12.綱渡り
雨の降る外を眺めていれば、私の元に同族の男が来た。
中年の男。年齢の程はどうやら食虫花も同じくらいらしい。私よりも一回り上ではあるが、生き残れてきたのは食虫花のお陰に他ならない。彼は非常に若い頃から食虫花の隷属に成り果ててしまったらしい。私のように囚われてしまったのだろうか。だが、始まりはそうであったとしても、私は彼に同情出来なかった。
「やあ、無垢な少女の夢見る王子様」
厭味ったらしく彼は言った。
「君のように年若い娘があれほどまでに花に懐かれるとは正直羨ましい限りだ。どんなコツがあるのか、ぜひとも聞きたいところだね」
にやにや笑うその姿。まともに相手をしてはいけない。彼だって食虫花のお気に入りの一人であり、守られるだけの弱者というわけでもないのだ。
彼には有名な罪がある。森に住む教養あるものならば少しは聞いたことのある噂。噂程度ではあるけれど、長生きしている者は昨日のことのようによく話すから現実味が増している。
その罪とは、月の女神の膝元を穢したというもの。
約三十年で代替わりをする月の女神。先代の女神は死ぬ前に跡継ぎである今の女神だけではなく、都より人間の手で守られてきた花の女性も残したらしい。すべては娘である今の女神が成長するまで寄り添って貰う為の事。しかし、そんな先代の想いは他でもないこいつらに踏み躙られた。
花を枯らす蝙蝠なんて珍しくない。
私だって以前は特に花を枯らす事に罪を感じた事はなかった。今だって、あの少女以外の花が相手だったら、正直枯らしてしまう可能性もある。それほどまでに蜜を吸うということは欲深く、罪深いことである。しかし、そんな私でも、今の女神の膝元で咲いている高貴な花を襲う気になんてなれない。女神を冒涜することだと分かっているからこそ、そんなことは出来ない。
けれど、目の前に居る男はそれをしてしまったのだ。
この男の存在が私は怖かった。窓から時折見えた少女を彼が見守っている光景はそれだけ恐ろしかった。
黙ったまま見つめていると、彼は深いため息を吐いた。
「やれやれ、警戒心の強いお嬢さんだ。せっかく同族だと言うのに、少しも気を許してくれないなんて。私も嫌われたものだ。かつての仲間の生き残りも、今や私を見て逃げ出すくらいさ」
「自業自得だろ」
思わず私はそう言った。
「お前が選んだのは危険な魔女の僕になること。主人の暴走はお前の責任でもある。女神様を崇拝するまっとうな蝙蝠がお前に同情するわけないじゃないか」
相手が食虫花じゃないというだけでこうも強気になれるものだろうか。
自分で言っていて不安になるほど、私は正直に思った事を口にした。だが、名もなき男は笑みを漏らした。まるで見下すように、その心を顕わにする。
「その嫌われ者にもうじき君もなるかもしれないね、王子様」
彼の笑い声は耳障りなものだった。
「もうすぐ食虫花様がいらっしゃる。これまでのように引きのばせるとは思わない方がいい。君の同族として、私はアドバイスをしにきたんだよ。同族が無駄に苦しむ様は私も見たくない。不幸にも胡蝶に生まれた鳳が日頃どんな姿で愛されているか、少しは察しが付くんじゃないか? 高貴な黒を纏う蝙蝠に生まれた君にはあんな想いをして欲しくないのだよ。同族愛とでも思ってくれるかな」
「余計な御世話だよ、おっさん」
ついに吐き捨てるように突き放してみるも、蝙蝠の男はまったく動じずに笑い、そのまま部屋を去っていった。彼からすれば私の姿はそれほどまでに滑稽なのだろう。自由を奪われ、大切なものも奪われ、結局は何も出来ないまま時間だけが過ぎ、それでもまだ食虫花に気付かれることなく逃げ出せる手段を探しているのだから。
花の少女と二人で会える時、常に私は周りを見ている。食虫花は少女に何処か甘い。どうせ逃げないと思っているのか、それだけ少女が食虫花の心に潜り込めたのか、分からない。だが、彼女の部屋は私のいる部屋のように地上から離れてはいない。窓も開けようと思えば開けられるだろう。二人で逃げるなら、その瞬間を狙うしかない。
