みんなの涙
ぼくが次に36を見たとき、36は本を読んでいた。
あんなに廊下からの物音を気にしていたはずなのに、いつの間にか、廊下なんてどうでもいいという風だった。
そして、読みかけの本を膝にのせて、遠く諏訪湖が見える大きな窓を見つめていた。
ぼくの存在なんてどうでもいい、
というのが気に入らなかったけど、何がおもしろいのか、必死で本を読んでいた。
36のところには、奥さんらしき女の人と、友達だっていう男がよく来ていたんだ。
けど、ぼくはその男があんまり好きじゃなかった。36はいつも、車いすでエレベーターの前まで見送って、「また、きっと」って言って別れていたんだ。
でも、ぼくはとてもとても36が気になっていて、とうとうその男に話しかけてしまった。
ぼくが、ようやく松葉杖で入院していたフロアをあるけるようになったあの日。
あの日、その男は男のくせに涙を流してエレベーター前の椅子に座って泣いていた。
36は必死で声を殺していたけれど、その男は、もう、廊下に響きそうな勢いで泣いていたんだ。
ぼくが、
「36は声なんてださないぜ。」
と言ったら、36の意味がわからなかったらしくて、驚いた顔をしていた。
後でわかったけど、ちょうどその時、36は検査でどこか別の階に行っていて、張り詰めていた気持ちが急に緩んだんだそうだ。
「大人のくせにだらしないな。」
そう言ったら、あわてて小さなタオルで顔を拭いていた。
ぼくが、この間、いつも開いている36の部屋のドアが閉まっていて、中から、36が枕に顔を押し付けて、声を殺すように泣いていたんだ、、、、、と教えたら、
そいつは絶対に誰にもその話はするな、と言った・・・・・。
「格好悪いだろ。男が泣いていたのが誰かにばれたら・・・。」
って。
「おじさん、名前は??」
「おれか。おれは堺良二。
克己の友達さ。」
「ふ~ん。俺、井上達也。」
「聞いてもいいかな。」
堺が話し始めた。
「克己は、、、あ、36はよく泣いているのかい?」
「・・・・・・・・・・」
「36と俺は長い付き合いなんだけど、36は入院しているだろ。
泣かれると困るから、あんまり聞けないんだよ。」
「そっか。
前はね、ドアを開けて、誰かが来るのを待っているようだった。
でも、怖いおじさんが2人来て、そのあと、36の部屋はいつもドアがしまっているようになったんだ。」
「こわいおじさん?」
「そう。怖いおじさん。」
堺は何か気がついたみたいだったけど、ぼくはまだ、それがなんだったのか理解できるほど大人じゃなかった。
「克己とは仲良しなんだね。」
「別に仲良しじゃないさ。」
ぼくがそう言うと、克己はね、、、とそいつが話し始めたんだ。
「克己はね、ちょっと頑張りすぎちゃったんだ。で、足がぽきっと根元から折れたのさ。
君は足首、克己は太もも・・・。いっぱい走って転んだのかい?」
そいつはぼくの足のことを聞いたけど、まさかおかあさんに押されたなんて言えなくて、黙っていたら、
「聞いちゃまずかったのかな。ごめんよ。」
って言った。
そしたら、ぼくは、どういうわけかたまらなくなって涙がたくさん出たんだ。
おかあさんのことを黙っているのがこんなに辛かったのかな。
ぼくはあんまり好きじゃなかったそいつの胸の中で、ほんとうにほんとうにたくさん泣いたんだ。。
どれくらいたったかな。しばらくして、36が車いすにのって、エレベーターで帰って来たんだ。
ぼくがあわてて涙を拭いたら、36はこう言った。
「見てないから大丈夫さ。泣けばいい。」