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忘却の海

作者: 星賀勇一郎
掲載日:2025/10/25





何も無い町。

町と呼べるのかどうかも少し不安になる程の集落なのかもしれない。

目の前に広がる海と背後に迫る山、その狭い隙間の様な場所に民家が建つ。

記憶よりも道幅も狭く、コンクリートで舗装された道路。

平日の昼間だというのに人影も無い。

私が幼い頃にはこの町にも子供たちの声が溢れていて、日に焼けた老人たちが港に着く船を迎えていた。


此処はもう死んでしまったのだろうか。


そんな風景を岬から眺めていた。


私はこの場所に何を見に来たのかさえ忘れてしまった。







「なあなあ、これ見て」


博子が僕を呼んだ。

陸に上げられた漁船を両脇からロープで引っ張って固定してあるその場所に僕は入って行く。


どうせ、そんな所に何も無いはわかっているのだけど。


ロープを潜って奥に入って行くと孝道と芳雄、それに和恵もしゃがみ込んで段ボールの箱の中を見つめていた。


「何よ……。何かあるんか」


僕は皆の傍に近付いた。

すると段ボールの中には三匹の子猫が身を寄せ合って小さな声で鳴いていた。


「子猫か……」


僕は和恵と芳雄の間に割り込む様にしゃがみ込んで、その猫を見た。


「此処に捨てられとったとよ」


博子が子猫の顎の下を指で撫でながら言う。


「俺、家から牛乳取って来る」


と孝道が立ち上がった。

ストッパーの外れたランドセルをカチャカチャ鳴らしながらロープを潜って家の方に走って行くのが見えた。

孝道の家は其処から直ぐの場所にあった。


「こがん所やと寒かよね……」


和恵は一匹の子猫をそっと抱かかえた。


「暖かか……」


和恵は赤ちゃんでもあやす様に身体を小刻みに振る。


「誰も飼えんもんね」


芳雄も一匹の子猫をそっと段ボールから出して胸に抱えた。


僕はわかってた。この子猫たちは多分死んでしまう。

多分、僕だけじゃない。

此処に居る皆がそれをわかっている。


猫を飼っている家は多い。

その猫が子供を産むと、その子猫たちを生きたまま海に放り込む。

浜辺に死んでしまった子猫が打ち上げられているのを何度も見た事がある。


「皆で、此処で飼わん」


納屋と呼ばれている漁師の道具を入れている小屋が幾つかあって、それを見て和恵が言う。

だけど、納屋の中にその猫を入れたとしても、多分、翌日には海に放り込まれる。

どっちにしてもこの子猫が生きて行くのは難しい。


「此処の人に怒らるるやろ……。それに餌とかどうするとか」


芳雄は和恵と同じ様に身体を揺すりながら言う。


「持って来たばい」


と孝道がロープを潜って戻って来た。

小さな皿と牛乳瓶を一本砂利の上に置く。

それを見て和恵と芳雄が子猫を段ボールの中に戻した。

孝道が皿に牛乳を入れて段ボールの中に置く。

子猫たちはまだ目が開いてないので、牛乳が置かれた事もわからない。

一匹の子猫がその皿を踏みつけ、牛乳を段ボールの中に溢した。


「しょんなかねぇ……」


と孝道はまた皿に牛乳を入れて、指先に牛乳を付けると、子猫の口にその牛乳を付けた。

子猫はその牛乳を舐め初め、ようやく皿に入った牛乳を舐め始めた。

他の二匹にも孝道は同じ様にして牛乳を飲ませる。


孝道の家には猫が居て、猫の扱いには慣れている様だった。


「孝道の家は猫、飼えんとか」


芳雄が言う。

孝道は首を横に振って、


「うちにはもう二匹もおるけんね……。多分、婆ちゃんがいかんって言う」


皆で皿の牛乳を舐める子猫たちを見ながら、また無言になる。


「うちも生きもんは飼えんもんね」


博子が呟くと、芳雄も和恵も黙って頷いた。


それ程に生き物を飼う事は大変な事だという事は皆知っていた。


「朝晩は寒かけんね……。こいつ等直ぐ死ぬかもしれんね……」


孝道は牛乳を舐める子猫の頭を撫でながら言った。






私はその場所に立って、記憶の破片を眺めていた。

生まれたての子猫に罪は無い。

生きる権利もある。

だけど、此処では生きて行けないのだ。

だから子猫や子犬を見て可愛いと思わない様にしていた。

いくら可愛くても、いくら愛おしく思っても、直ぐに死んでしまうのだから。







