5.お屋敷
そこはまるで本物のお城のような場所だった。
きっと月の女神様の住まわれるお城はもっと豪華なのだろうけれど、それでも、男が案内してくれた先に待っていたのは、わたしの王子様がくれた草花のお城よりもずっとずっと立派だった。
けれど何故だろう。急にわたしは今日まで当り前に過ごしてきた、その偽りのお城に帰りたくなった。あのお城は温かい場所だった。きっと王子様がそんな空気を作りだしてくれていたお陰だろう。特に、魔女が住んでいるというこの立派なお屋敷を前にしていると、わたしが住んでいたお城の温かさと安心感ばかりが記憶の中でも強調されてしまう。
そのくらい、このお屋敷は冷たい空気に包まれていた。
「ここが……花の魔女のお屋敷なの?」
「そうだよ」
わたしを連れてきた男が頷いた。
「お姫様。此処にいらっしゃる魔女は残酷な噂もある御方。けれど、君の王子様次第で優しくもなれる。もしかしたら君は今日から此処のお姫様になれるかもしれないね」
「ここの……?」
言っている意味がよく分からなかった。
けれど、そんなことはどうだっていい。彼女が此処に確実にいるというのなら、訪ねずにはいられなかった。迷いなく進むと、男は微笑しながら同行した。まるで小馬鹿にしているかのよう。それでも、今は気にならなかった。それに、ここまで連れて来てくれた恩もある。
「ねえ、おじさん。魔女ってどんな人なの?」
「食虫花様、だよ。きっと君がとてもいい子にしていれば、気に入って下さるだろう。とても美しくて、強い魔力を持った女神様のような人だよ」
「女神様……」
何故だろう。その響きに不吉なものを感じた。
この大地を支配しているのは月の女神様だと幾らなんでもわたしだって知っている。そしてその月の女神様を守護されているのが太陽の女神様。この森で崇拝されているのはその御二人だけ……であるはずなのに、まるでこの男は本物の神様よりも食虫花様とかいう魔女の方を崇拝しているように見えた。
気のせいだろうか。気のせいだといいのだけれど。
ぎいっと音を立てて、お屋敷の扉は開いた。
薄暗いお屋敷の中はしんとしていて、何処か埃っぽいところもある。けれど、男が一言声をかけると、何処からともなく年若い女性が現れた。
――胡蝶。
何度かこの目で見たことがある種族の者だ。何故だか王子様は彼らがわたしに近づくのを毛嫌いする。だから、あまりまじまじと見たことはなかったけれど、それでもとても美しくて儚い印象を持っていたのは確かだった。
「鳳、君だけか。食虫花様は?」
男がやや乱暴に訊ねると、鳳と呼ばれた胡蝶の女性は怖気づきつつも頭を下げた。
「地下室です。例の――」
言いかける彼女に男は首を振った。
「いい、分かった。とにかく、この子がお姫様だ。お前はこの子を部屋に案内してさしあげなさい」
強く命ぜられて、鳳は再び頭を下げた。
美しく愛らしい胡蝶。しかし、わたしがこれまで見てきた胡蝶に比べて、この鳳という女性はあまりにも儚すぎた。消え入る前の炎のよう。それでも、独特な容姿は魅力的で、王子様という人がありながらすっかり惚けてしまうくらいだった。
手を引かれて黙々と歩く鳳に、わたしはしばらく黙ったまま連れられた。
しかし、此処まで案内してくれた男も正面玄関もとても遠くなってしまったのを感じた頃になって、ようやくわたしは彼女に声をかけることが出来た。
「ねえ、お姉さん……」
「鳳とお呼びくださいませ」
「じゃあ……鳳。何処へ向かっているの?」
「貴女のためのお部屋で御座います」
「わたしのための部屋って? 食虫花様は何処にいらっしゃるの? わたし――」
「食虫花様はすぐにお見えになります。それまでお部屋でお待ちください」
冷たく返答されて、口ごもってしまった。
段々と心細くなってきた。鳳という胡蝶は美しいけれど、わたしの王子様の半分も血が通っていなさそうなくらい淡々としている。
それでも、わたしはめげずに再び口を開いた。聞かねばならない事があったからだ。
「ねえ、ここに王子様が来ているんでしょう?」
一瞬だけ、鳳がわたしを振り返る。その目にまともに見つめられ、何故だか身体が疼くのを感じた。鳳も少し気付いたのだろうか。すぐにわたしから目を逸らし、再び歩きだした。
「王子様かどうかは分かりませんが、貴女をとても大切に思っている蝙蝠の女性はいらしてますよ。今、食虫花様ととても大切なお話をなさっています」
――蝙蝠?
王子様の種族名だろうか。じゃあ、此処に連れてきた男も蝙蝠なのかもしれない。それにしても蝙蝠。今更彼女に当てはめるのにはしっくりとこない。やっぱり彼女はわたしにとって王子様以外の何者でもなかった。
「彼女に会えるのかしら。食虫花様はどうして彼女に用事があるの?」
「さあ、わたくしには難しい事はさっぱり。それは後で食虫花様に直接お聞きくださいませ、お姫様」
淡々とそう言って、鳳はある部屋の扉を開けた。
その先に広がるのは、王子様がわたしに与えてくれたお城以上に広くて立派な部屋だった。きっと人間であったとしてもそれなりの身分の人のお部屋に相当するだろう。
――ここがわたしの部屋?
びっくりするくらいの待遇だ。
けれど、何故だろう。わたしが入ってすぐに、鳳が一礼のみをして扉を閉めて去ってしまうと、寂しい気持ちが一気に押し寄せてきた。
たしかに立派なお部屋だけれど、やっぱり王子様がわたしにくれたお城の方が落ち着く。
植物の一切のない壁に覆われた場所。おとぎ話でしか聞いたことのない空間にたった一人。何を材料につくられているかよく分からない、やけに座り心地のいい椅子に寝台。どれも森に生きるわたしとは無縁のものばかりだった。わたしが知っているのは倒木の椅子と落ち葉の寝台なのだから。
――帰りたい。
用事とはいつまで続くのだろう。
まさか一生なんてことはないだろうか。それまでわたしもずっと此処で待っていなくてはならないのだろうか。
――今日から此処のお姫様になれるかもしれないね。
此処まで連れて来てくれた男の放った一言を思い出した。
あれはどういう意味なのだろう。