毛虫
意識を取り戻しても未だ夢の中をさまよっているのかと思った。まぶたの運動で確かに目を開いているのだが、それなのにどうにも物が視えない。どこに目を向けても何一つ視界に捉えられない闇がべったりと張り付き、しかも、その奥では正体不明の何かがしきりに蠕動運動をしている気配がしていた。
気持ちが悪いのは体全体を覆っている奇妙な皮膚感覚だ。まるで押しても戻る柔らかなゼリーに包まれているような包容感と、サウナにも似た蒸し暑さ。本物のサウナとちがうところはそれが粘つく限りない湿気をともなっていることだ。
そして、音。耳にはさっきから絶えず僕を覆っている壁の向こう側から聞こえてくる、摩訶不思議な音を拾い聞いているのだった。問えばそれは束になった配水管を水が流れていく音、妊婦のお腹に超音波を当てて受け取る胎盤の活動する音、または機械が材木を粉砕する際に発するような音、それらが一塊となって雑然としつつも意外に調和を保ち、毛色の違っためいめいの振動がオーケストラの演奏楽器のごとく統制をとってかき鳴らされているのだった。
ここは一体どこなのか。僕を充たす混乱は時を経るごとに騒々しさを増し、手足をメチャクチャに暴れさせたりした。しかし、下手に暴れると今度は体を包むのゼリー状の幕が蠢きだし、ギュ―ッ、と収縮してきて僕を締め付けてくるのだ。あまりの圧迫感に息さえも止められて、窒息で危うく脳みそが外に飛び出るところだった。為す術なくじっとしていると、やがて圧迫は収まり常態に復していった。
一体全体、ここはどこなのだろう。僕はもう暴れることはしなかったが、されどもこの根本的な疑問を野放しにしているわけにもいかない。
とにかく、この得体の知れない不気味な場所で、僕はまだ正気を保っている。しかし、それもいつまで続くか分からない。ここがどういうところかは分からないが、少なくともこちらから何もしなければ安全だと思う。いや、それも確証のある推測ではない。だが、もともと何一つ理解の及ぶ状況ではないのだから、一つくらい自分に都合の良い解釈をしてみたっていいではないだろうか。ともかく腰を据えて考えられる精神状態にしないと状況把握には乗り出せない。
とりあえず、今日一日の覚えている限りの記憶を遡ってみよう。
例年の夏場と同様に朝から暑苦しかった。昨日のニュースで今年最高気温を記録したと言っていたが、忌々しいことに今日もそれくらいの気温まで上がる予感がした。僕は朝からどんよりした部屋の空気に憂鬱になった。
県立の高校に入学してはや一年と半年。好きでもないのに小学校の頃からやらされている野球はいつまでたっても才能が現れず、高校での部活動でもそれは変わらなくて、今では惰性で続けている感じだ。野球を強いた元熱血球児だった父さんも大会で芳しい成績を出せない僕には愛想を尽かし、訓練で疲れて帰ってきても「おつかれ」「がんばれよ」の二語を気のない感じで投げかけるのみ。どうしてそんな部活を続けているかと言われても自分でも分からない。きっと、僕には野球しかなくて、それ以外のことをしている僕なんて想像できないからかもしれない。唯一のアイデンティティである野球は、それでも僕を振り向いてくれることはなかった。
今朝もまた朝から訓練である。このどぎつい太陽が権勢を振るう炎天下を他の生徒に混じってランニングしなくてはならないのだ。それを思うと気が重くなる。カーテンを隔ててさえも日光の熱気は容赦なく僕に降り注ぐ。寝相を変えて腕で目元を覆った。このまま眠っていたい。暑さも辛さもなにもない、幽かな夢の世界に逃げ込んでしまいたかった。
しかし、現実は情けもかけてくれず追撃してくる。
「ほらほらほら、いつまで寝てんだよ! 朝から練習があるんだろう? 遅刻しないうちにとっとと起きなさい。ほら、中に入るよ!」
入り口をドカドカと叩きのめしている母さんに言いようのない苛立ちが募る。寝起きはだれでも不機嫌になるものだが、今回のそれは今にも爆発しそうな火山であった。
「ううん! いま起きるよ!」
中に入ってこられる前に返事に怒鳴り返す。年頃にもなれば自室への親の侵入は文句抜きの屈辱となるのだ。