「一軒一軒回って、飼ってもらえる家ば探す……」


博子がそんな事を言い出した。


そんな事をしたところで、「よそわしか、海に捨てて来い」と言われるのが関の山だ。


どっちにしても子供の僕らでは、子猫の命を守る事は出来ないのだ。


「どげんする……。此処に置いて帰るね」


芳雄が子猫の頭を撫でる。


子猫たちはお腹いっぱいになったのか、牛乳を飲むのを止めた。


「置いて行ったら死ぬとばい」


孝道は立ち上がって芳雄に言った。


「じゃあどげんするとや」


芳雄の言葉に皆、黙り込んだ。


一匹の子猫が段ボールの中で粗相した。

それを見た孝道が海岸に下りて、海水でふにゃふにゃになった段ボールを拾って来た。


「乾いとるけん、これで良かろう……」


そう言うと、子猫たちをそのふにゃふにゃの段ボールに移す。


「何か毛布でもあったら、夜も寒うなかろうばってん」


二月の寒空、毛布があっても寒いだろう。


僕は「にゃあにゃあ」と声をあげる子猫をただ見ていた。


生まれて来るのが今じゃなければ。

生まれて来るのが此処じゃなければ、この子たちは生きて行く事が出来たのだろうか。


「少し暖かか所に連れていかん」


博子が言った。

山の方に行けば、農機具を入れる納屋もある。

そっちは春になるまで誰も使わない場所なのかもしれない。


孝道は、少し考えている様子だった。


「山にうちの納屋があるけん、そっち行こか」


と言い、段ボールを持ち上げた。


そして僕たち五人は孝道の上の裏を通り、山の方へと歩いた。


納屋と言っても人が住める様にもなってない。

隙間風が通る、雑な作りの小屋だった。

そこに農機具が置いてある。

孝道がその納屋の戸を開けて、その中に段ボールを入れる。

すると子猫は安心したのか、さっきとは別の子猫が粗相した。


孝道は山から枯葉を拾って来て、その段ボールの中に敷き詰めた。


「猫って生きとるけん、食うモンもいるし、糞もしょんべんもする。そん世話ん出来んかったら飼う事も出来ん」


僕は黙って孝道のする事を見てた。


段ボールの中でカサカサと音を立てて、子猫たちが枯葉の中を不器用に歩く。


「俺らがしてやれるのは、こんくらいしか無かとよ……」


孝道は顔を上げて力なく微笑んだ。

そして納屋の戸を閉めた。


僕たちは納屋の中から聞こえる小さな鳴き声を聞きながら山を下りた。






死ぬのを待つ。

そんな気分であの日、山を下りた。

皆が何度も孝道の家の納屋を振り返る。

だが、私は多分、一度も振り返らなかった。

自分に関わらない命に悲しみが生まれない事を知っていたから。


泥濘む山道を、滑らない様に歩き、孝道の家の裏に出た。

そして其処で皆は別れた。


結構な距離を歩いて孝道の家の裏まで戻って来たと思っていた。

だが、孝道の家の裏に立つと、その場所から納屋は見えていた。

ほんの数十メートルの距離だった。


こんなに近かったのか……。


私は納屋を見て苦笑した。






その日、家に帰ると、ストーブの前に籠が置かれていて、その中に子犬が居た。


「おお、帰ったか」


爺ちゃんがその子犬を無理矢理抱き上げていた。


「どげんしたと。犬ば飼うと」


僕は爺ちゃんの前に座り、身を乗り出した。


「鉄屋の齋藤さんに分けてもろうたったい」


と嬉しそうに爺ちゃんは言っていた。

チワワという犬で日本では珍しい犬らしく、世界最小の犬だと言ってた。


「大きくならんと」


「ああ、そげん大きくならん」


真っ白なその子犬は小刻みに震えながら僕の方を振り返った。

慣れない場所で心細いのだろうか、ずっと震えている。


うちで犬を飼うのは初めてだった。

カブトムシや亀などを飼った事はあったけど、何故かそれと犬は違う気がした。


僕はその小さな犬が可愛くて、その日は夜遅くまでその犬を見ていた。


翌朝、起きるとその犬に名前が付いていた。

ナナと名付けられて、ぴょんぴょんと家の中を跳ね回っていた。


僕は学校に行く準備をして家を出た。

風が強く満潮で、海が荒れていた。

いつも孝道と待ち合わせをする場所を見ると、孝道と孝道のお父さんが大声で言い争っているのが見えた。


どうしたんだろう……。


僕はいつもよりゆっくりと歩いた。

