6.花の子
時間が無駄に経過している。牢獄に囚われて身動きの取れないわたしに対して、食虫花は蜜吸いついでにそのことを伝えに来た。
喉の渇きを前に誇りも糞もない。さんざん尊厳を踏み躙られてきたというのに、わたしは彼女の差し出す蜜を受け入れていた。毒の蜜だということはもう分かっていた。飲めば飲むほど取り返しはつかなくなるだろう。それでも、今の私が与えられているのはこれだけ。これだけである以上、拒む事は出来なかった。
それだけ私は欲深い。喉が渇けば潤すことに迷うことも出来ない。
「いい子ね。そのままさっさと決断してくれたらいいのだけれど」
小言には反応せず、私は甘ったるい蜜だけを貰い続けた。
そんな私の様子にくすりと笑い、食虫花は耳元で囁く。
「貴女の大事な花の子は、既に客間に通してあるわ」
まるで優しい心でも持っているかのような笑みで、彼女は私の目を見つめてきた。
「喜びなさいな、まだ誰にも手を付けられてはいなかったそうよ。お姫様としてそれなりのお部屋に通してあるから、安心してちょうだい」
人質ということか。
私が意に沿わぬようなら、すぐさまあの同族の男にでもやられてしまうのだろう。もしくは、この女が残酷な欲を満たす道具にしてしまうのか。
どちらにせよ、最悪な事には変わりない。
「お願い。あの子には手を出さないで欲しい。私ならどんなに傷つけてもいい。殺したって構わない。あの子を傷つけないのなら、このまま物言わぬ食物になったっていい」
「愚かな人ね。食物なんていくらでもあるの。虫もいるし時には人間だっている。貴女に求めていることは……前々から言っているでしょう?」
――隷属になれ。
なったらすぐにこき使われるだろう。
私が命ぜられるのは月の城の偵察だろうか。もしくは、女神の城にて囲われているとかいうか弱き娘たちへの暴力だろうか。食虫花の噂の中にはそういうものもある。
何にせよ、この森の敵となるのは変わりない。
「ねえ、考えてもご覧。今の貴女とあの子を、月の女神様は助けてくれる? いいえ、あの人は今も固く閉ざされた城の中。貴女たちがこんな目に遭っていることだって知らないのよ」
だから何だっていうんだ。
月の女神の神聖さはこの大地と命が繋がっていることに他ならない。ここには万能な神なんておらず、自分の命運は自分で掴まなくてはならない。
そんな世界にいながら、どうして月の女神を憎めよう。
それでも、その気持ちを馬鹿正直に言えば、少女が危ない事は分かりきっていた。
「食虫花――」
私はそっと彼女に言った。
「何も私を隷属にしなくたっていいじゃないか。あの子を此処で今まで以上に養ってくれるのなら、私はただ働きしたっていい。心配せずともあの子は私の足かせだ。貴女の想像した通り、あの子に心を奪われているのだから」
必死に懇願するような私の姿に、食虫花は赤く冷たい目をじっと向けた。
考えている。私の言葉の真意だろう。何を企んでいるのか、何が隠されているのか、考え続けているのだろう。
読みとれたのか、読みとれなかったのか。
やがて彼女はそっと目を細め、潤んだ唇から言葉を放った。
「残念だけど、それは出来ない」
耳に入った途端に私は脱力してしまった。
「詰めが甘いわね、王子様。残念だけれど、隷属にならない限り自由にはさせない。期限はいつまでにしましょうか。あんまり長いといけないわね」
隷属にならずに済んだなら、忠誠を誓うふりをして逃げ出す事も出来たかもしれない。しかし、そんなことは食虫花にも御見通しだった。
希望を断たれて俯く私を見つめ、食虫花はふと優しげな声をかけてきた。
「ねえ、王子様。しばらくは待ってあげる。お姫様にだって会いたいでしょう? 今少しあの子と会って、ゆっくり考え始めてみてはどう?」
何を企んでいるんだろう。
期待よりもずっと不安の方が大き過ぎて、私はろくに反応も出来なかった。
だが、食虫花はあまり気にしていない。優しさでも持っていそうな微笑みを浮かべて私の顔を覗きこみ、続けて言った。
