20.我が家
鳳。食虫花に囚われ、残酷にも愛される胡蝶の女。隷属になった以上、彼女が考えるのは主人の幸せだけのはず。それでも、妖しげな導きが私たちにもたらすのは、確かな抜け道と次第に近づいて来る出口の気配ばかりだった。
どうして、この女は私たちを逃がしてくれるのだろう。
持ちかけたのは彼女の方だ。私はそれに乗っただけ。緊張と恐怖で息が詰まりそうな中、ただ花の少女に頼られている実感だけを支えに、私は毅然とした態度を装い続けた。鳳がいつその本性を明らかにしてもいいように。どうせ、相手は胡蝶。蝙蝠相手に強く出られるはずもない。厄介があるとすれば、彼女のすぐ傍に食虫花が潜んでいることだが、甘い香りは遥か遠くにしか感じられない。
大丈夫。きっと、大丈夫。
そう信じて、私は鳳に続いて薄暗い地下を歩いた。花の少女の手の感触を何度も確認しながら、引っ張っていく。この重みが有難かった。もしも一人きりで囚われていたらと思うとぞっとする。きっと今日まで持たなかっただろう。初日に隷属に下っていた可能性だってある。
この子のお陰で、私は罪人にならないままでいられた。
――では、鳳は。
此処に居る間に、蛹から羽化させたのは食虫花だと聞かされたことがある。初めは羽化したばかりの瑞々しいその身体を食らうために拾ったのだと。
胡蝶を隷属に誘うのは稀な事でもないらしい。しかし、大抵は私と同じように月の女神への信仰心があるから拒み続けて後に引けなくなる。隷属に堕ちるとしても、それは心を壊したか、身体を壊したかという時だけ。または、食虫花の方が我慢できなくなって必死に命乞いをする胡蝶を喰い殺してしまう。
それらの危険をすべて潜り抜けて、鳳は無事なまま隷属に下った。なってしまった以上、食虫花を裏切ったりは出来ないだろう。もちろん、食虫花の方も鳳を裏切れない。その絆は単なる口約束などではない、大きくて融通の利かない力に縛られたもののはずだ。
それならば、これは罠である可能性が高いだろう。罠だとしたら、どんな罠なのか。木の棒程度の武器で少女を守りながら切り抜けられるものなのか。
警戒する私を時折振り返りつつも、無表情のまま歩む鳳からは何も読み取れない。
少女は私に引っ付いたまま慎重に歩き、音を立てないように気を付けている。仄かに甘い香りが薄らと漂い、進むにつれ警戒心が強まっていく私の鼻孔をくすぐっていく。その香りに取り巻かれつつ、見えない空気の流れを感じた時、私ははっと行く先に待っているものに気づいた。
――外だ。
風の流れを感じる。暗く薄暗いこの地下の道がどれだけ続いているかなんてわからないけれど、少なくとも鳳が連れて行こうとしているところは外に繋がっている。外に続く何かがある。
内心で期待が膨れ上がるのを感じて、私は必死にそれを抑え込んだ。
出口かはまだ分からない。こうして期待して進んで、向かった先で気配を殺した食虫花が待ち構えていることだって大いにあり得る。逃げられる可能性よりも、罠である可能性の方が高いのだ。鳳は食虫花の隷属。所詮、妾に過ぎない。
「警戒なさっていますね」
薄暗い空間の中、控え目かつ恐ろしく冷えた声が聞こえてきた。
鳳の目が私を見つめている。ただし、こちらを咎めるようなものは一切含まれていない。彼女の目にあるのは何処までも空虚だけ。だが、空虚しかないのなら、どうして私たちを外まで案内しようというのだろう。やっぱり、この胡蝶を信じ込むことは出来なかった。
「ご安心ください。食虫花様には内緒です」
「――私はただお前を殺すために追いかけているだけだ」
少女が怯えるのも構わずにそう言ってやると、鳳は少しだけ目を細めた。笑っている……のだろうか。そうしていてなお、決して明るいものではない。破れかぶれという言葉が似合いそうな表情だった。訝しむ私を見ると、鳳はすっと前へと向き直り、小さな声で呟いた。
「……そうでしたね」
そうして背を向けてたったの数歩。私にはしっかりとは見えなかったけれど、鳳はそつのない動きでそれに手をかけた。そうして開かれるのは、扉。開けられた途端に風と外の音と月光が舞い込んできて、全身の毛が逆立つほどの刺激に包まれた。
久しぶりのその感触。かつては当たり前だったその感覚。あまりにあっけなく戻ってきたものだから、思わず呆然としてしまう。少女にそっと寄り添われ、様子をうかがわれてやっと、我に返った。
「……今のうちよ」
鳳はもう《殺されそうになって追いかけられる隷属》を演じるつもりもないらしい。声を潜めたまま、私たちを扉の外へと促している。
「ぼんやりとしていたら今にあの方は来てしまうでしょうね。そうなれば、貴女たちの命は今度こそないかもしれない。そんなのは嫌でしょう?」
早口で言われ、私は少女と共にそっと扉へと歩んだ。外へと顔を出すと信じられないくらいの美味しい空気が私達を迎え入れた。やや渋った草の香り。湿気を含む風だが、この恐ろしい屋敷の中よりもずっとましだった。まさか、この感覚を再び味わえるなんて。感動、というよりも衝撃というほうが相応しい。少女の手を握ったまま共に土を踏みしめると、じわりと柔らかい感触が恐ろしく愛おしかった。
