浴場、そして
かぽーん。
温泉といえば、といった音が浴場に響き渡る。
「ふう…」
お湯に浸かりながら、千咲はうっかりため息を漏らした。
(中のお風呂は素晴らしいんだけど…)
そう、浴場内のお風呂は大きく綺麗なのだが。
(露天風呂があれではね…)
外には、紅葉がライトアップされたとても美しい景色が広がっている。通常であれば外にいきたいところだが…
なんと外の風呂は身長160cmの千咲がぎりぎり足を伸ばせるぐらいの広さしかないのだ。しかも汚い。
『最近は客もめっきりこなくてね… 従業員も私だけになってしまったよ』
ここにくるまでの間に、大輔がそうぼやいていたのを思い出す。
(確かにこれじゃ、お客さんこないのも仕方ないかも)
そう思いながら(失礼だが)、浴場を後にした。
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千咲は事前に案内された一人部屋にやってきた。流石に義院とは別の部屋だ。
部屋には先ほど渡した荷物が置いてある。義院が運んでくれたのだろう。
(ありがたいなあ)
そう思ったが、千咲には以前から気になっていることがあった。
(…なんで義院さん、ううん、志磨さんは私にこんなにも優しいのだろう?)
その疑問は母が亡くなったすぐには感じていなかった。きっと心配してくれているのだ、と思っていた。
でもその後もずっと千咲のことを気にかけてくれている。旅行にまで連れていってくれるぐらいに。いくら父が経営しているとはいえ、お金もばかにならないだろうに。
…ただの隣人としては、あまりにも優しすぎる。不自然なほどに。
(ただの隣人?ううん、違う…志磨さんは…)
ぽーん、ぽーん、ぽーん。
「ひょゆわあ!?」
部屋の古時計が鳴った。22時を指している。
「いけない!ご飯、食堂にとりにいかなきゃいけないんだった!あ、そうだ、義院…志磨さんも呼ばなきゃ ご飯は大人数で食べたいしね」
思考を巡らせていたことも忘れ、千咲は志磨の部屋に走っていった。
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「志磨さーん」
部屋の前でそう呼びかける。
しかし返事はない。
「志磨さーん、ご飯とりにいきましょう」
やはり返事はない。
「志磨さ… あれ?」
よく見るとドアが少し空いている。
「鍵かけなかったのかな?」
部屋が空いてると、覗いてみたくなるのが人間というもの。千咲もご多分に漏れず、お邪魔しまーす、といって部屋に足を踏み入れた。
基本構造は千咲の部屋と変わらなかった。
違うのは、なぜか枕が2つあることぐらい。
(マイ枕かな?志磨さん、もしかして枕変わると眠れない?)
普段優しくて頼りになる彼からは想像できないほどに可愛らしい枕だった。
もっとよく見ようと枕に近づこうとすると、
ぺきっ
「ん?」
左足の違和感に気づきひょいっと足を上げると、そこには鈍く銀色に光る小さな鍵が落ちていた。
「なんだこれ?鍵?」
広いあげてみる。この旅館の部屋の鍵かとも思ったが、ここはカードキーだ、鍵を使うはずがない。ということは、志磨の持ち物だろうか?床に無造作に落ちていたのが気にならないでもないが。
「こんなとこに落ちてたら、なくしちゃうよ」
後で志磨さんに渡してあげよう、そう思って千咲はそれを自分の胸ポケットにいれた。それが志磨の部屋への不法侵入の末に手に入れたことも忘れて。
「さーて、志磨さんいなかったし、ご飯とりにいこうかな」
正直部屋の前で志磨さんと呼ぶのは緊張した。いなくて良かったような、残念なような。
千咲は腹の虫を収めるために、食事をとりにいった。
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「うぅ…」
まさか、「食事をとる」というのが、「おにぎりを取ってくる」だなんて!
旅館だから料理が出るだろうと淡い期待を抱いていたが、どっこい人生そううまくは運ばない。
志磨は食堂にいた。遅かったですねなどと言われつつ、結局二人で食堂でおにぎりを食べた。…顔はまともに見られなかったが。
二人で一度部屋に戻ったのだが、23時ごろ志磨が部屋にやってきた。
「見せたいものがある」と志磨に言われて、千咲と志磨は二人で山を登っている。風が強くて、歩くのがやっとだ。ロープウェーはすでに止まっている。明日ではだめかと聞いたが、夜でないと見れないからと言われて、ひっぱりだされた。
「志、志磨さん… あとどれくらいですか…」
へろへろの千咲は、息絶え絶えに志磨に話しかける。
「もうつきましたよ、ほらっ」
志磨がそう声をかけると…
「…わあっ!」
山の頂上からは、美しい景色が見えた。
このあたりは山ばかりだが、向こうの方に自分たちが住んでる町が見える。ビルの照明が、ここまで美しく見えるとは思わなかった。
「すっごい綺麗ですね!これて良かったです!」
「それはよかった、喜んでもらえて嬉しいですよ」
先ほどとはうって変わって興奮した様子の千咲に、志磨は笑いかけてそう言った、と思う。薄暗くぼんやりとしか見えないが、千咲にはそう見えた。
「千咲さん、あの、実は…伝えたいことがあるんです」
志磨はあの日と同じ照れくさそうな顔をする。
「な、なんですか?」
なぜだかそれだけで千咲は恥ずかしくなって顔を逸らしながらそう返す。
「こんな時に、不謹慎かもしれませんが…」
「千咲さん 貴女が好きです」
山の風がよりいっそう強くなり、二人の間を通り過ぎた。
長くなってすみません。
次かその次で完結です。