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2010.04.30~2011.2.11 初掲載(全十話)誤字脱字の修正および一話分の文字量調整しています。
手足がかじかみ感覚が無くなったのは何時ごろからだったのか、疲弊しきった体と思考ではまともには思い出せなかった。
冷たい雨が全身に染み込んで、寒くて、もう動けないと、膝を抱える気力もなくただ足を投げ出してむき出しの地面に座り込んでいた。
短い黒い髪からは滴がたれ、まだ柔らかさを残す青年の顎を伝い落ちる。シャツもジーンズもびしょ濡れで肌に張り付いていた。
じんじんと痛む足先は泥に汚れ破れた靴下のみ。うっすらと滲んだ血は靴を履かずに歩き続けたせいだ。
体を打つ雨は激しさを増していく。
どんよりとした雨雲を見上げ、本多悠馬は、目を閉じた。
ここが、どこなのかが、わからない。日本ではない事は確かだ。わかった事はそれだけだ。
昨日の朝は確かに日本に、自分の家に居た。だというのに、石畳の町並み。石と木で出来た家々。知らない言葉。自分とは違う顔立ちの人々。
怖かった。帰りたかった。祖父の待つ家に帰りたかった。
悠馬は力なく笑った。自分はもう、もしかすれば死んでいるのかもしれない。ここは死後の世界なのかもしれない。それならば、父や母が居る町に来たかったと、力なく笑った。
ふと、痛いほどの雨が止んだ。
耳に聞こえてきたのは穏やかな声。その声の、知らない言葉に、悠馬は身を硬くした。
そっと濡れた髪を撫でられて、悠馬は顔を上げる。触れられた手がとてもあたたかかったから――。
疲れきった悠馬の目の映ったのは、優しげに心配そうに細められた黄土色の瞳だった。皺の多い顔も骨ばった年老いた手も、その肌の色も髪の色も。
(ああ、やっぱり。日本人じゃない)
悠馬はくしゃりと顔を泣きそうに歪めた。
『どうした?』
優しげに問う老人の声に、悠馬は懸命に笑った。そして伝わらないと分かりながらも、抑揚のない声音で聞いた。
「おじいさん知ってる? ここどこかな?」
老人が軽く目を見張ったのを見て、悠馬は苦笑した。
知らない言葉を耳にした者は大抵吃驚して、奇異な視線を向けてくるのだ。昨日から何度も経験した。言葉が通じないことの怖さ。
「……帰りたい」
『言葉が話せないのかね? 家はどこだ?』
老人はそういって着ていた上着を悠馬に羽織らせた。
悠馬はただ目を丸くして老人を見上げた。
驚いている悠馬に、笑いかけながら老人は手提げの中から丸いパンを取り出して悠馬へと手渡した。
『食べるか? ああ、食べながらでいい立てるか?』
パンを受け取った悠馬は、仕草で促されてのろのろと立ち上がった。
皮が剥けた足は痛んだが、手にしたパンのほのかな温かさに急激に腹が減っていたことを思い出した。
戸惑いつつも一口齧り、口に広がる小麦の甘みと香ばしさに、嬉しさと有難さがこみ上げてきた。
『随分腹が減っていたんだな。来なさい。体が冷え切っているじゃないか。家に帰れば温かいスープも出せるから』
真剣にパンを食べる悠馬の様子に老人は笑って、氷のように冷たくなった悠馬の手を引いて歩き出した。
悠馬は戸惑いつつも、引かれた手のあたたかさに安堵して、何処に連れて行かれるのか? という怖さは感じなかった。
悠馬のこの突然の出来事は、昨日の朝から始まったことだった。
***
携帯電話の着信メロディは月に一度は変えている。
特にこのアーティストが好きだというのはなく、満遍なく流行のJポップは聞いている。
軽快な電子音が聞こえ、悠馬はジーンズの後ろポケットから二つ折りの携帯電話を取り出してメールフォルダを開けた。
送信者は同じ調理師の専門学校に通うクラスメイトからだった。
授業が終わり、一時間ほど前に別れたばかりの友人からのメールに何だろう? と思いつつ内容を確認した。
[あさって斎女のコら五人と合コンすんだけど来る?]
[会費五千円以内なら行く。なん時から待ち合わせドコ?]
