わがままなマリオネットたち
※本作は、いでっち51号様の作品「わがままなザッハトルテ」の二次創作です。
※二次創作ですが、原作をご存じでない方も楽しめるようにいたしました(つもりです)ので、本作の後に原作を読んでいただくのもよいかもです。
毎日がつまらなかった。
つまらない日常。面白くない生活。面倒臭い仕事。何もない人生。
私はうんざりしていた。もっと言えば、無気力だった。
でも、ある日突然、世界が開けた。
生活のために嫌々していた高校教師という仕事が、突如、楽しみで満ちた。
私に教師の楽しさを教えてくれたのは、新滝綾世だった。私のクラスの生徒だった子。
今でも私は、綾世に感謝している。
◆
一年ほど前の秋。私は、学年主任の緒方先生に呼び出された。面倒な仕事を他の先生に押し付ける、クソみたいなクソオヤジだ。どうせまた面倒なことを言われるのだろうと、気分が重かった。
想像していた通り、緒方先生の話は面倒な内容だった。私のクラスの、新滝綾世のこと。
綾世は家族のもとを離れ、学生寮で生活していた。そんな彼女の両親が、つい最近、亡くなった。
綾世は塞ぎ込み、寮の部屋に引きこもってしまった。もう数日、ほとんど外に出ていない。もちろん学校にも来ていない。
「新滝の様子を見に行って、学校に来るように説得してください。高丸先生のクラスの生徒なんですから」
緒方先生の顔には、「不登校の生徒なんて、私の学年から出すな」と書いてあった。そんなふうに思うなら、自分で綾世のところに行けばいいのに。本当にうっとおしい。
とはいえ私は、普通の会社で言えば緒方先生の部下だ。上司の命令には、体裁上だけでも従う必要がある。放課後になると、綾世が生活している寮に足を運んだ。渋々ではあるが。
綾世は人見知りだが、親しくなった相手には明るく積極的だ。最初の一歩さえ踏み出せば、あとはどんどん突き進めるタイプ。たぶん、寮から出て学校に来るきっかけさえ掴めれば、また以前のように登校するだろう。
問題は、どうやってそのきっかけを与えるか、だ。
寮に行くと、綾世は思いの外簡単に部屋に入れてくれた。風呂にもろくに入っていないのか、少し汗臭かった。加えて、明らかに痩せていた。食欲もないらしい。
「大丈夫?」
第一声で、私はありきたりな質問を口にしてみた。
綾世は、暗い目を私に向けてきた。
「大丈夫に見えますか?」
「ううん。見えない」
「ですよね。大丈夫じゃないですもん。私、これからどうしたらいいか……」
「学校には来ないの?」
「行く気になれません」
即答した後で、綾世は皮肉げに笑った。
「あ、でも、授業料とかは心配しなくてもいいですよ。お爺ちゃんが振り込んでくれるみたいなんで。両親の遺産もありますし」
「そう」
ということは、経済的に困窮して退学、というコースはないわけだ。
私は少しガッカリした。こんな面倒な生徒なんて、いっそ退学してほしい。経済面が原因なら、退学されても私に責任はない。
私は頭を悩ませた。どんな言葉をかければ、綾世は学校に来るだろうか。「一生懸命説得しましたが、駄目でした」なんて言い訳は、緒方先生には通用しない。あのクソオヤジは、自分では行動しないくせに他人には文句を言うクソ野郎だ。
考えているうちに、なんだか面倒臭くなってきた。学校に来たくない子を、どうして説得しないといけないのか。来たくなければ来なければいい。一年でも二年でも引きこもっていればいい。学費の心配はないと、本人が言っているのだから。
そういえば、と思い出した。綾世には、付き合っている彼氏がいた。高校一年。性的なことへの興味も強まる年頃だ。特に男子は。ということは、彼女達はもうセックスをしたのだろうか。
綾世の説得が面倒になった私は、彼女が登校するかどうかなんてどうでもよくなった。それよりも、せっかくだから高校生の性を後押ししてやろうかと思った。話したくもない話をするよりも、興味のある話をしたい。
「ねえ、新滝さん」
「はい?」
「あなた、彼氏がいたよね?」
「……? ええ、まあ」
「彼氏とは連絡取ってるの?」
綾世の顔が、少しだけ警戒の色を見せた。
「はい。今はゆっくり休め、って言ってくれてます」
綾世は、私が「彼氏も心配してるから学校に来い」とでも言うと思ったようだ。先手を打って牽制してきた。
もちろん私は、そんなことを言うつもりなどない。
「もうセックスはした?」
「……は?」
私のセリフが予想外だったのだろう、綾世は目を丸くした。
「だから、彼氏とセックス。もうしたの?」
「それは、あの……まだ、ですけど」
「じゃあ、セックスの経験は?」
「……」
綾世は押し黙った。彼女の反応が、答えを物語っていた。
