36の涙
夏の暑い日だった。
家にいるとおかあさんに嫌われるから、ぼくは、虫取り網と虫籠をもって朝早くから長い石段のある公園に毎日出かけていたんだ。
ぼくたちの間では「階段公園」って呼んでいた。
本当の名前は「立石公園」と云うんだけど、誰もそんな名前では呼んでいなかった。
ギラギラした太陽の下。ぼくは毎日走りまわっていたのだけど、ぼくは誰かに背中を思いっきり押されて、気がついたときは階段の下まで転がり落ちたんだ。
そして、次にいたのは病院のベットの上だった。
警察の人にいろいろ聞かれたけど、ぼくは転がりおちてゆくその時に石段の上で、怖い顔をしたおかあさんを見たんだけど、でも、誰かに押されたことも、おかあさんを見たことも決して誰にも言わなかった。
言えなかった。ほんとうに怖かったから。
ずっと前からおかあさんが怖かった。
ぼくのおとうさんはぼくが生まれる前にぼくとおかあさんをおいて、べつの女の人と出て行ったんだときいたことがある。おとうさんが欲しかったけど、おとうさんの話をすると、おかあさんは、ものすごい顔をしてぼくのことを怒るから、ぼくは絶対におとうさんの話はしなかった。
おかあさんは朝早くから遅くまで働いて、毎日のように溜息ばかりついていた。
溜息をつくと、幸せがそのたびに逃げてゆくんだ、と学校の先生が言っていたのだけど、おかあさんは、毎日毎日たくさん溜息をついていた。
ある日学校から帰り、アパートの部屋には、布団の上に汗をかいた疲れたおかあさんと、知らないおじさんが寝ていた。
あわててぼくはドアを閉めてその場所から立ち去ったんだ。
そんなことがあって、ぼくはおかあさんに突き落とされたんだ。
長い石段の上から。
おかあさんはぼくが邪魔だったんだと思う。
ぼくが入院した病院でおかあさんは、
「足の骨なんか折って」
と言った。心配しているとは思えなかった。
ぼくが車いすで病院の中を動けるようになった時、ぼくの病室の前の部屋に一人の男の人が入院してきた。
「いくつ?」
その人はドアを開けたままの一人ぼっちの病室から、ぼくをのぞきこんでそう言った。
「8歳」
ぼくがそう言うと、その人は、
「俺、36」
と言った。で、その日から、ぼくたちは
「よう、8歳!」
「なんだよ!36!!」
とお互いを呼び合うようになったんだ。
後から気がついたんだけど、36はいつもドアをあけたままにして、誰かが来るのをずっと待っていたんだと思う。いつも、ドアの外を気にしていて、物音ひとつ聞き逃さないようにしているように思ったんだ。
それから、何日かおきに女の人が36の部屋にやってきて帰って行った。短い時間で、話をしている風でもなく、あれが36の奥さんなんだと思ったけど、36はちっとも楽しそうじゃなかった。
36が待っているのは、奥さんじゃないんだな、と8歳のぼくにだってわかったさ。
ぼくのところへも36のところにも決して待っている人は来てくれなかったんだ。
ぼくのところに学校の先生が来た日だったから4月20日だったけど、36の部屋はずっとドアが閉まっていて、何かあったかと思っていたら、そこから怖い顔をした男の人が出てきた。あわててぼくは廊下の隅に隠れたんだけど、その時、その怖い顔をした男が言ったんだ。
「ヤツには無理ですね・・・」と。36に何が無理だったのかはぼくにはわからないけど、そのあと、36の部屋からは36が枕か何かに顔を押し付けて泣いている声が聞こえたんだ。ぼくといっしょだった。おかあさんに聞こえないようにぼくは毎晩そうやって泣いていた。だから、あれは絶対36が誰にも聞こえないように必死で枕に顔を押し付けて泣いていた声だと思う。
36はその日からしばらく部屋のドアを開けなかった。