「行って――」
鳳の声に背中を押され、私ははっとした。
ここまで案内してくれた鳳。振り返ると彼女は扉から一歩も出ないところで踏みとどまり、やや暗い色を含んだ表情で私たちを見つめていた。
「鳳……」
何も知らないだろう少女が手を伸ばしている。
「ねえ、貴女も一緒に行こう。鳳なんて名前忘れて、一緒に外に行こうよ」
酷なことだと私なら分かる。
けれど、少女を咎めることは出来なかった。私だって同じ思いだ。罠ではなかった。鳳がいなかったら此処まで逃げられなかっただろう。主人の命令を無視し、違反の一歩手前まで踏み込んでまで私たちを救ったのはなぜか。裏切ることにならないわけがない。このまま此処に残しても、最悪、食虫花に殺されても文句が言えないかもしれない。
それでも、私は察してしまった。鳳は、食虫花の元を去りたいというわけではないのだ。
「――どうして」
思わず、私は訊ねた。
「どうして君はこんなことを……」
私の知っている魔女の隷属はもっと不幸なものだ。裏切りたくても裏切れない苦しみを抱えているからこそ、命じられた範疇でのみ過ごすことしか出来ない。自分では何も考えることが出来なくなってしまうのが魔女に囚われた胡蝶の姿。
しかし、鳳は――。
と、戸惑う私を見つめ、鳳は微笑みを浮かべた。ぞっとするほど美しい。その眼差しに、口元に、喉より漏れる微かな声に、美しく滲む毒のようなものが含まれている。
少女はきっと気づいていない。困惑したまま鳳と私とを見比べているばかりだ。
「――わたしは」
鳳は言った。
「食虫花様を愛しているから」
その一言だけで、十分な答えとなった。
羽化してからずっと食虫花の傍に居続けた彼女。追従という形でその陰謀に加担している。欲望のままに貪られることが続いても、彼女はめげることなく隷属であることを怨まない。ただし、一つだけ――そう、たった一つの点だけ、彼女は不満に思っていたことがあったのかもしれないと一つの可能性に気づいた。
それは、他の隷属のこと。
食虫花の関心が私とこの少女に向いていたということ。有能な蝙蝠の隷属を欲しがっただけのことだろうけれど、食虫花がほかの女を捕らえたというだけでも鳳にとっては妬ましいことこの上なかったとしたら。
そこまで考えて、すぐにやめた。
こうしている間にも、食虫花は来るかもしれないのだ。
何もわからぬままの少女の左手は虚しく伸ばされたまま。これから先、もっと成長すれば、今の鳳の姿の意味も知るときが来るかもしれない。そう、その時が来るように、今度は邪魔してはいけないのだ。
「おいで」
鳳を見つめたままの少女の右手を引っ張り、私は囁いた。
「二人で行こう」
「で、でも……」
少女は驚いたように私を見上げた。だが、私の表情と鳳の表情とを見比べ続け、次第に何かを受け止めたように言いかけたらしき言葉を引っ込めた。
その代り、少女は鳳を振り返り、ほんの小さな声で告げた。
「鳳」
掴まれることのなかった手を再び伸ばし、今度は自分から鳳の体に触れる。そうして、少女が何をしているのか、なんとなくだけれど分かった。別れ際の接吻のようなものだろう。或いは、呪いのようなものかもしれない。嫉妬しないなんて言えば嘘になるけれど、私は黙ってその場を見つめた。
「ありがとう。いっぱい、ありがとう。どうか、無事で。無事でいて」
唱えるような声だった。
きっとそれだけ大切にされたのだろう。お姫様として。たとえそれが偽りだったとしても。夢を見せてくれたのだろう。だから泣き出しそうな顔で別れを告げられるのだろう。
鳳はそんな少女を見つめ、少しだけ驚いたような表情を見せた。しかし、すぐにその表情を先ほどのような笑みで塗り替えると、少女の声に負けず劣らず静かな声で呟くように答えた。
「大丈夫ですよ、お姫様」
とても穏やかに、まるで、幸せそうに鳳は言った。
――わたくしは妾ですから。
それで最後だった。
これ以上の名残も惜しまずに扉は閉められ、引き返す気にもならない退路は断たれた。広すぎる空間に残された私は、たった一人の宝物を抱えたまま、しばらく屋敷を見つめた。
おぞましいほどの沈黙。中ではまだ私たちを捜しているのだろうか。そして、外まで導き、戻っていった鳳は――。
考えるのはここまでだった。これ以上はもう、私の手には負えない。弱肉強食のこの世界において、私が守るべきはただひとつ。そのかけがえのない温もりを手のひらで確かめながら、私は歩みだした。
まだ追従しか知らない少女。王子様とお姫様という夢から覚めきれていない彼女。そうしたのは私。独占するために演じ続け、演じさせ続けたお芝居。
けれどそれも今日で終わりだ。
「行こう」
鳳の消えた扉を何度も振り返る少女に対して、私は言った。
「御城に帰ろう」
すると、少女は私を見上げた。薄紅色の目。真っ白な髪。仄かに香る蜜。柔らかな肌には傷一つないまま。顔立ちも、身体付きも、何もかも此処に来る前とはあまり変わっていない。
それでも、見上げてくる少女の目の輝きの変化は、鈍感な私でもさすがに気付けた。
「うん」
少女は頷き、寂しげに笑う。そして、言った。
「帰ろう、私たちの『お家』に」