1.王子様
その女性に名前は無いらしい。
真っ黒な髪に真っ黒な目。夕方頃になると何処からともなく飛んできて、毎日わたしに会いにくる。空を飛んでいるときはネズミのように不思議な姿をしているけれど、わたしの前に舞い降りると瞬く間に美しくてすらりとした容姿の女性へと姿を変える。
初めて出会ったのは、生まれて初めて一人ぼっちになってすぐのこと。
あれからあっという間のような、途方もなく長かったような時間は過ぎていった。
「ねえ、聞いてる?」
満月の光を浴びながら、彼女の背中に問いかける。
「明日で――」
「はいはい、出会って三か月なのよね」
生欠伸をこらえて彼女は背を向けたままようやく答えた。
なんだかつまらない。初めて会った頃なんてあんなにわたしの気を引こうとしていたというのに。今月に入ってからは何故か素っ気無い。初めて会った頃が懐かしいな。怯えるわたしにまるで王子様か何かのように跪いて来たのだもの。
あれから男女問わず色んな虫がわたしのところに来たけれど、あんなにわたしの心を掴んだのは彼女以外に誰もいなかった。それどころか乱暴な人だっていたけれど、わたしが助けを求めるとたとえ昼間であっても彼女は助けに入ってくれた。
今だって助けてくれるのには変わりない。毎日会いに来てくれるのだって変わらないし、気が向いた時だけだけれど、可愛がってくれないわけでもない。でも、なんでだろう。わたしの心は前のように浮かれなかった。その代わりに時間が経てば経つほど、彼女から伝わってくる何処か空虚な様子が不安ばかりをもたらしてきた。
もしかして彼女はもう、わたしに興味がないのじゃないだろうか。
ふと恐ろしい予感がわたしの脳裏を過っていった。
「ねえ、あのさ、明日も――」
「御免ね、お姫様。ちょっと寝かせてくれるかな。昼間あんまり眠れなくてさ……」
来てくれるよね、と聞こうとした言葉が浮きっぱなしになる。
わたしが何か言うより先に、彼女はあっという間に睡魔にさらわれていってしまった。疲れていたのだろうか。横たわる身体に寄り添ってみても、全く起きる気配はない。
「つまんない」
思わずそう漏らして、わたしは指先で彼女の頬を触ってみた。
初めて会った日の事は今でも鮮明に覚えている。本物の王子様のようにわたしをお姫様扱いしてくれたあと、夢見心地なまま唇を奪ってきたのだ。あの時、彼女は何をしたのだろう。身体の底から仄かに温かな気が逆流してきたかと思えば、急に眠気が起こって体がふらりと力を失った。
すぐさま彼女が支えてくれたので転ばずに済んだけれど、あれ以来、同じようなことは起こらない。せがめばキスしてはくれるけれど、あの時のような不思議な感覚はもう生まれなかった。
代わりに訪れるのは、単なる幸福感。
彼女のキスはどんなに素晴らしい夢よりも幸せで温かいものをわたしにくれた。頬に触れながら思い出してみれば、ふとその時の感覚が甦ってきた。思い返せば彼女からのキスばかりだった。わたしからしたことがあっただろうか。いや、ない。今まで気付かなかったことが嘘みたいだけれど、わたしは求めてばかりで、自分からしたことが一度もなかったのだ。
ぐっすりと眠る彼女。その柔らかな頬から手を離し、わたしはそっとその肌に唇をつけてみた。何故だろう。ただのキスをしたはずだったのに、わたしの唇から何かが漏れだしていくのを感じた。ぐっすりと眠っている彼女の肌を侵すように、わたしの体内からなにものかが漏れだして沁み込んでいく。驚くのも束の間、わたしの身体に起こったのは、「あの時」の感覚だった。
初めて唇を奪われた時に起こった脱力。そして言葉に出来ない高揚した気持ちに、全身が浮き上がるかのような快感。それは、彼女の頬っぺたに何かが流れ込んだ瞬間に間違いなく起こった。
恍惚としたものが頭を過ぎっていく。取りつかれたかのように、わたしは再び眠り続けている王子様の頬に唇を寄せていた。もっと感じたい。もっと。
しかし、その願いは半ばで断たれた。
「こ、こら!」
あんなに眠っていた彼女が起きあがり、わたしの唇を逃れたのだ。見つめるわたしを驚いた眼差しで見つめ、そしてはっと気付いたように唾を呑んだ。
「いつの間に……君は……」
何故か後退りをしながら彼女はわたしから距離を取った。どうして。なんで。訳が分からず近づこうとすると、彼女は大声で「来ないで!」と叫んだ。
その剣幕に驚き、怯えるわたしを見て、彼女は首を横に振った。
「――怒鳴って御免よ。でも、駄目なんだ。こんなことをしちゃ。君を不幸にさせてしまう」
「どういうこと? ねえ、どうして駄目なの?」
もう一度近づこうとすると、彼女はとうとう立ち上がってしまった。
「ともかく、今日はもう駄目だ。私は別の場所で寝る」
「そんな……どうして?」
何が起こっているのか分からなかった。どうして彼女は怒っているのだろう。その理由すら教えてくれず、彼女はわたしに背を向けた。置いて行かれるのだ。そう気付いて、わたしも慌てて立ち上がった。
「ねえ、待って。待ってよ。もうしない。もうしないから、お願い、もうちょっと此処にいて」
しかし、そんなわたしの願いは彼女に通じなかった。
追いかけようとすると、彼女は振り返り、鋭い眼差しをわたしに向けてきた。その視線だけで動きを止められると、もう何もかも分からずに泣きたくなってしまった。
そんなわたしを見て、彼女もまた悲しそうな表情を浮かべた。
「――御免ね。怒っているわけじゃないんだ。でも、少なくとも今日は、君と一緒には居られない。また明日の夜に会いに来る。その時に必ず理由を教えてあげるから、泣かないで」
怒っているわけではないのだろうか。
でも、どちらにしても、今日はもう一緒に居られないとはっきり言われてしまった。何であんなことをしてしまったのだろう。こうなった理由は分からないままだったけれど、わたしはとにかく自分の行動を責め続けていた。そうしている間に、彼女はあの翼の生えたネズミのような姿となって何処かへと飛び立っていってしまった。