けれど、その機会はなかなか訪れない。少女と話しながら窓に近づこうものなら、すぐに誰かが部屋の中の様子を見に来るのだ。何処かで食虫花が見ている。そういうことなのだろうか。
「もう、諦めなさいな」
突然声が聞こえ、身体がびくりと震えた。
またしても音もなく食虫花は現れたのだ。扉を閉ざして、塞ぎ、部屋に佇む私を見つめて憐れみの表情をその目いっぱいに浮かべている。
「開き直ってしまえばいいじゃない。正義の為に何も死ぬ事はないわ。貴女のお姫様だって、貴女が必要以上に苦しむところなんて見たくないはず」
「――彼女の事は」
言いかける私の口を、食虫花の蔓がそっと塞いだ。
蜜がじわりと浸透し、頭がぼうっとする。
「王子様。貴女に伝えなきゃならない事があるの」
そのままの体勢で食虫花は言った。
「もう時間が無い。あの子が限界に近づいて来ている」
重たい言葉が身体に圧し掛かってきた。
「早く蜜を吸ってあげないと、取り返しのつかないことになるわ。もしも、貴女があの子の全てを好いているのなら、悪い事は言わないわ、今すぐに決めなさい。隷属になるのなら、その前にあの子の蜜を時間たっぷり吸うことを許可してあげる。今日、決断しないと、あの子はきっとまともな心を失ってしまうでしょうね。もっとも、心の壊れてしまったあの子を自分だけのものとして洗脳したいと思うのなら、無理にとは言わないわ。その為にずっと隠してきたと言われても、不思議じゃないもの」
――違う。
蔓に口を塞がれたまま、私は必死に否定した。
そんな野蛮なものじゃない。これではいけないってずっと思ってきたのだ。限界になったら、と先延ばしにしてしまっていただけなのだ。狂わせたかったんじゃない。そんな風に独占したかったわけじゃない。あの子をあの子のまま、大切にしたかっただけなのだ。
けれど、このままではどんな言い訳も通用しない。
食虫花の言うことが本当ならば、此処で決断しなければ私は一生後悔するだろう。
「そう、やっぱりあの子が壊れてしまうのは嫌よね」
私の意識を読みとったように、食虫花は言った。
「それなら、貴女の言葉で教えて。これからどうするの?」
蔓が離れ、口が開放されると、急に息が楽になった。
頭がすっと覚めると同時に、今度は尋常でない緊張感が圧し掛かってきて脚が震えてしまった。
それでも、今は……今だけは、言わなくては。
「――なります」
呼吸を整えつつ、ゆっくりと、私はその場に座り込んだ。
「貴女の隷属になります……」
少女と会うにはこれしかない。口約束に過ぎないけれど、少女の蜜を吸ったなら、もう後戻りは出来ないだろう。そうなれば、これまでの独立した私は消えてしまう。
自ずと流れていく涙を、食虫花の蔓がそっと拭っていく。
優しげに見えるけれど、すべて偽りのものだ。あの同族の男のように使い続け、使い物にならなくなれば、地下で呻き続ける哀れな者たちの仲間入りだろう。こうやって月の森を乱し続け、ゆくゆくは女神を滅ぼしにいくつもりなのだ。それに加担してしまう。これは、そういう約束。
「よかった」
微笑みながら食虫花は言った。
「久しぶりに心と身体が無事なままの蝙蝠が手に入りそう。蝙蝠はたくさん飼いならしたいのに、蜜に心を惑わされなかった者は皆、手足の一本でも引き千切らないと参ってくれないのだもの」
そう言いながら食虫花の蔓が私の腕と脚に触れていく。滑らかで、それでいて力任せなその感触が恐ろしかった。暴力を向けられれば、私の身体はひとたまりもないだろう。
「怖がらないで。大事にしてあげる。まずはあの子とたっぷり蜜吸いを愉しみなさい。その後に始めるわ。心配しなくても、何も変わらない。苦痛は感じさせないし、無駄に怖がらせたりもしない。ただ、終わった後、貴女がこちら側の存在になるだけよ」
それだけのことが、この森で生まれ育った私にとっては大変な罪なのだ。