2.お姫様
その少女に名前は無いらしい。
真っ白な髪に薄紅の愛らしい目。彼女が纏っている衣は少し汚れてしまっていたけれど、肩の部分に施された刺繍は、間違いなくこの麗しい月の森に古くから伝わる由緒正しき刺繍だった。
彼女は白い花の一族。人間の少女のように見えるけれど、その正体は甘い蜜を生みだす花。本人も気づかぬうちに甘い香りで様々な者を呼びこみ、蜜を吸わせることで子孫を残そうとする花の娘だ。
だが、彼女は親元を離れたばかり。どうやら大切な事を全く教わらずに独り立ちしてしまったようだ。その理由は知らないけれど、いくらか予想はつくものだ。最低限の事すら教えずに親が放任しているという可能性もあるが、最低限の事すら教える前に親が死んでしまった可能性もある。
彼女はどちらだろう。どちらでもいい。一人になった彼女を誰よりも最初に見つけたのは誰でもない私だったのだから。
――初めまして、お姫様。
自分でも笑ってしまうくらいの台詞を並べて、私は少女の気を引いた。理由は簡単なものだ。飢えていたからに他ならない。私の狙いは彼女の身体に秘められている蜜。まだ誰にも口を付けられていない蜜を堪能し、場合によってはそのまま死ぬまで逃がさない気でいた。
私に名はない。しかし、夜の空を飛びまわり、夜更かしをしている花の者たちを言葉巧みに操って捕える私たちは、蝙蝠と呼ばれていた。
蝙蝠。その言葉すら彼女は知らないのだろう。もしも知っていたとすれば、少なからず私を拒んだことだろう。蝙蝠は白い花の一族の天敵でもある。私がその気なら、彼女の命を奪う事なんて簡単だ。白い花の蜜を求める生き物は、沢山いるけれど、その中でも蝙蝠は厄介なものだった。
しかし、少女は無垢なものだった。
ちょっとお姫様扱いしただけですぐに気をよくして、私に抱きしめられるままに身を委ねてきたのだ。何もかも分からぬお嬢さん。その柔らかな唇を奪い、さっそく初めての蜜を奪うのは恐ろしいくらいに簡単だった。
けれど、何故だろう。吸い始めてすぐに、私は何故だか罪悪感を覚えた。そんなはずはない。これまでだって花を枯らしたことは幾らでもあったのだ。何も知らない花をそっと捕え、夢見心地のままにあの世へと送ってきたことは何度もある。その事に対して罪悪感なんて覚えた事なんてなかったはずだ。
なくていいのだ。私は蝙蝠なのだから。
それなのに、私は欲を満たせるまで蜜吸いを継続する事が出来なかった。気を失いかける少女を抱きとめ、そのまま寝かせて覆いかぶさってみても、それ以上、蜜を吸うことが出来なかった。理由は簡単だ。彼女を殺したくなくなった。それだけだった。
何故、どうして。
私は分からなかった。
あの日以来、私は彼女を誰にも知られない場所に隠した。お姫様のお城だと言ってやると、喜んで言う事を聞いてくれた。それから毎日、違う花を襲って蜜を吸い、欲を十分満たしてから隠してある彼女に会いに行った。蜜には手をつけないまま。それの繰り返しだった。
時折、彼女の蜜を狙って野蛮な虫どもが入り込んでくるようだったが、皆、私の匂いを感じて何もせずに逃げてしまう。野蛮な者がいたとしても、彼女の悲鳴を駆けつけたらすぐに駆けつけて追い払った。だから、彼女は何も知らないまま。私が蜜を狙って近づいたことも、自分が蜜を持っている事さえも、知らないまま時は過ぎていった。
少女はやがて大人になる。
当り前のことだけれど、私は何処か忘れていた。
出会って三カ月経とうとしていた今宵、花の少女は初めて私に蜜を流し込んだ。彼女は自分が何をしたか分からなかったのだろう。でもこれは、私にとっては大事だった。
我慢できない程の濃厚な蜜。
三ヶ月間ずっと手をつけないでいた少女の蜜は、いつの間にか濃厚なものとなっていた。ほんの少し流しこまれただけで甘みが恐ろしく広がり、あれから数時間経った今でも消えてくれない。
今日だってちゃんと蜜を吸ってから会いにいったのだ。腹を満たしてから、大丈夫だと判断してから。それなのに、あの蜜を与えられた途端、異常なほどの渇きが訪れた。あと少し、彼女が蜜を流し込んでいたら、私は冷静さを失って彼女を襲っていただろう。潤んだ瞳。紅潮した頬。触り心地のいい肌に、柔らかな手足。思い出すだけで喉が渇いて仕方ない。
――駄目だ……。
この三カ月。私は自分でもよく分からない心情だった。理由もはっきりと分からないまま少女を守り続け、毎日毎日顔を見に行く。それは、その場だけの愛の囁きを交わした蝙蝠の男には抱いたことのない感覚だった。蜜吸いついでに別の白い花の女に普段口にしているものを聞き、少女が枯れてしまわないように配慮もした。
