8.お芝居
二人きりにさせられるや否や、私はすぐに少女の身体を確認した。
見えないところに酷い傷をつけられてはいないか。何か酷い事をされてはいないか。心配で堪らなかったせいだ。しかし、それも無用のものだった。
少女はきょとんとした表情で私を見ている。何故、私がこんなにも焦っているのか分かっていないらしい。ということはやはり、本当に、何もされていないのだろう。「食虫花様」と言っていたように、何の疑問も持たされることなく、丁寧に扱われていたのだろう。
――よかった。
ほっとする私に少女は身体をぴったりと寄せてきた。
「ねえ、どうしたの? あの人と何を話していたの?」
訊ねられて、答えに詰まった。
正直に言うのが正解なのか、隠してしまった方がいいのか。とっさに判断出来なかった。
言葉に迷っていると、少女は私を覗き込むようにみて、そっと訊ねてきた。
「わたしには難しいこと?」
いつもそうだ。
彼女は私が何か隠し事をしたり、話し辛くて黙りこんでしまったとしても、自分には難しいことだと納得してしまう。いや、きっと本当に納得しているわけではないのかもしれない。けれど、少女は何も言わない。疑問に思っているのかすら、私には言わない。
だから、私はいつも甘えた。少女の追従の姿勢に甘え続けていた。
じゃあ、本当はどうすればいいのだろう。私には分からない。何が正しいのかなんて今更分からない。だって、私は、最初から少女を騙して洗脳して、自分だけの花にする為に攫ったのだから。
「難しいことかもね、お姫様」
抱きしめればとてもいい香りがする。
食虫花が持っているあの甘ったるい毒の蜜とは大違いだ。さり気なく寄り添うような優しい蜜。三カ月手をつけなかったせいで濃厚なものになっているらしいけれど、それでも食虫花の蜜を散々飲まされてきた今となっては、ほっとするくらい爽やかなものだった。
少女は抱きしめられるまま、私に身を委ねている。
その姿に、少しだけ不安が過ぎった。花の魔女に囚われるなんて全く感じていなかったあの夜、偽りの城の中で眠っている私に少女がしてきた甘い悪戯。ケダモノに過ぎない私の心に火をつけようとするなんて、きっと世間知らずだからしてしまえたのだろう。
彼女をそんな世間知らずにしたのは私。罪人は私一人で十分。
「わたしは……どうしたらいいの?」
少女は恐る恐る訊ねてきた。私の機嫌を損ねて見捨てられるのを恐れているのだろうか。
きっと彼女の心は何らかの理由で親元を離れた時のまま。幾つなのかも分からぬ少女の姿と同じで成長を止めている。この三カ月で成長するべき機会を全て失ったまま。それはまるで凍りついた花のよう。
そうしてしまったのは私。彼女をわざとお姫様扱いして、この森に広がる全ての喧騒から隠してしまったせいなのだ。後悔しているかと聞かれれば分からない。今だって、食虫花にさえ捕まらなければ平穏なままだったって信じている。
けれど、何が正しいのだろう。悪に手を染めるものに囚われ、知らぬ間に人質にされるこの少女にどんな言葉をかけるのが正しいのだろうか。
考えても、考えても、すぐに答えは見つからない。
だから、結局、私は――。
「君は此処のお姫様でいたらいい」
これまでのように、言い包めることしか出来なかった。
薄紅色の少女の目が私をじっと見つめている。潤んだ目に紅潮した頬。直視してはならない。これは魔性の顔。蝙蝠や胡蝶等、己の欲に弱い立場の者の心を悪魔にしてしまう魔性の表情。少女を大切に思えば思うほど、私は彼女の視線を真っ直ぐ捉えられないままだった。
少女はどう思っているのだろう。しばし、私を見つめてはいたけれど、やがて力無く視線を落とし、抱きついたまま俯いた。
「――分かった」