ベットに起きなおって伸びをする。大量の汗でシャツはべっとりと張りつき、髪の毛は下手にワックスでもキメたようなヌメりをもっていて、顔面に新らしい川ができていく。たいがいのスポーツマンの例に漏れず僕も汗っかきだ。
すぐにもシャワーを浴びたい気分だが時間は許してくれない。早く準備しないと母さんの言うとおり遅刻してしまう、遅刻した時の顧問の落雷を甘んじて受ける気はしない。
着替えをして階下に降り、食事をとる。精をつけてもらうためとかいって我が家の朝食はいつもご飯だ。夏バテ気味の状態では正直食欲は湧かないが、食べていかなくては体力が持たないことも事実。無理やりにも喉に押し込む。
外に出るとヒーターでも焚いたような熱風が顔に当たる。背中にも汗腺が開いて汗がたらりたらりと流れ落ちいく。腋の下はすでに間欠泉となっていた。
風物詩を通り越して騒音にも等しい大絶叫をあげる蝉たちは声はすれど姿はみえず、意地の悪い鳴き声は頭痛を呼ぶ。
しかし、夏の敵は単なる暑さや蝉ににとどまらない。僕は足元に目を向け、嫌悪感で眉をしかめた。
玄関口に敷き詰められた石のタイルの表面に大量の毛虫がうじゃうじゃと犇いていた。大小色彩さまざまな毛深い幼虫の群れが行き交い、すれ違いあっているのだった。よくみると毛虫たちは独自の交通網を開発したかのように、これだけの数が勝手気ままに突き進んでいるのにまるで争いも起こさず、こちらの気持ちなど素知らぬ風情で実に平穏そうであった。その様子はグロテスクな生き物が織り成す曼荼羅。回転するにつれて絶えず模様を替える万華鏡とも言えた。
僕は生理的に湧き上がってくる不快感に耐えて、一歩一歩足を進めていった。なるべく毛虫を踏んづけないように用心しながらの進軍は集中力を使うだけに汗の湧出をさらに加速させた。とはいえ、あのクリームコロッケのような毛虫の内容物を靴裏になすりつけたくはなかった。
やっとの思いで登校に使っている自転車まで来れた。幸いにもざっと見渡して我が自転車はヤツラの交通ルートからは外れていたようで良かった。
サドルにまたがって家の敷地を出た。タイヤで地面を這う何体かを潰してしまったようだが、付着した汚れは走っているうちに擦れて消えるだろうし、むしろ、少しだけ痛快でさえあった。今は自分に不快感を与える存在は何もかも死んでしまえといった気持ちなのだった。
それにしても、どうしてあんなにも毛虫が発生していたのだろうか。今さらながらそんな疑問が湧いた。あんな数の毛虫が集まっているのを今まで見たことはあっただろうか。……まぁ、夏だし、そういう時もあるのかもしれない。
僕はそれで納得してしまって、嫌味な虫のことなんてもう考えなかった。
真上から照らしてくる太陽に焼かれて、髪の毛は今にも発火しそうだ。Yシャツはじっとりと濡れているし、ペダルを漕いでいるので靴の内部はこもった熱気で我慢できないほど気持ち悪い。走っても走っても吹き付けてくる風からは一ミリの涼気も感じられず、ただ暑気を煽っているに過ぎなかった。朝からこの調子ではこれから先が思いやられる。
吐息に重さが加わった。
右手に幅の広い川が望める。堤防の上の道に差し掛かってた時、僕は違和感を感じた。思わず自転車を急ブレーキしていまうほどの違和だった。前方に目を凝らす。
信じられなかった。夏の暑さがみせた幻覚に違いなかった。それともこれが噂に聞く蜃気楼なのか。内陸で蜃気楼が発生するものなのかは知らなかったが、そう考えるのが一番妥当だ。少なくともあれが現実だと認めるくらいならば。
道にも土手にも人影はない。朝とはいってもいつもなら二人か三人の人間は見かけるのだが、誰もいない。川とは反対の左側の堤防下には民家がずらりと並んでいるのだが、いつもなら見かける洗濯物を干している主婦や、庭に立っている老人や、玄関を掃除している人などの影がまったくない。
僕は改めてそれに目を向けた。幻覚ならば一度目を逸らせば消えているかもしれない。しかし、それは変わらず前方にあり、さらにははっきりと分かる形でこちらに近づいているのだ。もし、蜃気楼だったらそれ自体が移動するはずはないから、蜃気楼説も否定された。残る選択肢はそれを現実と認めて逃げることだった。
僕はそれから、僕の背丈の倍以上もある巨大な毛虫から逃げ去る決意をした。
