13.隠し事
鳳が出ていってしばらく。一人ぼっちを味わっている最中、突如、食虫花は一人で来た。
わたしの様子をじっと見つめると、額を何度も撫でて慰め、寝台から起きぬように言いつけると彼女もまたすぐに何処かへ去ってしまった。
一人きりにされて、寝台で寝ているのは退屈だったけれど、どちらにせよ、身体が妙に重たくて動かないままだった。
目を閉じれば、今朝のように鳳が唇を近づけてきた瞬間を思い出して、何だか切ない気持ちになった。
あの時に似ている。王子様が初めてわたしの唇を奪って行ったあの直前の感覚に。そして、この城に来る前の晩、疲れて眠る彼女の頬にそっと口づけをしたあの時の感覚に。
寝がえりをうつと、余計に身体が疼いた。中で何かが巡り、腕や足を刺激している。火照っているのはこの何かの所為なのだろうか。苦しくて仕方ない。
部屋の扉が開いたのはそんな頃合いだった。
鳳と、食虫花。二人が入ってきた。いや、それだけじゃない。その間に挟まれるように入ってきた人物を見て、わたしは思わず起きあがった。あんなに重たかった身体が、ふわりと浮くように動いたのはやっぱり嬉しかったからだろう。
――王子様。
潤んだ目でその姿を見つめれば、彼女はやや驚いたようにわたしを見つめた。
やがて、声を漏らし、寝台へと駆け寄るとぎゅっと抱きしめてくれた。やや久しぶりのその感触だけでも、泣きだしそうになるくらいだった。
わたしの具合が悪いからだろうか。彼女はどうやら泣いているらしい。
「御免ね……本当に、御免ね」
よく聞けば、彼女は小声でそんなことを言っていた。
「どうして謝るの? どうして?」
訊ねても、答えてはくれない。ただわたしを抱きしめたまま、彼女は苦しそうに呻いている。その姿が痛々しくて、わたしは心配になった。
こんな王子様、初めて見たかもしれない。
こんなにも弱々しい彼女は初めてだ。
それでも、愛しい事には変わらない。泣いているその背をそっと撫でてみると、彼女ははっと我に返ってわたしを見つめた。
そこへ、入口付近で佇んでいた食虫花が声をかけてきた。
「王子様」
見れば、穏やかに微笑んでいた。
「時間はたっぷりあげる。後悔しないように、味わいなさい」
そう言うと、黙ったまま心配そうに此方を見ていた鳳を連れて去った。
扉が閉まり、二人きりにされると、王子様が重たい溜め息を吐いたのに気付いた。
ここ最近、元気がないのは知っていたけれど、今日は殊更やつれているようだ。抱きしめたまま様子を窺っていると、王子様はその重たそうな口を開いた。
「お姫様、具合はどう?」
聞きたいのはわたしの方だ。けれど、そんな文句は心の中にそっとしまった。
「平気よ。ただ身体が重たくて……ちょっと火照っているの」
そう言うと、彼女はじっとわたしの目を見つめてきた。
何気なくその目に視線を合わせた途端、急に唾を呑むはめになった。あの目だ。鳳が見せていたのと似ている。似ているけれど、同じではない。もっと強く、荒々しい。その目はいつもの王子様の目ではない。蝙蝠、とだけ呼ばれていた食虫花の僕の男のものにも似ている。
そうだ。彼女も蝙蝠なのだ。普段は王子様と呼ぶ方が合っているのに、今だけは蝙蝠という名がとてもよく似合う。
――どうしたのだろう。
わたしは不安になった。逃げたい気持ちが湧き起こり、震えそうになる。しかし、それよりももっと身体の疼きが強くて、満足に動くことも出来なかった。
触れて欲しい。真っ先にそう感じた。そのまま触れて、前のようにキスをして欲しい。
ただのキスだろうか。スキンシップだけのものだろうか。いや、違う。違う気がした。うまく言葉に出来ないけれど、わたしが彼女に求めている事は単なる触れあいじゃない気がしていた。
じゃあ、何を求めているのだろう。
抱きしめられたままゆっくりと寝台に倒されていき、彼女の眼だけを見つめていた。
前にもこんな事があった。忘れもしない、それは初めて会った時のこと。突然唇を奪われて、くらくらとしたわたしを寝かして、王子様は覆いかぶさって見下ろしてきたのだ。
あの時と同じ視界。わたしもまた、あの時と同じ。動かなかった。動けなかった。怖いからだろか。いや違う。それは、違う。
「君は、やっぱり怖がらないんだね」
見下ろしたまま、王子様は言う。
頬に添えられる手はとても温かい。けれど、今のわたしはその単なる温もり以上の何かを求めているようだった。一体、何を求めているのだろう。自分でもよく分かっていない。ただ欲しい。何が? 何かが。
そんなわたしを見つめる王子様は、何処か悲しげな表情をしていた。その顔は、鳳がたまに見せるものによく似ていた。
「ねえ、どうしてそんな顔をするの?」
訊ねてみれば、彼女はそっと目を逸らした。動揺しているのだろうか。それとも、わたしと目を合わせるのが怖いのだろうか。
だが、その疑問が何一つ解決されないままに、王子様は覚悟を決めたように息を吐くと、まっすぐわたしを見つめ直し、ひとこと告げた。
「君に謝らなきゃならないことがある」
真剣な眼差し。真面目な表情。これまで見せてきたこともない雰囲気に、わたしは戸惑った。何か大切なことなのだと理解出来た。
「……なあに?」
嫌な予感だけはした。
それでも、きちんと聞かなければ。
「私は――」
言葉に一瞬詰まり、彼女は言いなおす。
「私は……君の王子様なんかじゃないんだ」
「……え?」
