙の時に、何度か交換条件付で店番を頼んでいる。そしてその条件といえば。
「アップルパイね。明日の昼のかねには焼きあがってるよ」
「そう、じゃあ六の鐘の時に取りに来るから。あっぷるぱい絶対作っててね」
「わかったって。それより時間だいじょうぶ?」
「あ、夕飯の買い物済ませておかなきゃ。レワガの実たっくさん入れて作ってね! あと、今晩当番でしょ? 気をつけてね」
「だいじょうぶだよ。もうなれたし」
「それでも、よ。じゃあ明日ね。がんばって」
と軽く手を上げるハンナに悠馬も答え、店の出入り口まで見送った。
あっぷるぱい絶対ね!と何度も念押しして帰ったハンナに一人苦笑しつつ、悠馬は厨房へと小麦を運んだ。
レワガは林檎と梨を合わせたような味と食感の果物で、それを使って悠馬が作っているアップルパイ(こちらの言葉に直せなくて品名はアップルパイで通している)は店でも売れ筋の商品になっていた。
(売り物とは別に大きめの作るかな)
と、悠馬は手を洗い、生地の下準備を始めた。
一年近く前に理不尽な暴力としか言えない出来事―― 地球とは違うこの世界に飛ばされてから、悠馬の生活は一変した。
日本語が通じないことを初め、電気やガス、水道といった日本でいう一般生活上の命綱もなく、新聞すらもなかった。
電気やガスの代わりは薪やロウソクになり、水道水は井戸水に、新聞やテレビで得ていた情報は各町の掲示板や回覧板、伝達人といったものに取って代わった。
毎朝の通学時の満員電車が懐かしく思う。
同じものは人の笑顔と、小麦が焼ける、甘い匂い。
***
夕方になり、裏庭で飼っている牛と鶏の世話をして、一人だからと適当に作った夕食を摂る。
普段であればこの後に明日の仕込みにかかるのだか、今晩は町内の夜警がある。青年団の夜の見回りの様なもので、一年毎の当番制となっている。
言葉がまだ今よりもおぼつかなかった春先から悠馬も加入し、町内活動―― 主に今日のような夜警や祭礼の準備など、内容は日本の地元青年団とあまり変わらない事をやっている。
悠馬は食器を洗い桶に浸けて、角灯と一応財布だけを持って家を出た。
薄暗い街中に街灯といえる設備は少ない。大通りに申し訳程度にかがり火が焚かれている程度。
肝試し以外でロウソクの明かりだけで夜歩きする事になるとは、日本にいた頃は想像もしていなかった。けれども、今はそれが日常だ。
悠馬はまだ火を入れていない角灯を手に、のんびりした足取りで町を行く。
ふと、見上げたまたたきは、きっと地球からは見えない星たち。
立ち竦むように、悠馬は星を見上げた。
しだいに灰色の雲が星を覆いだし、空気に湿気が混ざり初め。
「……会館、早く行かないとな」とぽつりと独りこぼした。
自宅から十分ほど歩いた場所にある町会館には、まだ数人しか集まっていなかった。
正確に時を刻む機械など無いこの国の人は、時間の感覚に良く言えばおおらかだ。
今が何時なのか分からない不安は生活していくにつれて無くなった。体内時計は侮れないというのが、悠馬がこの世界に来てから実感した事の内の一つだ。
とは言うものの、時間に正確な日本人を十九年やっていたのだ、この国の人たちの大雑把さには一年経っても多少呆れてしまう。
悠馬は適当に木製の机と椅子が置かれた会館内を見渡して見知った大工のアルゲと、警察官の制服を着崩したアダルベルトを見つけそちらへ足を進めた。
「アダル、アルゲも早いね。って、なんでアダル、警察がいるの?」
何かあったのか? と顔を顰めた悠馬に、アダルは口の端を上げて肩を竦めて答えた。
「おう。カボスからの難民とか乗せた売買屋がこっち入ったって連絡きてよ。一応、な、警戒しとかねえとだめだから俺ら市警も出張ってんの」
「ばばいやー?」
「奴隷商人。あー、人間を、買ったり、売ったり、するやつらの事」
「―― さいあく」
意味を知って悠馬は、常と違う低い声で嫌悪を隠さずに眉間に皺を寄せ言った。
「つかまえるんだろ。アダルのほかの警察の人、きてないの?」
「巡回中。ユーマ、お前気をつけとけよ。珍しい顔立ちしてるし若いから高く売れる」
「おれは自分は売る気ないよ」
「誘拐されて売られないように気をつけろよって事だよ」
「早く、今日につかまえて」
「国の許可取ってる売買屋なら違反現場押さえないと無理」
「よく分からないけど、さいあくだとは思う」
言われ「当たってる」と、アダルは苦笑した。
そろそろ行くかと言ったのは大工のアルゲだ。立ち上がって腹に響く大きい声で集まった人たちに号令を出す。
「今日からの巡回は三人一組で行う事! 不審者を見つけたらすぐに市警に連絡するように。ポーナたちは西周りから、ナイジェカたちは北周りで、アダルは俺たちとビガナ通り界隈を頼む。雨がきそうだから寄り道するなよ」
アルゲの言葉にそれぞれが頷き、会館を後にした。
悠馬もアダルベルトとアルゲに付いて、すっかり日が落ちた町へと向かった。