その間に二人の言い争いが終われば良いと思った。


ふと見ると、昨日子猫を入れてた段ボールの箱を孝道のお父さんが持っていた。

そして孝道はお父さんに縋り付く様に引き摺られながら歩いている。


「止めろ。生きとるっつぉ」


孝道は大声で言う。


「じゃあなんね、お前、この猫の世話ばするとか」


「する」


「世話って言うとは餌代も稼いで、病気になったら病院にも連れて行く事ば言うとぞ」


孝道はその言葉に硬直した。


「そげんこつは出来んやろう」


そんな事、子供の孝道に出来る筈がない。


孝道のお父さんは孝道を振り払うと、海の傍まで行き、段ボールに入った子猫を海の中へと放り投げた。


子猫たちは小さな声で鳴きながら、波の荒い海の中へと落ちた。


僕は慌てて孝道に歩み寄った。

孝道は泣いていた。

多分、子猫が殺された事よりも、悔し涙だったんだと思う。

しっかりと拳を握り、コンクリートの地面を何度も何度も殴りつけていた。






私は桟橋に立ち、満潮の海を見ていた。

澄んだ海の底には無数の魚が泳いでいる。

海の中の魚は大きさがわからない。

荒い波は容赦なく私に襲い掛かる。

その飛沫を浴びながら、私はその海の向こうを見ていた。


そして空を見上げた。

空の色はあの頃と何も変わらない。

でも何かが変わっているのかもしれない。

私にはわからないだけで……。







「え、孝道のお父さんが殺したと……」


孝道は学校に着くと、博子と和恵、そして芳雄の前で頭を下げた。

博子と和恵はその場で泣き出した。


「酷かとよ……。せっかく生まれて来たとに……。何でそげん、酷か事が出来るとね」


博子は泣きながら声を荒げた。


仕方ないんだ……。


僕はそう思っていた。

だけど声は出せなかった。


「ごめん……」


孝道は何度も何度もそう言う。

僕も孝道の横で同じ様に項垂れていた。


その日、孝道のお父さんが子猫を海に放り込んだ話は学校中に広まり、皆が孝道の事を「猫殺し」と呼ぶ様になった。

そして孝道の周囲には誰も近寄らなくなった。


「お前もどっか行って良かとぞ」


後ろを歩く僕に孝道は言う。

僕は首を横に振った。


「俺は一緒におるとよ……」


孝道は今にも泣きそうな顔をしていた。


「父ちゃんが子猫ば殺したとは事実やけん」


僕も見た。

孝道のお父さんが子猫を海に放り込む所。


海に放り込まれた子猫は初め必死に泳いでいた。

しかし、徐々に力尽き、一匹見えなくなり、二匹目が沈み、三匹目が暴れる様にバシャバシャと水を掻くと、そのまま沈んで行った。

僕もその瞬間、涙が頬を流れた。


命が消える瞬間を見たのはそれが初めてだったかもしれない。






私は人気の無い町を歩いた。

端から端までその漁港を歩いても十分程の距離。

漁に出た船は一隻も帰っておらず、漁港は静まり返っていた。

昔はやっていた喫茶店も、もう閉店してかなり経っている様だった。


ふと、視線を感じて振り返るが、そこには誰も居ない。


本当にこの町は死んでしまったのだろうか……。


私はそんな事を考えて、クスリと笑った。


さっきまでいた桟橋が漁港越しに見える。

釣り人がやって来て釣りを始めた様だった。


多分、あの日からだった。


孝道がおかしくなっていったのは……。






孝道は学校に来なくなった。

年上の不良と一緒に居るのを見たと芳雄は言っていた。

毎日、先生から預かるプリントや給食のパンを持って孝道の家を訪ねたが、孝道に会える事は一度も無かった。


そんな中、僕はお父さんの仕事の関係で引っ越す事になった。

こんな田舎町よりは、何処に行っても楽しいだろうと思ったけど、心残りが一つある。

孝道に会えていない事だった。


僕はその日の夜、ナナと遊んでいると、縁側の窓ガラスを叩く音が聞こえカーテンを開けた。

そこに照れ臭そうな表情の孝道が立っていた。


「ちょっと出て来る」


僕はそう言って外に出た。


孝道がうちの前の海岸で海に向かって石を投げているのが見えた。


「孝道」


僕は、海岸に下り、孝道に近付く。


「ごめんな。こんな遅うに」


僕は首を横に振った。

孝道は海岸に転がる石の上に座った。

僕もその横に座る。


「お前、転校するとや……」


「うん……」


