14.蜜吸い
私は最低な女だ。王子様のふりをする資格もない。
蜜を溜めすぎた花の少女に触れながら、何度も何度も自分を責めた。
話さなければならないことの半分ほどしか話せないまま蜜吸いは始まった。それでも今は、冷静に話す事なんて全く出来そうにない。
今、この少女の耳に言葉なんて入らないだろう。
また、それは私も同じだった。
ずっと手を出せずにいた花の少女。その香りに飲まれれば飲まれるほど、私の頭は酔ったように思考がまとまりにくくなっていく。存分にかき乱してからその肌に口をつければ、広がる味は涙が出そうになるくらい清純なものだった。
食虫花の毒の蜜とは全然違う。
優しくて、温かくて、何処までも愛おしい甘みが口いっぱいに広がった。それは、ほっとする味だった。少女を守るために近づいたどの花の蜜よりも舌に馴染む味だった。
唇を奪えば、より深くて濃厚な味の蜜が得られる。
吸う者の欲望を掻き立てる味。より濃くて純粋な味を求めさせようとする魔性の味。その味に導かれ、私は私自身が少女の身体に巻きつけてしまっていた不満の鎖を一つ一つ解いていった。淀んだ蜜を吸いだして、身体の状態を整える。本当ならば、ニ、三日に一回以上はしておかねばならなかった。
――間に合ってよかった。
そう思いながら吸い続け、そして微かな憂鬱さを思い出す。
この蜜吸いが終わったら、食虫花は迎えに来るだろう。この少女がまっとうな生き物としての最後の御馳走。どの程度で終わらせるにしても、私の行く末は変わらない。
「ねえ……どうしたの?」
私の表情に気付いたらしく、花の少女は寝そべったまま私を見上げてきた。
その目は潤み、頬には涙の痕が残っている。さっきよりもずっと身体は軽いらしい。それでも、まだ彼女は私に口づけをせがんでくる。この子には私しかいなかった。私がそうしたからだ。友達も、恋人も、これから作る前に私が隔離してしまったからだ。
全ては私の身勝手な欲望の為。この少女を独占したいという黒々とした欲望の為。
懺悔はまだ終わってもいない。
「ねえ……《王子様》」
少女はやっぱりそう呼んだ。
「君は……やっぱり怖がらないんだね」
正直に話す事は話したと言うのに。
王子様ではない。捕えるために騙っただけ。まだ誰にも手をつけられていない蜜を独占するために、気を引いただけのこと。嫌われるのが恐くてずっと隠していた事実を言ったのに、どうしてこの子はまだ私を「王子様」と呼ぶのだろう。
じっとしていると、少女は私を見つめたまま口を開く。
「怖がる必要が無いもの。だって、貴女はずっとわたしを守って来てくれたじゃない」
「それは、君を一人占めするためだったんだよ。誰にも触れさせず、自分だけの花にするためだけだったんだ。それでも君は、怖がらないの?」
訊ねれば、少女は迷わずに頷いた。
「だって……」
ごく小さな声で、答える。
「貴女は此処に来てからだって……ずっとわたしを守ってくれていたのだもの」
その言葉は――予想にもしていなかった。
私は……この花の少女のことをどれだけ低く見ていただろうか。何も知らないまま親元を離れ、何も知らないまま私に騙されて、何も知らないまま草花の城に閉じ込められてきた、世間知らずの花。蜜という大切なものすら知らずにいた彼女。食虫花が何なのか、この屋敷がどういう場所なのか、今の私がどういう状況に立たされているのか、全く分からないのだと思っていた。
けれど――この様子だと、少なくとも彼女は分かっていることがある。
自分が暮らしていた幻想。その不確かさと、元凶については、分かっている。
分かっていないようなふりをしていたのは何故だろう。答えは簡単。私がそうするように言い聞かせたからだ。お姫様でいろと、食虫花の言う事を聞くようにと、命令したからだ。
「君は――」
言いかける私の唇を、少女は奪っていく。驚きから立ち直れないまま、私は少女に圧されてしまった。支配が今度は逆になる。寝台に倒されそうになるのをどうにか留まり、小さな体を受け止めた。蜜を吸われるままに身を委ねてしかいなかった少女が、今度は自ら蜜を流し込んでくる。
初めて会った時は出来なかったはずの技。ずっと蜜吸いから遠ざけていたはずなのに、いつの間にか出来るようになってしまっていた技。その技に内心翻弄されていると、少女は唇を離してから私の胸元に寄り添うと、上目づかいで見つめてきた。
「身体が軽くなってきた」
ぽつりと少女はそう言った。
こちらにも分かる。蜜の味が最初よりも薄くなってきた。もうそろそろ大丈夫。むしろ続ければ身体を壊してしまう。終わらせなくてはいけないだろう。頭の中に靄がかかったようになる。少女をこのまま寝かしつけて外に出たならば、絶望の時間は始まってしまう。
それでも、肌と肌を重ねる今だけは幸せだった。
蜜なんて交わさなくても、触れているだけで、鼓動を感じているだけで、嬉しかった。
――これはやっぱり恋だったのだろうか。
けれど、もうおしまいだ。