「あの子の希望も聞いてみたいでしょう?」
その言葉には含みがあった。
きっと、少女に会わせてしまうほうが私の心を揺さぶれると思ったのだろう。実際に、そうかもしれない。今はまだ自分の苦痛とだけ向かい合っているけれど、この目で直接此処に連れて来られてしまったあの子を目にしたら、それだけではいられなくなる。
二人して生き残るにはどうしたらいいか。無垢なあの子と向き合えば向き合うほど、分からなくなってしまうだろう。
「どうしたいか、教えて?」
優しく問われ、私は答えに窮した。
会わない方がいいかもしれない。いや、会った方がいいのだろうか。様々な予想が頭を巡って、決断が揺れ動いてしまう。
しかし、最終的に私に決定権を与えたのは、たった一つの願望――少女をもう一度この手で抱きしめたいという願いだった。
「会いたい」
私は素直に食虫花に頭を下げた。
「あの子に会わせて」
そう願うと、すぐに食虫花は牢獄から解放してくれた。しかし、勝手は出来ない。威圧感と少女を囚われている現実とに縛られて、私は大人しくこの屋敷の女王に従った。会話もないままに歩かされ、時折、毒の蜜の後味にくらくらと目眩を感じながらも、ようやくその部屋には辿りつけた。
食虫花が鍵を使って開けた先に待っていたのは、私に与えられた牢獄とは比べ物にならないほど豪勢な客間だった。
これらは全て人間がかつて作り、使っていたもの。そのままの状態で、あまり埃も被っていないのは、清掃に人間の手でも借りているからだろうか。
それはともかく、その人間が生み出した立派な部屋の隅っこでは、これまた森には絶対にない寝心地の良さそうな寝台の上にちょこんと座る真っ白な少女の姿があった。
森生まれの森育ち。私がただ口車に乗せてきただけの偽りの姫君にも関わらず、彼女はこの立派な部屋に見事に溶け込んでしまっていた。
そして、何よりも見逃せないのはその表情。私の姿を見て、こちらも状況を忘れて微笑んでしまいそうになるくらい、目を丸くして笑顔を向けてきたのだ。
――ああ、やっぱり彼女は状況を分かっていないのだ。
仄かな切なさと責任感を同時に噛みしめつつ、私もまたいつものように笑顔を作った。
「やあ、お姫様。待たせて御免ね」
食虫花の目なんて気にせずに真っ先に声をかけると、少女は寝台を降りて真っ直ぐ私の元へと飛び込んできた。抱きとめてやると、妙にいい香りがした。蜜だ。食虫花の毒の蜜に中てられているせいか、いつも以上に少女の蜜の香りが清純なものに感じられる。
ふらつきそうな身体を抑えて、私は少女の温もりをしばし楽しんだ。
その光景を、食虫花は容赦なく見つめている。そんな食虫花を、少女は私の胸の中からじっと見上げた。怯えてはいない。乱暴な事は一切されていないという証拠だろう。
「ねえ、食虫花様」
少女は何の疑問もなく食虫花に呼びかけた。
「王子様と何の話をしていたの?」
私ではなく、彼女に聞いたのは何故だろう。もしかしたら、心の何処かで感じ取っている不安があるのかもしれない。この場を支配しているのは食虫花ただ一人。幼く、世間知らずでいても、それをしっかりと分かっている。
食虫花は笑みを深め、少女に視線を合わせながら額に手を当てた。その姿にはまるで可愛がる気持ちでもあるようにさえ見える。
「難しいお話よ。それよりも、二人きりにしてあげるから、王子様との時間を大事になさい。よく聞いて、よく考えて、お返事をするのよ」
操るような言葉。無垢な花の子を言い包めるのなんて簡単なのだろう。まだ、この子が胡蝶などの虫ではなくてよかった。もしそうだったら、きっとこんなにも大事に扱ってはくれなかっただろうから。
少女は不思議そうに食虫花を見上げていたが、暫くしてハッとしたように頷いた。
その返事を待ってから、食虫花はゆっくりと立ち上がり、怪しい笑みで私を見つめる。
「いいわね、王子様」
わざとらしくそう呼んで、彼女は告げる。
「よく考えて」
その一言で十分だった。