孝道が傍にあった石を海に投げると、その水面で夜光虫がキラキラと光った。


「いつ」


「三学期が終わったら……」


孝道は依然と変わらない様子だった。

だけど、久しぶりに見る顔は少し険しくなっていた気もした。


「何処に行くとや」


僕は答えようとしたが、


「あ、待って」


と孝道は言う。


「やっぱり良か……。聞かん事にする」


僕はその言葉に頷いた。


「もう、学校行かんとね」


僕は孝道に訊く。

孝道は僕を見て、


「そうね……」


とだけ答えた。


切っ掛けは子猫だったのかもしれない。

大人からしてみると些細な事なのだろう。

だけど、子供の僕たちからすると、生き方さえも変わってしまう大きな出来事だった。


「勉強嫌いやけん」


孝道はそう言って笑った。


「どうせ漁師ばするし、足し算と引き算、掛け算も割り算も出来たら十分たいね……」


「孝道……」


孝道は、クスリと笑って、


「お前の言いたい事はわかっちょる……」


そう言うと立ち上がった。


「さっき、父ちゃんとも話ばして来たったい」


そしてまた石を拾うと海に投げた。

またキラキラと夜光虫が光を放った。


「とりあえず中学までは行くけん」


僕も立ち上がり頷いた。


「あ、俺が学校行かん様になったとは、あん猫のせいじゃ無かけんね」


僕も石を拾って海に投げた。

よくわからなかったが、僕は孝道を見て頷いた。


「あん後、浜に打ち上げられた子猫の死骸を父ちゃんと一緒に拾ったとよ……。それで、裏の山に墓ば作った。父ちゃんと一緒にね」


孝道はまた石を投げる。

僕も続けて石を投げた。


「ばってん、子猫ば殺したとは事実やけんね……。俺は父ちゃんば許さんって喧嘩した」


僕は石を投げるのを止めて、孝道の話を聞いた。


「そしたら、父ちゃんが、金ば稼げる様になってから一丁前の意見ば言えって言うけん。それに腹ん立って、学校行かんかったとたい」


そんな事があったのか……。


僕は目を伏せて頷く。


「博子、和恵、芳雄……」


孝道は言う。


「皆、元気にしちょるか」


僕は微笑み、石を投げながら、


「皆、心配しちょったばい」


と言った。


孝道は鼻で笑うと、


「嘘つけ……」


と言った。






嘘じゃなかった。

あの後、直ぐに、「子猫を殺したのは孝道じゃない」と私は博子たちに訴えた。

三人とも直ぐにわかってくれた。

だけど、謝らないと和恵は言っていた。

私はそれでも良いと思った。

誰が悪い訳でも無い。

博子も和恵も芳雄も、それに孝道も。


この町の風は西から吹き込む。

そして山に囲まれた町はその気温をどんどん下げていく。


結局私は、あの日を最後に孝道に会わないまま、この町を出た。

何人かの友達が見送りに来てくれたが、その中に孝道の姿は無かった。


それから数年経った頃、私は一度この町に帰った事があった。

その時、偶然会った芳雄は、


「孝道は結局ヤクザになってしもうて……。こん町にも寄り付かんとよ」


と言っていた。


漁師になるんじゃなかったのか……。


私は芳雄には笑って、


「そうなんだ」


と言ったが、全身の力が抜けたのを覚えている。






町の西の外れに八幡神社がある。

大きな鳥居の奥はいつも薄暗く、異様な雰囲気だった記憶がある。

以前と同じ様に木々が茂り、神社の中は真っ暗だった。


その神社の中を歩くと、海岸に抜ける脇道があり、そこから海岸に出た。


私の家の傍の海岸と違い、この神社の傍の海岸の石は大きく、石から石へと飛び移る様にして海岸へ出る。


白い灯台がそこに立っているのだが、近くで見るとまったく白くない。

私が子供の頃からある灯台。

その周囲には藤壺が無数に付着していて、お世辞にも綺麗とは言えないモノだった。

昔は良く、この辺りに釣り人が切っ掛けて切った釣りの仕掛けを拾いに来た。


私はコートのポケットからタバコを出して、灯台の傍の石の上で火をつけた。

強い風に煙は流される。


「あの頃は楽しかったな……」


私が呟くと、あの頃の孝道が横で微笑んでいる。

私もその孝道に微笑み返した。






当時と違い、この町も野良猫や野良犬はまったくいなくなった。

それどころか人に会う事も無い。

