16.ご馳走
気が遠くなっていく。
その事実の確認だけが何度も何度も頭の中で繰り返された。
強い痺れと痛みが走り、熱を帯びつつも冷えたものが私の身体を少しずつ侵している。
蔓に貫かれてしまったのだと気付いたのは、倒れそうになって床についたその手が、自分の血で穢れてしまったその時だった。
――苦しい。
それからは、呻くことしかできなかった。
傍で少女が何か言っている気がしたけれど、答えることも、何を言っているかを聞くことも出来なかった。
そうしているうちに、身体は乱暴に起こされた。逃げ場なんて何処にもない。もはや何処にも残されてはいなかった。私の目に映るのは絶望。わざとらしいほどに美しい容姿をした花の女の形をしている。
気の遠くなる私を気味悪いほど優しく支え、そのまま彼女は歩きだした。
はっきりと認識出来たのはそれくらいだ。あとは、真っ暗な視界の中、時折、遠くの光を眺めているだけの夢を見ながら、引きずられるようにして歩く。自分の身体から脚を伝って冷たい汗と共にどろりとした液体が流れていくのを感じつつ、私はこの先に待っている未来に絶望していた。
どうせ助からないのなら、このまま死んでしまいたい。冷たくもぞっとするくらい安楽な暗闇に吸いこまれて眠りたい。
恐怖はあまりに大き過ぎて、少女の事すら忘れて私はそんなことを願ってしまった。
「――苦しいのね。でも、貴女が悪いのよ」
道すがら、食虫花の声は聞こえた。
「貴女が馬鹿な真似をしなければ、こんな目には遭わずに済んだの。貴女がもっと賢ければ――」
分かっている。私は挑戦し、そして失敗したのだ。逃げようとした獲物が逃亡に失敗すればどうなるか、自然界ではただ一本の道が伸びているのみ。
もはや隷属にさえもしてくれないだろう。
私の望みは断たれている。
階段らしき場所を降りると、いつか入れられた檻の香りが鼻をくすぐってきた、何処へどう引っ張られているかは分からない。ただ、扉を開ける音がした。此処は何処だろう。しかし、目で確認しようにも、しっかりと視界は定まらない。
「――食虫花」
呂律の怪しい口で、どうにか私はその名を呼んだ。
「頼む……せめて、せめてあの子は――」
無視され、腕を引っ張られた。
乱暴に引きずられると、そのままの勢いで床へと転がり落ちてしまった。痛みと目眩に悶えている私の髪を掴み、食虫花は立たせようとする。しかし、もう無理だった。脚に力が入らない。出血のせいなのだろうか。
「あの子のことは……」
喋れるうちに、どうにか伝えた。
「あの子には、乱暴しないで……」
「さて、どうしよう」
わざとなのだろう。食虫花は意地の悪さを存分に込めて私に囁いた。
「貴女をこのまま殺さずに置いて、目の前でお姫様を使って遊ぶのも面白そうね」
「食虫花……」
「花なんて美味しくないのは分かっているわ。蜜だって同じ。私の好みには合わないの。貴女の肉の方が何百倍も美味しいでしょうね。でも、それでも私は満足できるの。ねえ、知っている? まだ若々しくて瑞々しい身体を、経験した事もないような暴力で滅茶苦茶にするのって、とても楽しいのよ」
「あの子には――」
気が遠のいてきた。
吊るされているせいか、さっきよりも頭に血が昇らない。それに気付いてから、食虫花はそっと背中を支えてくると、そのまま台か何かへと私の身体を寝かせた。
仰向けのまま、逃げることも出来ず、私はただ天井を見つめるばかり。
それでも、頭を過ぎるのは、花の少女の事ばかりだった。
勿論、死にたくなんてない。殺されるなんて御免だ。もしも一人きりだったら、気楽な独り身だったならば、こんな事になる前に四の五の言わずにさっさと隷属になっていたかもしれない。たとえ、罪人になるとしても命には代えられないと、あっさり女神を冒涜していたかもしれない。
けれど、今は違った。命なんてもう惜しくはない。欲しいのならばこの女に捧げてもいい。
ただ、せめて、花の少女を散らさないで欲しかった。
あの子だけでも助けてやって欲しい。
その気持ちは抱いたまま、私は殆ど真っ暗な視界でどうにか食虫花の姿を探った。
すると、まるで居場所を伝えるように食虫花は私の頬に触れた。
真っ暗な視界の中で、その手に何もかもを吸いこみそうな勢いを感じた。存在感と言えばいいのだろうか。食虫花だけではなく、この場に他の大きな存在もありそうな奇妙な感覚を覚えたのだ。
「残念だけれど、王子様。貴女の必死の懇願も守ってあげられないと思うわ。あの子は白い花の血を引く子。月を讃える花。月を守護する力を持つ花。その血は私にとっても見逃せないものなのよ。蜜は美味しくはなくたって、血だったら浴びるように飲めるもの」
暗い視界の中で、食虫花の赤い目が光ったような気がした。
その感覚を見つめたまま、私はぼんやりと感じていた。
ああ、この人は悪魔なんだ。
始めから、この人は一つの道しか考えていなかった。
魔女なんていうものじゃない。悪魔だから罪なんて感じないし、一度欲しがれば女神相手であっても手を伸ばす暴食に取りつかれた者。きっと彼女ならば、魔女と隷属の掟すらも乗り越えられるだろう。
私も花の少女も、もうとっくに運命なんて決まっていたのだ。