食虫花の隷属になれば、この恋心も消えるだろう。実際の隷属の考えている事なんて知らない。でも、噂でだけは知っている。隷属になれば思考の全てが主人の為のものになる。あの魔女の隷属になるならば、私の思考はすべて、どうすれば食虫花を喜ばせられるかというものだけになってしまうだろう。
それでも、私は信じたかった。
隷属になって、この月の大地における罪人になってしまったとしても、少女を守りたい気持ちだけは消えないでくれることを……そんな奇跡を願いたかった。
「もうそろそろ、終わりにしないとね」
体重をかけてくる少女を受け止めながら、私はそっと囁いた。
しかし、少女は首を振って抱きついて来る。
「……まだよ。お願い、まだ一緒に居て。もっとわたしの蜜を吸って」
「――駄目だよ。これ以上吸えば君は枯れてしまう。だから、駄目」
「じゃあ、一緒に居るだけでいいから。お願い……あの人のところに行かないで」
いつにも増して不安そうなのは何故だろう。
抱きつくその顔を窺えば、彼女は更に小声で言った。
「わたしだけの王子様でいてほしいの。誰のものにもならず、わたしだけの王子様のままで……」
震えている。怯えているのだ。何に怯えているかなんて、考えるまでもない。
ああ、彼女は分かっている。私たちの敵がなんなのか。平穏を脅かしたのが何なのか、分かっている。
「王子様」
寄り添ったまま偽りのお姫様は耳元で囁いてきた。
「さっきのことよ……食虫花様がわたしの様子を見に来たあと、鳳が一回だけ一人きりで来たの。眠っていたわたしの様子を訊ねながら、彼女、窓を……窓のひとつを開けて、言ったのよ」
――雨が降ったから地面がぬかるんでるみたいです。もしも落ちたとしても、たいした怪我もしないでしょうね。
はっとした。
部屋を見渡せば、少女の言った通り、鳳の開けたと思われる窓が一つだけあった。そこそこ大きい。少女を抱えていても、出られるくらいだ。
「王子様……」
そっと声をかけてくる彼女を抱き締めて、私は寝台を降りた。少女を抱き上げたままゆっくりと音を立てぬように、開けっぱなしの窓へと近づいていく。
逃げられるかもしれない。
それは、突如舞い込んだ希望の光だった。
「あのね、王子様。わたしも貴女に謝りたいことがあるの……」
そっと歩くわたしに、少女が小声で語りかけてきた。慎重に、足音を立てぬように意識しつつ、部屋の外の気配を探りつつ、わたしは少女の表情をちらりと確認した。
無言で促すと、少女はいったん頷いて、小声のまま語った。
「貴女にすべてを委ねていること。貴女を王子様にしてしまったこと。貴女にすべてを任せて、考えることを止めてしまっていること。……謝りたいの」
あと少しで窓だ。しかし、少女が真面目に捻り出した言葉を無下にすることはできなかった。
「わたし、本当は分かっているの。此処へ来てからの貴女がどんな気持ちでわたしをお姫様として扱ってくれているのか。だから……だからね、わたし、貴女と一緒に外に出たら、今度は大人の花として貴女に向き合いたい。色んなことを知って、貴女の後ろじゃなくて、貴女の隣に立って前に進みたいの」
「うん、そうしよう」
ほんの小声でそう言った。そう言うしかなかった。
此処から出られるのなら、喜んでそうするだろう。これまでのように檻の中に入れて無責任に可愛がるのではない。二人で生きていくためにはどうしたらいいのか、彼女が知らないことならば、残酷なことでも怯えずにしっかりと教えよう。
私の罪はそこだった。たとえ、私はもう守ってあげられなくなったとしても、彼女一人で生きていける可能性を一欠けらでも残さなくてはならなかったのに、そうしてこなかった。
――此処から、出られたら。
窓枠に手をかけ、見おろす。
私の部屋よりも地上に近いとはいっても、ここは二階。乾いた地面ならば少女に怪我をさせてしまうだろう。しかし、彼女が言っていた通り――いや、鳳が言っていたとされる通り、地面はぬかるんでいるようだった。これなら汚れるだけで済みそうだ。
「いいかい、しっかり掴まっているんだよ」
少女に声をかけて頷くのを感じてから、私は窓枠を乗り越えようと身を預けた。
そう、その瞬間だけは、まるで自由な空を飛びまわっていた頃のように解放的だった。その瞬間だけは……。
――そんな。
窓枠に片足を乗せかけたまま、私は固まってしまった。少女もまた同じ。私に抱きついたまま小さな悲鳴を漏らして震えている。
ついさっきまで、開け放たれた窓には遮るものなんて一つもなかった。飽きるほど開けた森の景色が広がっているだけのはずだった。それなのに、今、その景色は殆ど見えない。視界を遮るのは茨のような蔓。うねうねと動きまわり、蛇のように私たちの逃げ場をふさいでしまった。
これが何なのか。どうして現れたのか。
私に分からないはずも、なかった。
突き刺さるような背後からの視線。扉が開く音なんてしなかった。でも、《彼女》は確実に後ろにいる。勇気を出して振り返れば、それは明白な事実となった。