そう、それは想像を超えた大きさを誇る一匹の毛虫だった。切り落とした人間の指にゴワゴワした柔毛を無数に植えつけたサツマイモ状の生物が全身を波打たせ、その震えが節々を盛り上げるたびに前進する。路面と胴体の間には幾つも生えた短く太い突起が群れなしてアスファルトを引っ搔いている。
僕は自転車もろとも半回転して元来た道を戻ろうとした。横側を向いたついでに町向こうに連なる山々が目に入ったのだが、僕は愕然とした。どうしてちっとも気が付かなかったのだろう。遠くの山々なのにはっきりと木々の間にヤツラの姿を視認できた。たくさんの毛虫どもが山林に集まって動きまわっていた。巨大な胴体を山間にねじ入れてそこに植わっている樹木を押し倒し、凄い勢いで貪っているのだ。それはまるで一枚の葉っぱを食い破っていく様子と同じだった。
そんな悪夢の情景に心を奪われていると、太陽を覆い隠してしまうほどの影が頭上に現れた。僕は空を見上げ、唖然とした。もうすでに言葉は失っていた。
航空機が地上すれすれを飛んでいるのかと思った。が、違った。それは航空機ではなかったし、機械でも無機物でもなかった。
大型ジャンボジェット機にも匹敵する途方もない巨躯をそなえた蛾が大空を背景に飛行していた。巨大蛾は一匹ではなく、その背後にも何十何百という巨大蛾のシルエットが編隊を組んでいた。空の彼方に目をやれば続々とこの地の上空に集まってきているのは明白だった。
僕はしばし相次いで起こった異常事態に逃げる気力さえも失っていた。それも、後方から近づいていくる怪物の存在を思い出すまでだった。
僕は自転車をたてなおし、全速力で走り出そうとした。ペダルに力を込めた瞬間、全身の筋肉が麻酔薬でも打たれたみたいに脱力していった。自転車が地面に倒れ、僕もその近くに横たわった。
仰向けに倒れたので空の異様が嫌でも目に入った。何通りもの色彩をゴテゴテに塗りこんだ渦巻模様の羽が羽ばたくごとに、キラキラと散っていく雪みたいな粉が降り積もっていく。たくさんの巨大蛾が自分たちのリンプンを世界に撒き散らして通り過ぎていく。
おそらくこのきらめく粒には麻痺作用があるのだろう。大気中に充満していたリンプンを知らず知らずのうちに吸い込んでしまい、その効力で僕の体は身動きを封じられたのだ。
蛾たちの合間から慌てたようにちらほらと現れる太陽は、こうしてみると案外やさしそうだったのに気づいた。さっきまであれほど毒づいてたのに、今度はいつ太陽をじっくり見られる機会が来るのかなと親愛の情まで抱いていた。
が、せっかく和解した太陽も大きな影に遮られてしまった。あの巨大な毛虫がとうとう僕の間近まで到達してしまったのだ。
最後に見たのは、次々としたたり落ちる涎の糸をダラダラと引いている、暗く湿った洞穴だった。
今までの記憶をゆっくり遡ったが、ここまで来て僕の脳内はパニックを起こした。
何てことだ。僕が最後に記憶していることが本当に事実なのだとすれば、ここは、一体なんなのだ。僕は一体何に包まれているんだ!
全身に密着している柔らかな感触。生暖かい温度。遠くから響いてくるいろいろな音の群れ。
あぁ、考えたくない。そんなことは絶対に認めたくない。
しかし、このままでは埒が明かない。この場所がどこなのか、何がなんでも突き止めなくては居ても立ってもいられない。だけれど、もし、仮に、ここが、本当に、そうだとして……いや、そんなことは絶対にありえないんだ!
そういえば、ポケットのなかに携帯電話を入れていたのを思い出した。そうだ、そういえば母さんや父さんはどうなったのだろう。部活の仲間や学校の友達は無事でいるのだろうか。
僕は腕を折り曲げて、抵抗する軟い壁を押し通してポケットに手を伸ばした。携帯電話を胸の前まで持ってきて開こうとしたが、その途端、躊躇した。
これで状況が分かるのだ。携帯電話を開けば照明機能が働いてこの無上の闇に人工の光が射す。それはひとえに、あの忌まわしい想像の是非を決する瞬間にもなるのだ。
覚悟を決めるしかない。
僕は固く目を閉じた。そして、携帯電話を開く。
おそるおそる目蓋を押し上げていく。
喉が張り裂けるくらいの悲鳴を放った。
終
ショートショートのつもりですが自信はありません。
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