ぼくの涙
堺っていうちょっと嫌いな奴と話をした。何がいやだって訳じゃないんだけど、あるでしょ、なんとなくいやな奴。ぼくにとっては堺っていう男はなんだか好きになれない、そんな感じだった。
でも、堺はいろいろきいてきたんだ。
「克己はなんで泣いていたんだろう」
とか、
「ちょっと怖い2人ってだれだろう」
って。
ぼくはそんなことどうでもよかったんだ。それよりもぼくが泣いているところを36に見られたことがなにより苦痛だった。
でも、
「泣けばいい」
そう言われて、ぼくはほっとした。あの日、立石公園の石段の上でおかあさんに背中を押されて以来、ぼくはずっと、気持ちを張って生きてきたんだ。
何があったのか言えるかい?
36はぼくにそう言うと、36の病室の大きな窓ガラスの向こうをずっと見つめていた。ぼくが、
「あのさ、窓ガラスの向こうに何があるの?」
と聞くと、36はハッとした顔になって、
「何もないさ」
そう言ったんだ。
しばらくして、ぼくは言ったんだ。
「おかあさんに押されたんだ・・・・・。石段の上で・・・。
それで足が折れたんだ。
退院したら、ぼくは殺されるかもしれない。」
って。
ぼくがぼくの周りであったおかあさんのことを話したのは、この時が最初で最後。36は黙って聞いてそして言ったんだ。
「黙って、一人で生きていけ。」
って。ぼくは、36の病室で一人また泣いた。堺って奴がいたらぼくは絶対に誰にも話さなかったさ。でも、36には話してしまったんだ。
「俺も。」
36は窓ガラスの向こうに視線をやりながら、そう言ったんだ。
「俺も、黙って一人で生きているさ。」
と。
それからしばらくして、ぼくの退院が決まった。
おかあさんが先生に呼ばれて、久しぶりに病院にやってきた日、ぼくはずっと朝から36の部屋に隠れていた。
看護婦さんが36の部屋をのぞいて、
「前の部屋の井上君見なかった??」
って聞いた時、36は、「いや」とだけ答えて、「今日はあまり気分がすぐれないので、ドアを閉めておいてください。」
と言ってくれた。実際、36はあまり調子が良さそうには思えなかったけど、ぼくは、どうしてもおかあさんの顔を見たくなかったんだ。36は、ぼくに向かってこう言った。
「しっかりしろ。お前のおかあさんじゃないか。」と。
でも、ぼくのおかあさんは、ぼくを殺そうとした。ぼくはそう思っているから、どうしても、会いたくなかったんだ。
ねえ、ぼくにはこれから先の未来があるんだろうか・・・・。
って言った時、36は言ったんだ。
あるさ。
って。
その日、急に、本当に急に退院することになったんだ。
正確に言うと、お金が払いきれなくて、病院から追い出されたんだけど、
部屋を出てゆくその時に、
ぼくが、36の部屋を覗き込んだその時に、
36の部屋は、諏訪湖の見えるその窓が大きく開かれて、
カーテンが怖いくらいになびいていたよ。
一瞬、そこから飛び降りたのかと思ったほどだったよ・・・・・。
結局それっきり会うことはなかったけど、
36はずっと誰かを待っていたんだと思うんだ。
もう、確かめようがないんだけどね。