こういうお誘いは即返信する。
斎女といえば斎谷女子短期大学のことだろう。可愛い子が多いから知っている。先月の合コンはイマイチだったから今回は気合を入れれそうだ。と、いささか勝手な事を思いつつ友人からの返信を待った。
駅から自宅までは徒歩で15分ほどだ。その道中を友人とのメールのやり取りに使い、悠馬は住宅地からは少し外れた所にある自宅へと帰った。
木枠でできた磨り硝子に古びた彫金の流麗な字で「麺麭工房・ホンダ」と書かれた引き戸を開け、エアコンの涼しさにほっとして、悠馬は「ただいま」と声をかけた。
白髪交じりの短髪に紺色のエプロン姿の悠馬の祖父は工具箱を片付けながら、帰宅した孫息子に顔を向け。
「おかえり。今日はもう夕飯できてるぞ」
と言った。
「昨日のカレーがうどんになったの? てか何してんの?」
「りっぱな飯だろうが。ほら、ここの棚がな、ちょっとガタつくから釘打ってたんだよ」
「言えば俺がやるのに。腰痛い膝痛いってぼやいてるくせに無理すんなよな」
「このぐらい平気だ。年寄り扱いするな」
十九の孫がいる年齢なのだから十分年寄りだろうと思いつつも口には出さずに、悠馬はわざとらしく「へいへい」と肩を竦めてみせた。
四畳ほどのこじんまりとした店内は大きめのショーケースが一つだけある。そこには毎日、朝の八時と昼の十三時に焼きたての食パンが並び、クリームパンやアンパンなどの昔ながらの素朴な味わいのパンが並ぶのだ。
石釜のパン屋さん。そう呼ばれている店が悠馬の生家の家業であり、パン職人である祖父、勝則の城だ。
他県からも買い付けに来る常連客もおり、悠馬が小学生の頃に一度テレビの取材も受けたことがあった。
悠馬は売れ残りなどない店内を抜けて、住居スペースへと向かい土間から直接居間へと上がる。
毎朝丁寧に埃が掃われている仏壇に目を向けて「ただいま」と小声で父と母へ話しかけた。
悠馬が三つの時に両親は車の事故で他界した。祖母は悠馬が生まれる前に亡くなっていて写真でしかその存在を知らない。なので悠馬は十六年間祖父の手で育てられたのだ。
感慨深い思いはなかった。祖父と二人の生活が当たり前であったし、職人気質で厳しいところもある祖父だが、疑いなく愛されて育てられていたという事は無意識にでも自覚している。
悠馬は自室がある二階へと階段を上りながら、明後日は晩飯いらないって言っとかないとなと、そんな何でもない事を考えていた。
悠馬の朝はいつも早い。
毎朝四時には目覚ましが鳴り悠馬は起床する。あくびを噛み殺しながら伸びをして仕事用の服を着ると一日の始まりだ。
一階の台所まで行くと祖父は既に起きていて米を炊き、味噌汁を作っている。
パン職人だが生粋の日本人である祖父は「朝は白米と味噌汁」という古典的な人間でもあった。
「じいさん、おはよ」
「おう。おはよう」
「んじゃ、火いれてくるよ」
「頼むぞ」
店の手伝いは遊びながら、子供の頃からやっていた。
本気でパン屋を継ぎたいと祖父に話したのはいつだったか……。
中学に上がってから祖父の指導を受け始めた。
売り物のパン生地に触らせて貰えるようになったのは、この一年ほどだ。「まずは竈を使えるようになれ」と言われ、竈の炎の調節から修行が始まったのだ。
気温や湿度でパン生地の状態は変わる。同じような竈の温度では美味しいパンは焼けないのだ。
工房に入るとまずは温度計と湿度計の確認をしてから、薪をくべ火をつける。
今では苦労せずとも出来るこの工程も、最初の内はなかなか上手くいかなかった。竈内の一部だけがやたら高温になってしまったり、種火から薪に火が移らなかったりと苦労したものだ。
悠馬が火の調整をしていると、朝食を作り終えた祖父が工房へ顔を出し、パン生地の準備を始める。
一度に焼けるパンの数はさほど多くはない。
祖父の手は魔法の手だ。
さらさらのただの小麦が砂糖や水飴、ドライイーストなどと混ぜられ捏ねられ伸ばされて、また捏ねられて。纏められた生地は数十分後には二倍以上に膨らんでいる。
その一次発酵をさせている間に祖父と二人で朝食を取る。
パン生地は生き物と語る祖父は発酵中の生地が気になるのか、朝食はいつも工房に持ち込んで食べていた。悠馬ももちろん工房で摂った。
膨らんだ生地の状態をまずは目で確認し、指を差込んで確認してからガス抜きという作業をして、生地を切り分け整えてパン型に並べていく。そこからまた数十分ねかせ、二次発酵が完了すれば生地作りは終わる。
竈の温度を確認し、パン型を並べていく。
焼きあがるまでは竈からは目を離さない。
学校はどうだ? と聞かれたのは悠馬が竈内の温度を確かめていた時だ。
悠馬は祖父を振り返り。
「面白いよ。衛生法規とか公衆衛生学とかの科目は頭痛がしそうだけど」
「どう違うんだ?」
「一般衛生法規とか学校衛生法規とか調理師法とかが衛生法規で、環境衛生とかのベンキョが公衆衛生学」
「お前、それちゃんと分かってるのか?」
眉を寄せて聞いてくる祖父から、悠馬はそっと目を逸らした。
「勉強中」
学科の授業があんなに多いとは思っていなかった。高校の時より勉強してるかもしれない。やりたい事をしているので苦にはなっていない事が救いだ。
竈の中から聞こえるパンが焼ける音に耳を集中させる。
焼きむらができないように手早く様子を見てパン型の位置を変えていく。熱気のこもった工房は夏場は次から次へと汗が出てくる。
悠馬は首に巻いたタオルで顔を拭って「いいと思う」と一言呟き、焼き型を取り出していく。
毎朝、一日で一番緊張する時だ。
甘く香ばしい小麦の香りが部屋中に満ちる。
取り出されていく食パンを厳しい目で祖父が確認していく。
「よし。いい焼き加減だ」
と、頷く祖父に悠馬はほっとして笑った。
焼き型からパンを取り出しながら勝則は「おい。悠馬時間大丈夫か?」と言い、悠馬はそれに慌てて。
「ごめん、じいさん。学校行ってくる」
「おう。しっかり勉強こい」
「了解」
軽快に返して悠馬は工房を出て風呂場に向かう。
汗だくのまま電車に乗るのは抵抗がある。大急ぎでシャワーを浴びて、髪を拭きながら二階の自室へともどる。
シンプルな臙脂のティーシャツとリーバイスのジーンズに着替えて、教科書と入学時に買った包丁等の器具が入ったケースを詰め込んだメッセンジャーバッグを手に取って部屋を出た。
「走ればいつもの電車間に合うな。シャワーしたとこなんだけどな」
とぼやきながら悠馬は階段を駆け下りた。
「っ!?」
それは突然悠馬を襲った。気を失いそうな程の虚脱感。体を支えられずに階下に向かって悠馬は落ちた。
そして――。
世界が変わった。