車も原付も走らない静寂の町。

忘却の海。

顔色の無い空。


私たちが昔走り回って遊んだ町では無かった。


公民館と書かれた以前からあった集会所の駐車場に戻る。

細い道の何処に車を停めても対向車を交わすのは難しいと思い、この駐車場に車を停めていた。


運転席に乗り込むと、飲み掛けの缶コーヒーを飲んだ。


昔なら結構な距離を歩いた気になったのだろうが、大人の足で歩くと、端から端まで歩いても一時間でお釣りが来る程しか無かった。

コンビニどころか、何一つ店らしい店も無い。

釣り具屋だった店の前に自動販売機が幾つか並ぶだけで、海鳥の声がやけに響いている。


シートに沈む様に座ると、私は大きく息を吐いた。


そうだった……。

私はこの町に友人を見に来たのだった。


私はゆっくりと身体を起こし、周囲を見た。


こんな町では仕事も無い。

漁師をやるか、農家をやるか。

それ以外はこの町を出て働くしかないのだ。

孝道がヤクザになったのも、単なる就職の一つでしかない。


私は車から降りてコートを脱いだ。

それを座席に放り込むとドアを閉める。


私の生まれた家はもう跡形もない。

さっき見て来たのだが、家のあった場所は何も植えられてない畑になっていた。

そんな感傷に浸るつもりで此処に来た訳でも無く、ただ友人を見に来ただけだった。


私は記憶よりも細いその道を歩き、孝道の家へと向かった。

孝道の家の下まで来ると、其処からその家を見上げた。

昔の作りの古い家だった。


私はその家に続く坂道を上がり、昔よく遊びに行った孝道の家のインターホンを鳴らした。


ゆっくりとドアが開き、中から博子がやつれた女性が顔を出した。

血色の無い表情と垂れた前髪が余計にそう思わせている。


「あの……」


私が声を発すると、


「哲也君……」


その女性は私の名前を口にした。

そして、


「入って……」


と言う。


私は孝道の家の表札を見た。

孝道の名前の横に博子という名前があった。


博子か……。


私は家の中に入り、そのまま仏壇の前に連れて来られた。


孝道が死んだ事を訊いたのは偶然だった。

ヤクザをやっていた事は芳雄から聞いていたので、こんな事があるかもしれないと思った事はあった。


私は蝋燭に火をつけ、線香の先を翳した。


「久しぶりたいね……。何年振りやろ……」


博子は無理に作った様な笑顔で私に言い、テーブルの上にお茶を置いた。


私は仏壇の前に置いてあった孝道の遺影に手を合わせた。

昔の面影が残る孝道だった。


お供えしてある缶ビールとタバコにも埃が積もっている。


「もう、孝道が死んで今年で二年かな……」


私はそう言う博子の方を向いた。


「全然知らなくて……」


私は頭を下げた。


「病気か……」


博子は首を横に振った。


やはりヤクザとして死んだのか……。


私はもう一度孝道の遺影を見た。


「ヤクザばしとったとよ……」


私は無言で頷いた。


「ばってん、それももう十年くらい前に足は洗ろうて……」


ヤクザは辞めたのか……。


私は博子を見て微笑む。


「お義父さんの乗ってた船で漁師ばしとったと……」


そうか……。

孝道は漁師になれたんだな……。


私は博子の淹れてくれたお茶を飲んだ。


「事故か何かで……」


博子は頷く。


「そこの前でね。海で溺れてた子猫ば助けようとして心臓麻痺で……」


猫……。


私は、博子の涙を見た。

それを指で拭い、


「あん時、助けられんかったけんねって笑いながら飛び込んだとに、そのまま……」


あの時……。

多分、あの時の事だ。


私は顔を伏せた。

勿論何十年も会っていなかった孝道。

泣く程の感情は無い。

しかし、孝道にはあの日の事がずっと心に残っていたのだろう。

それは私も同じだった。

あの日の孝道を思い出すと、私の頬にも涙が伝った。






あまり博子と話も出来ずに私は孝道の家を出た。

そして外に出ると、タバコに火をつけて、空に向かってその煙を吐いた。


「金のあれば、助けられる命もあるとよ……。そげな人間に少しでも早くなりたかったい」


あの夜、彼は確かにそう言った。








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