15.緩み目
恐ろしい蔓に取り囲まれた部屋の中で、わたしは残酷なほどに美しい一人の胡蝶に抱かれたまま泣いていた。解決にもならない涙だけれど、流さなければ狂ってしまいそうだった。
こうしてどのくらいの時が経っただろう。まだ間に合うはずだと何度も思い返し逃れようともがいても、その度に鳳はわたしを寝台に押し付けた。
「いけません、お姫様」
何処か冷たい声で鳳はわたしを見おろす。
「食虫花様の邪魔をなさらないで。もしも言うことが聞けないのなら、また蜜を貰いますよ」
脅されながらも、わたしの目はたった一つの扉に向いていた。
あの場所だけは蔓の干渉を受けていない。廊下につながり、さらには、先ほど部屋を出て行った食虫花とわたしの王子様の居場所につながっているはずの扉。
王子様は攫われてしまった。わたしと一緒に逃げようとしたから、食虫花を怒らせたのだ。窓際にはまだ乾いていない血が残っている。あの光景を思い出すと、居ても立ってもいられない。食虫花の目は本気でわたし達を殺そうとしているものだった。けれど、鋭利な蔓が伸びてきたその瞬間、とっさにわたしを守って、王子様だけが貫かれてしまったのだ。
痛みでうずくまる彼女を連れて逃げる力がわたしにはなかった。か弱いということはなんて罪なのだろう。食虫花に連れて行かれる彼女を、ただ黙って見送ることしか出来なかったなんて。
「お願い、鳳。放して。蜜ならあげる。後でいくらでもあげるわ。だから、今だけはこの部屋から出して」
懇願してみても、鳳が許してくれるはずもない。
彼女は食虫花の言うことしか聞かないのだ。優しげに見えるし、わたしを憐れんでいるようにも見える。こうしなければならないのが辛いようだった。でも、どんなにわたしが説得したところで、食虫花の命令が解けない限り、彼女にはどうすることも出来ないのだ。
じゃあ、どうするべきなのか。
わたしが鳳に勝つしかない。鳳の力でわたしが抑え付けられなかったならば、食虫花の命令なんて意味をなさない。頭で考えるだけならば簡単なことだけれど、やってみれば非常に難しいことだった。どんなに抵抗しても、蜜を吸い取られてしまえば全身の力が抜けてしまうのだから。
一度知れば恐ろしいほどに理解できる。ああ、なんて罪深いことなのだろう。自分の事が分かればわかるほど、わたしは花というものに生まれたことを悔やんでしまった。だって、わたしは、鳳に蜜を吸われることを心のどこかで期待しているのだもの。
鳳はきっとそのことを見抜いている。だからこそ、少しも焦ることなくわたしを支配してしまえるのだろう。その細い腕から力はちっとも出ていないはずなのに、わたしは寝台に抑え付けられたまま、起き上がることも出来なかった。
艶やかな鳳の口元がうなじに近づいてくる。また、蜜を吸われるのかという恐怖と期待の入り混じった思いでそれを待っていると、鳳は直前で動きを止めた。
「……許して」
囁くような声。先ほどまでとは違う雰囲気の鳳の声が耳元をくすぐってきた。
「わたしの立場では貴女を助けてあげられない。でもね、もしも貴女が胡蝶のわたしの手すらすり抜けてしまう花の子だったら、さすがの食虫花様も不意をつかれてしまうでしょうね。食虫花様には、この部屋から貴女を出すなと言われたけれど、出ていった貴女を追いかけろとは言われていないもの」
はっとするわたしの首筋に鳳は軽く口づけをして、そのまま蜜も吸わずに離れてしまった。
「鳳……貴女は……」
すぐに起き上がり、言いかけるわたしの口に手を当て、鳳はそっと目を細めた。
「お屋敷の地下室に続く階段を探して、進みなさい。蝙蝠に気を付けて。わたくしが貴女に言えることはこれだけですよ、お姫様」
大変な罪ではないのだろうか。
食虫花のことは慕っていると言っていたはずなのに。
しかし、わたしもわたしでこれ以上、鳳を心配している余裕なんて何処にもなかった。立ち上がり、寝台を離れ、音を立てずに慎重に扉へと近づくわたしを、鳳はやっぱり追おうとしない。
振り返れば、鳳は息を吐いた。
「どうやらわたくしは、蜜を吸い過ぎてしまったらしい。貴女を止めたくても、立ち上がる事すら出来ないみたいです」
淡々とそう言う彼女を見つめ、わたしは静かに答えた。
「それは残念ね」
しっかりとその目を見つめ、言い残した。
「貴女には悪いけれど、行かせて貰うわ」
お芝居のようなやり取りに、鳳が少しだけ笑ったような気がしたけれど、最後まで見ている事は出来なかった。
扉を開け、そっと廊下に出ると、それだけで足元がぞわりとした。
まるで突風の吹き荒れる危なっかしい橋を無理矢理渡らされているかのよう。足音を立てぬように進み続け、わたしは必死に鳳が教えてくれた精一杯のヒントを頭の中で整理していた。
――地下室に続く階段。
階段自体は何度も上り下りした事があるけれど、地下室に続くなると一回も近づいたことが無い。何処にあるか、具体的に覚えてもいなかった。
それでも、探さなくては。手当たり次第に進んで、探しださなくてはいけない。
見つからなければ見つからないだけ、頭を過ぎるのは彼女の――王子様の苦しそうな表情だった。蔓に貫かれて流血していた彼女。その姿を見つめる食虫花の眼を思い出すだけでぞっとする。下手したらあのまま食べられてしまっていたかもしれない。そのくらい、食虫花の目は王子様を見下していた。
食虫花。かつては優しい魔女だと信じた。おかしいかもしれないという予兆はあったけれど、はっきりと思い知ったのは最近になってからだ。
蔓で手を打ってきた時の目に、どうしてわたしは気付かなかったのだろう。きっとあの時も、あんな目をしていたのだ。他人を虐げることを楽しむ恐ろしい目。
――王子様、どうか無事でいて。
強く願ったその時、一階をくまなくうろついていたわたしはやっと、その階段を見つけることに成功した。
――やった……。
しかし、その感動も束の間、今度は全身を突き刺すような視線を感じた。
不気味な低い笑い声が響いて、わたしはようやく振り返る。いつの間に来たのだろう。わたしの背後には、あの蝙蝠の男がいた。