罪悪感なんてすぐに捨てて隷属に下ったところで、ゆくゆくは彼女に喰い殺されて終わっていたのだ。そして少女もまた、今言ったように蜜どころか血を飲まれて枯れ果てていたのだろう。
台の上に寝かされたまま、食虫花の蔓が私の身体を確かめる。
「今ならまだ考えてあげてもいい」
ふと食虫花は私に言った。
「服従の意を貴女の言葉で口にするのなら、このまま隷属にしてあげる。そうすれば、この蔓を刺すのは止めてあげる」
鋭い言葉と眼差しに、私は茫然としてしまった。
頷けば助かる。頷いて、食虫花の心を喜ばせるような屈服の言葉を口からひねり出せば、私の足元で何処をどう刺そうか迷っているらしい蔓の動きも止まるのだ。
でも、勇気が出ない。その言葉を生みだす勇気が出ない。まだ。まだ何処かに、何処かに希望が残っているのではないかと思うと、どうしても言葉が出てこなかった。
呻くことしか出来なかった私に対して、食虫花は短く言った。
「本当に愚かな人」
唇を唇で塞がれると、途端に脳を溶かしてくるかのような快感が押し寄せてきた。
蜜。毒の蜜。出血と傷の痛みと苦しみで、感覚が狂ってしまっている。或いは、過剰になっているのだ。
蜜が満たすのは私の食欲だけのはず。じゃあ、この異様なほどの快感はなんだろう。魔術だと思いたかった。私がおかしいんじゃない、この女の魔力がおかしいんだと信じたかった。
でも、どちらであったとしても、私の置かれている状況は微塵も変わらない。
唇を離し、私の髪をそっと撫でていくと、食虫花は続けて言った。
「私の力を見せてあげる」
繊細に服に触れ、血塗られた腹部の傷を探り当てると、そのまま服を破ってしまった。その振動に痛みが生じて顔を歪めるも、食虫花は全然気にしない。直に傷に触れ、怯える私を見て満足げに笑みを浮かべると、そのまま血の止まらない傷口に口をつけた。
その途端、燃えるような熱さを傷口に感じた。蜜が直接傷へと流しこまれ、美味と毒と熱が同時に体内に駆け廻っていった。何をされているかも分からず、声にならない悲鳴を上げて身を捩っていると、その内に段々と食虫花の力の意味を理解していった。
血が止まっている。
いや、それだけじゃない。
傷口が塞がっている。
「驚いた?」
唇を放して、食虫花が微笑んでいる。その姿が今度はよく見えた。
あんなにくらくらとした頭もはっきりとしている。ぼうっとするのはもはや出血のせいではなく、今与えられた蜜のせいだった。
「私の隷属になれば、この力も貴女のもの。それだけじゃない。月を手に入れてしまえば、もっと素晴らしいものが貴女にも分け与えられるのよ」
恐ろしい。そして、おぞましい。
真っ先に浮かんだのはそういった感情だった。
魅力的とはとても思えなかった。むしろ、得体の知れない力に身体の中へと侵入されて、不快な気持ちばかりが起こる。
それでも、傷を治されたのは幸運かもしれない。
一瞬、逃げるという選択肢が頭を過ぎった。
しかし――。
「馬鹿な人」
そんなことは食虫花も勿論考えていることだった。
動こうとした丁度その瞬間に、手足に蔓が巻きついてきた。その意味と力の強さに情けないほど悲鳴染みた声が漏れる。
「傷が治ったからって、逃げ出せるとでも思ったのかしら? 残念だったわね。傷を癒した分、今度はもっと痛めつけてあげましょうか」
「ま、待って。お願い――」
「ああ、勿体ない」
食虫花はわざとらしく笑いながら言う。
「せっかくの立派な蝙蝠女――それも、若くて、特徴的で、退屈させなさそうな面白みのある子だったのに、逃げようとするから」
「もうしない。だから――」
目から涙が零れていくのを感じた。
食虫花の言葉がすでに故人へ向けられているかのようであることが、そうさせたのかもしれない。
恐怖なのか、悲しみなのか、絶望なのか、或いはその全てなのか、よく分からなかった。
時間が経てば経つほど血の気は引いて行く。
――せめて、愛するあの子を最期まで守りたかった。
そして、たった一つの後悔が胸に浮かんだ。
「少しでもいいから心から従ってくれないと隷属には出来ないもの」
そこへ、食虫花が追い打ちをかけるように囁いた。
「此処まで来てまだそんな気持ちを捨てられないってことは、貴女には期待できないということね。それならもう、こうするしかないわ」
触れてくるその指を伝って、捕食者の強い意思がじわじわと染み込んで来るかのようだった。
「せめて、骨の髄まで残さずに食べてあげる。私はね、止めなんて絶対にささないの。だって、その方が命をいただいているって感じがするでしょう?」
傷の治っているはずの身体からすっと血の気が引いていく。
「安心しなさい、王子様。骨の髄まで残しはしないわ」
同じ思いをして死んでいった者は、一体どれだけの数に上るのだろう。皆、私のように拒み続けてしまったのか、それとも、鳳のように愛されて、いつか飽きられて死んでいったのか。
いるかもしれない亡霊たちの気配を探りながら、静かに覚悟を決めていたその時、ふと、異変を感じた。
物音。香り。それとも、気配。
亡霊や檻の周りで力無く呻く隷属のなれの果ての気配ではない。もっと活き活きとした何かが、私たちのどろどろとした空間へと近づいて来ている。
その香りが段々とはっきりとしてきた時、恐怖は一気に消え去った。
花の、香りだ。