今更、どういうことだろう。彼女だって、わたしだって、王子様なんて抽象的なものでしかないって分かっていたはず。
けれど、彼女の言いたい事はそういう事ではなかった。そんな軽い事ではなかった。
「私は君の王子様になるために近づいたんじゃない。お姫様扱いしたのもお芝居だったんだよ」
冷たい声。冷たい眼差し。
荒々しいその目に心の芯がぞくりと震えた。
「傍に居たのは守りたいからじゃない。君を言い包めて、従わせるためについた嘘だったんだよ」
「……従わせるため?」
どうしてそんなに怖い顔をしているのだろう。
「――そう、従わせるため。君を閉じ込めて、自分だけのものにしたかった。何故だか分かる? お姫様」
「いいえ……分からない」
彼女が何を言いたいのか。彼女が何を想っているのか。分からなくて不安だった。彼女はわたしをどうしたいのか。どうさせたいのか。考えても、考えても、分からない。
「全ては君の蜜のため。私はね、お姫様、君の蜜を吸うために近づいたんだ。場合によっては、そのまま永遠に自分だけのものにするつもりだった」
「蜜……? 蜜って――」
問いかけると、彼女はその手で私の頬から首筋にかけてそっとなぞっていった。
途端に、皮膚の内側でざわざわと何かが巡り、思わず声が漏れだした。あの感覚だ。鳳に触って欲しかった時、そして、《王子様》に見つめられていた時に感じたもの。身を捩っても解消されない身体の疼きが強まって、涙が溢れてくる。
「これの事だよ、《お嬢さん》」
残酷なほどに落ち着いた声で、彼女はそう言った。
――これが、蜜。
潤む目でその顔を見つめてみれば、やはり驚くくらい冷ややかな視線がわたしをじっと見つめていた。この恐怖は何だろう。永遠に自分だけのものに、とはどういう意味だろう。
「私は――蝙蝠はね、生きるために君みたいな花の蜜を吸う。その精気は君たち花が故意に生み出すもの。花が私たちのような者の手を借りて子供を残すために作り出すもの。恐ろしく甘くて、恐ろしく深い味をしているんだ。君の身体の中にも悩ましいほどに溜まっている。――ほら」
そう言いながら彼女は手を動かし、わたしの胸元から腹部まで触れていく。その感触に鳥肌が立った。手足を動かしもがいても、その感触からは逃れられなくて気が狂いそうになる。わたしの身体は彼女の手に何かを期待している。
ここでようやく分かった。わたしは、蜜を吸って貰いたいのだと。
「蜜吸いは危険な行為。まだ成長途中の君の身体は持たないかもしれない。それでも、初めて会った時、私は君の命までもを吸い取るつもりでキスをした」
蝙蝠はそう言って、再び悲しげな眼差しを向けてきた。
その目を見て、少しずつだけれど様々な事が繋がっていった。漠然とした記憶の数々。初めてキスをされた時にふらりと力を失ったのは何故か。わたしを訪ねてきた虫等がぎらぎらとした目で襲ってきたのは何故か。そして、寝ている彼女の頬にキスをした時に離れていったのは何故か。
――ああ、あれらは全て。
「分かったかい? 私は君の王子様なんかじゃない。花である君の命をいつか奪ってしまうかもしれない、ケダモノでしかなかったんだ」
重たい。全てが。今すぐに受け止めるには、重たすぎた。夢見心地でお姫様でいられるのはもうおしまいなのだろうか。そもそも、そんな時間は始まってすらいなかったのかもしれない。
怖い。全てが。受け入れるのが不安で仕方なかった。
「御免ね、お嬢さん。騙してしまって、つまらない夢に閉じ込めてしまって――」
彼女の懺悔が――現実が怖かった。
そして、まだ隠されているだろう真実もまた怖い。
今の彼女は、わたしをどう思っているのか。
「じゃあ、どうして……」
縋りつくように、わたしは訊ねた。
「どうして、あの日以来、手を出してこなかったの?」
どうして、わたしが触れた時に避けるような事をしたのだろう。
どうして、気を失いそうになった時にそのまま命を奪わなかったのだろう。
真っ直ぐ訊ねると、彼女は答えに詰まった。わたしの視線を捕えきれずに再び目を背け、真っ直ぐ天井を見つめながら答えを探している。
やがて、両目を閉じてしまうと、ぽつりと漏らすようにこう言った。
「分かんない」
冷たさもなければ、穏やかさもない。ぽっかりと穴が空いたような声で、彼女はそう言った。
「分かんないの?」
訊ねれば、彼女はやっと私を見つめた。
「うん、何でだろうね」
開き直ったように微笑みながら、わたしの隣に寝そべる。
「こんな事にならなかったら、多分、これからも君にはまだ手を出さなかった。でも、もうそれじゃあいけない。君の蜜ははちきれんばかりに溜まっている。このまま誰も手を出さないでいれば、君の心はきっと壊れてしまうんだ」
流し目で見つめられ、身体に痺れが走る。
それで、身体がこんなに重たいのか。それだけ吸われなくてはならなかったものが溜まっているという事だろうか。自分の身体の事とはいっても、わたしには難しくて分からない。
でも、確かな事が一つ。
隣に寝そべる彼女にしがみ付いて、わたしはその確かな事を胸に懇願した。
「――じゃあ、お願い」
愛しい温もりに縋りついて、心の底から屈服した。
「殺されたって恨まない。だから、わたしの蜜を吸って」
わたしを殺す覚悟で近づいてきたと言う女性。それなのに、そんなことを聞かされても彼女はわたしにとって、どうしようもないほど愛おしい存在には変わりなかった。