――これは、恋なのだろうか。
よく分からない。
しかし、分かっているのは、喉が渇いている今もなお少女を傷つけることだけはいやだということ。
彼女は蜜を吸われたがっていた。しかし、求められるままに蜜を吸ったらどうなる? 蜜吸いは恐ろしい行為でもある。胃の小さい虫ならともかく、大食いのケダモノである蝙蝠との蜜吸いだなんて、まだ成長途中の少女には耐えられない行為だ。だったら適当な胡蝶でも探して適度に蜜を吸わせてやればいいじゃないか。
……いや、そういう問題じゃない。それもまた苦痛だった。彼女が私以外の誰かに口を付けられるなんて嫌だ。私以外の手で、まだいたいけな少女が官能的な声をあげるのは嫌だった。
彼女にはまだ早い。もう少し成長してから。そう思ってきたというのに。
「所詮、彼女は花なのか……」
喉の渇きに身をよじりながら、私は力なく呟いた。
その時だった。
風向きが変わり、今まで気付かなかった香りが漂ってくる。その香りが私の鼻孔をくすぐった瞬間、少女の蜜で呼び起こされた渇きが一気に増大し、苦しくなった。
――何だろう。
風の吹いて来る方向。誰かいるのだろう。それも、白い花の少女とは比べ物にならないほどの大物だ。濃厚な蜜の香りを拡散させることで、吸われたがっている。蜜吸いをしてくれる者を探しているのだ。
ふらりとそちらに向かい、黙々と進む事しばらく。
ようやくその香りの主は見えてきた。
その姿が目に入った途端、私は息を呑んでしまった。
それは美しい花の女だった。夜の世界を照らす月よりも明るい姿。白い花の一族ではあり得ないブロンドの髪が夜風に揺れ、人間どもの持てはやす宝石のように赤い目が一点を見つめている。香りを風に乗せ、誰かが近づくのを待っているのだろう。顔立ちは非常に綺麗で、その肌も触りたくなるほどすべすべとしている。だが、何歳くらいの人物だろうか。老いているようにはとても見えないが、その堂々とした雰囲気は若年のものではあり得ないだろう。
「あら、お客さん?」
ふと彼女がこちらに気付いた。
その目に見つめられ、引き寄せられるように一歩、二歩と近づく。
「蝙蝠のお嬢さんね。私の蜜を吸いに来たの?」
花のくせに私を全然怖がっていない。
だが、そんな事どうでもよかった。私が欲しているのは蜜。目の前にいるこの女ならば、私が飽きるほど濃厚な蜜をくれることだろう。黙ったまま近づくと、花の女は微笑みを深めた。
「良いわよ、おいでなさい」
両手を広げ、私を呼びこむ。
その誘いのままに、私は彼女の胸に抱かれた。その途端、ぞっとするくらい美味な蜜が肌に沁み込み、思わず怯んでしまった。こんな事は初めてだ。私の方が花に圧倒されているなんて。
「可愛い子。名前はあるの?」
「いや……名前は……ない」
どうにか答えると、花の女は私の顎に手を添えた。
肌が触れる度に、彼女の身体に溜められた蜜が私の肌を襲ってくる。しかし、これは序の口だった。まともに動けないまま唇を重ねられると、今感じている以上に甘い蜜が入りこんできたのだ。飲み込むと、まるで酒でも飲まされたように頭がくらくらとした。
美味しくて、狂いそうだ。
――しかし、なんか変だ。
「あらそう、可哀そうに。私の御友達の蝙蝠も名前がないの。貴女よりも一回り上だけれど、とても頼れる男性よ」
「蝙蝠の……男?」
「ええ。ちょうど貴女のような蝙蝠の女性を探していたの。なかなか会えなくて困っていたのよ。だから、貴女に会えて本当に嬉しいわ」
真っ赤な目。
その目に見つめられている内に、ふと私は自分の身体に起こっていることに気付いた。
震えている。何故だろう。美味しい蜜に感動してのことか。いや、違う。震えているのは身体だが、同時にぴりぴりと痺れているのを感じる。舌が、喉が、胃が、ぴりぴりとして頭がずんと重たくなってきた。それは何故か。すぐに分かった。
――蜜だ。
気付いてすぐに彼女から離れようとしたけれど、すでに身体は言う事を聞かない。それでも呻きながらもがこうとすると、麗しい容姿からは想像も出来ない力で花の女は私を強く抱きしめた。
花の女の蔓が伸び、動けぬ私の手足に絡みつく。
「残念ね。もう貴女の自由な日々はおしまい」
静かに囁き、彼女は更に蜜を忍ばせてくる。
「隷属になってその心身を捧げるのか、物言わぬ食べ物となってその身体だけを捧げるのか、貴女の希望を聞かせてくれる?」
語りかけるような声に震えが起こった。