3.お迎え
――来ない。
立派な月を眺めながら、わたしは何度もそう思った。
溜め息は飽きることなく漏れだしたけれど、何の変化ももたらしてはくれない。わたしが期待しているのはただ一つの事だけ。
真っ黒な翼を畳んで王子様が現れる事だけだ。
けれど、幾ら待っても彼女は現れてくれなかった。
どうしてだろう。来てくれるって約束したのに。それほどまでにわたしがしたことは罪深いことだったのだろうか。ならば、その理由を教えてほしい。
本当ならば、今日の今頃教えてもらえるはずだったのだ。
――変ね。
此処に居なさいと教えられた小さなお城。物言わぬ草花の蔓と木々の枝で出来た小さな住まい。それが本物のお城じゃないことなんてわたしは分かっている。けれど、わたしの王子様は此処をお城だといった。だから、わたしにとってはお城のままだ。
お姫様のわたしは王子様を待つだけ。
でも、今日ばかりはじっとしていられなかった。
――いくらなんでもおかしい。
いつもはお日様が沈みきる前には来てくれるのだ。
どんなに前の日にわがままを言って叱られても、次の日には何事もなかったかのように会いに来てくれる。もう来てくれないんじゃないかと思うような別れ方をしても、いつも来てくれるのだ。
その上、彼女は約束してくれた。
会いにくるって。昨日怒った理由もちゃんと教えてくれるのだって約束してくれた。
だから、来ないはずなんてないんだ。
お城を抜け出して、一歩外に出てみれば生ぬるい風がわたしを出迎えた。
この大地を守っているのは月の女神様。森の何処かで本物のお城のなかからわたしたちを見守っているのだと大昔に母は言っていた。
けれど、それにしてもこの森はとても危険なものだ。わたしの王子様は常々言っていた。お城の外には悪い魔法使いがいっぱいいる。だから、お姫様はずっとお城に籠っていなければいけない。彼女がそういうのだからそうなのだろう。特に疑問にも思わず、わたしは彼女に従ってきた。
だって、彼女が好きだったのだもの。
城に閉じこもるわたしに近づく者がいれば、彼女が警戒するならば悪人であったし、そうでなかったとしてもお客様止まりの誰か。
そのどちらであるのか、決めるのは彼女。わたしは王子様に従って居ればよかった。
――それなのに。
わたしを出迎えた月の森。夜風を受けてざわざわと枝を揺らしている。怖くないわけがない。思い返せば、彼女に出会って以来、三カ月ぶりに一人きりで森を歩こうとしているのだ。
でも、行くしかなかった。歩み出すしかなかった。
このまま待っても彼女が現れない理由に心当たりがあったからだ。
――ここは残酷な森なの。
彼女の声が甦る。
――私だって気を抜けば、誰かに食べられてしまうかもしれない。君も同じ。いやそれよりもっと酷い。私以外の者に話しかけられたとしても、心を許してはいけないよ。たとえそれが美しい胡蝶であったとしても。
「ああ……わたしの王子様……」
森は果てしなく広い。
ここにいるのはわたしの知らない者ばかり。だから、彼女を食べてしまうような者がどんなものなのか、わたしは全く知らない。
――貴女は誰かに捕まってしまったの?
ふと、何かの気配に気づいて、振り返った。すると、視線の先に風変わりな容姿の男がいた。にやにやと笑いながらわたしを見つめている。その雰囲気は、どこか私の求めている彼女の姿に似ているものがあった。もしかして、同種族の人なのだろうか。
「やあ、お姫様。夜遅くにお城を出ては危ないですよ?」
からかうように言われ、わたしは怖気づいた。
きっと彼女が此処に居たら近づかぬように厳しく叱るような類の人物なのだろう。しかし、だとしても、当の彼女は何処にも居ない。話を聞ける相手も、彼以外に此処にはいなかった。
「ねえ、おじさん」
わたしは意を決して彼に話しかけた。
「貴方に似た雰囲気の若い女の人を探しているの。おじさん、知らない?」
「私に似た若い女ねえ」
何故だか笑みを浮かべたまま、その男は顎をかく。
「もしかして、君を此処に隠した漆黒の王女様のことかな?」
漆黒。彼女の事だ。でも――。
「彼女は王子様よ。わたしをずっと守ってくれてきた。今日もわたしのところに来てくれるはずなのに……なのに……」
泣き出しそうになって、必死に顔を背けた。
見ず知らずの人の前で泣くことなんてしちゃいけない。それでも、涙はぽろぽろと零れ落ち、頬を伝って地面へと向かっていく。
「おやおや、せっかくの御顔が台無しだ。泣くのを御止めなさい。心配せずとも、君の王子様の居場所はよく知っていますよ」
「本当に?」
真っ先に喰いつき、ふとすぐに彼女の言葉を思い出す。彼がもしも悪人だったらどうしよう。嘘を吐いているなんて可能性はないだろうか。
しかし、そんな疑問も吹っ飛んでしまった。
「彼女は今、この森の片隅にあるお屋敷に招かれているよ。訳あって、もう外に出ることが出来ないんだ。会うには君の方が向かうしかない。そのお城で待っていても、もう王子様は君のところに向かえなくなってしまったのさ」
「どうして……? どうして、そんなことに?」
「その屋敷の主人である魔女のせいだよ、お姫様。食虫花様という御方でね、君の王子様に大切な用事があるのさ。彼女もしばらくは帰れないだろうね。ひょっとすると一生帰れないかも」
「そんな……」
「どうする、お姫様。もしも君が彼女に会いたいのなら、そこに案内してあげてもいいのですよ?」
「場所を知っているの? 案内して!」
「いいですよ」
目を細め、男はゆっくりと近寄ってきた。
その異様な雰囲気に身が竦んだ。何かを企んでいる。直感的にそう思った。しかし、彼を避ける事なんて出来なかった。だって、彼女の――わたしの王子様の居場所を知っている男なのだ。どうして蔑ろに出来るだろうか。
幸いにも、男は飽く迄も紳士的だった。きっと、王子様が追い払ってきた者たちとは違うのだろう。
「さあ、行きましょう」
わたしの腕をそっと引っ張って、男は歩きだした。