か細い声で、彼女は素直な返事を寄こしてきた。
「貴女がそう言うのなら、そうする。わたしは貴女のお姫様だもの。そして、貴女は――」
「君の王子様」
見上げてきそうなその頭をそっと手で押さえ、そのまま撫でる。
嬉しいのだろうか、少女は顔を上げるのを途中でやめて、そのまま黙って頭を撫でられていた。撫でられるのは好きらしい。私も撫でるのは楽だった。だって、こうすれば、少女の悩ましい表情を直視しなくて済むのだから。
――王子様、か。
腐るほど彼女に言い聞かせてきたその単語に、内心溜め息が漏れる。
最初は少女を騙す為だった。美味しそうな蜜を持っている世間知らずの子供を狙っただけのこと。卑怯だからと身を慎めば、この世界では生きていけない。まだ、誰にも吸われたことのない美味しそうな蜜だけを目にして、その入れ物でしかない少女をいかに従わせるかだけを考えて、私は近づいた。
一人震える幼き花。お姫様扱いしたのはとっさの思いつきでしかなかったはずだけれど、思っていた以上にうまくいってしまった。下手したら、あの場で命も奪っていただろう。
そう、最初から私たちの関係なんて虚構でしかなかったのだ。全ては蜜をいただくためのお芝居。哀れな少女を騙して食べてしまうためだけの演技だった。
あれから取り返しがつかないほどに時間は経ち、思い出は積み重なり続けた。
今や私はこの子の王子様を辞める気がない。
全てはあの瞬間に決まった。蜜を吸われて朦朧とする少女を抱きしめたあの時。あまりにも上手く行った喜びと引っかかり。罪悪感だったのだろうか。きっかけはどうあれ、寝かされて、意識を薄れさせつつもなお、私を疑う気の欠片もなかった彼女の目をみた瞬間、私はどうしてもそれ以上穢せなくなってしまったのだ。
あの日から、この子はある意味で本当に私のお姫様になってしまった。
守らなくては。何も知らないこの子を、野蛮なものから遠ざけなくては、と、奇妙な使命感に囚われてしまった。おかしい、変だ、そんな自覚はしているけれど、変えようと言う気にもならない。
しかし、月の女神よ、教えて欲しい。
王子様とは何なのだろう。無垢な少女に何も教えず、危ないものから全てを遠ざけ、安全な場所に安全な夢の中に閉じ込めてしまう者は、はたして王子様なのだろうか。
剣も持たず、魔女も倒せない。自分だけのお姫様を作っていながら、人質に取られてしまうほど間抜けな王子様なんて何処に居るのだろう。
食虫花も倒せないまま、こうして虚しい嘘でお姫様を安心させることしか出来ないなんて。
「食虫花様はわたしを立派なお姫様にしてくれるって言っていたわ」
ふと、少女が私に言った。
「立派なお姫様?」
訊ね返すと、少女は私に抱きついたまま頷く。
「――うん。王子様を安心させましょうって。此処に居る間は、わたしはお姫様だけれど、食虫花様の言う事を一番に聞いていなくてはいけないんだって」
その様子からは食虫花に対する恐怖を感じられない。
肉体的暴力はもちろん、精神的な暴力も向けられていないのだろう。きっと、今はまだ私が反抗的な態度を取ってきていないからだろう。飽く迄も私は迷っているだけを演じていた。わざわざ怒らせて自分の未来を閉ざすようなことはしてこなかった。
そのお陰かもしれない。しかし、不安定で危険な事には変わりない。もしも私が少しでもおかしなことをしたならば、少女の待遇は急激に変わってしまうだろうから。
「……そう言われたのなら、そうするんだよ」
作り笑いは得意なものだ。
いつもぎらぎらとした欲望を隠して笑顔で花に近づくのだから。
「立派なお姫様になって、その姿を一番に見せてくれる?」
そう訊ねてやると、少女はくすぐったそうに笑みながら頷く。その姿を見ると、心が痛くなった。