「それなら、今このタイミングでしてみたら? たぶん、寂しさも悲しさも紛れるよ」
セックスをしたら、寂しさも悲しさも紛れる。これは、半分本当で半分は嘘だ。紛れるのはその一瞬だけ。心の隙間は、体では埋まらない。逆に、体の隙間も心では埋まらないのだけど。
綾世は困惑した顔をしていた。
「あの、いいんですか?」
「何が?」
「先生が、そんなこと言って」
私はクスリと笑って見せた。
「先生である前に、一人の人間だから。家族を亡くしたら悲しいことくらい、わかるもの」
私は、まだ祖父母以外の家族を亡くしたことはないし、祖父母が亡くなったときも引きこもるほど悲しかったわけではないが。
「まあ、無理強いはしないけど。興味があるなら試してみたら?」
言って、私は、綾世の部屋を後にした。
綾世から私に連絡が来たのは、彼女の寮に行ってから数日後のことだった。
私は、綾世にしたアドバイスなんて、すっかり忘れていた。ただ、勢いでセックスして妊娠でもしたら面白いかも、なんて思っただけだ。不登校になるなら、家族の不幸よりも妊娠というスキャンダルの方が笑える。どうせ、どちらにしても、私は緒方先生に怒られるのだから。
綾世の要件は、私のアドバイスに対する報告だった。
『昨日、彼氏とエッチしたんです』
綾世の声は、寮で会ったときよりも柔らかかった。もっと言うなら、どこか弾んでいた。
『すっごく痛かったですけど、終わった後は、なんだか嬉しかったんです。凄く気持ちが楽になったって言うか』
綾世の報告を受けて。
私の心に、言いようのない気持ちが湧き出た。
綾世は美少女と言っていい。しかも、現役の女子高生。いわば、人生で一番輝いている時期の子だ。そんな子が、私の言いなりになって彼氏とセックスをした。
この美少女をコントロールしている気になれた。驚くほどの高揚感で満ちた。綾世が私の言う通りに動いたのは、この一回だけなのに。ただ、処女の子が第三者の言いなりになってセックスするなんて、凄いことだと思えた。
まるで、若い子の人生を思い通りに操れるような万能感。
「そう」
スマートフォンに耳を当てながら、私の口角は自然と上がっていた。
「じゃあ、もっとしてみたらいいと思う。学校なんて、落ち着いてから来ればいいから。一応、進級のための出席日数は足りてるし。ギリギリだけど」
綾世は、家族を亡くすまで無遅刻無欠席無早退だった。
『はい』
どこか幸せそうに、綾世は返答した。
それから私は、登校しない綾世を天文部に入部させた。私が顧問を務めていた、春に廃部になった部活だ。
「新滝さんが登校できるようにするため、少しずつ、学校と関わりを持たせるんです」
緒方先生に、そんな理由を語るために。
実際は部活動の実態なんてないし、綾世は、学校にも来ないで彼氏とセックスばかりしているみたいだけど。
とはいえ、週に一回くらいは部活動らしきことをやった。夜に学校の屋上に行き、綾世と一緒に星空を眺めた。セックスの余韻と気怠さを抱えながら、彼女は、うっとりと星空を眺めていた。性の後味を感じながら眺める星空が、心地好かったみたいだ。
やがて、クリスマスが過ぎ、新年を迎え、春が来て、初夏に差し掛かった頃。
私と話す綾世の声が、少し暗くなってきた。
「彼氏が最近、セックスばかりしたがるんです。私が生理のときも、無理矢理しようとして……」
まあ、男子高校生なんてそんなものだろう。
愛情なんて、情欲の前では一瞬で霧散する。若い男の性欲とは、そういうものだ。
彼氏とセックスをして、彼氏の性欲を愛情と勘違いして、一時は安定したように見えた綾世の心。でも彼女は、不安定なままだった。まるで綱渡りのような心。フラフラと揺らめいているから、簡単に操れる。思うように遊べる。
「綾世の気持ちがわからない彼氏なんて、別れてもいいんじゃない?」
綾世は、簡単に私に従った。次の日には、彼氏と別れた。家族を亡くして辛いときに、私のアドバイスで救われた。実感を伴った経験則。だから、私に従う。
私の手の中には、綾世を操る糸がある。この糸を動かすだけで、この美少女は私の思い通りに動く。私に従えば救われると思っているから。
私はますます高揚した。今ならたぶん、この子は簡単に登校するようになる。私の指示ひとつで。
「ねえ、綾世。気分を変えて生活してみようか」
私は綾世に提案してみた。夏休みになる直前だった。
「学校に来てみない? ただ、元彼と同じ学科だったら気まずいし嫌だろうから、文系に転入するの」
綾世は理系の学科のクラスだ。
「転入、ですか?」
「そう。そこで、何もかもリセットするの。嫌なこと全部忘れて、新しい友達をつくって、新しい彼氏なんかもつくって」
さすがに綾世は、少し躊躇いを見せた。彼女は数学が得意だし、数式を謎解きのように楽しんでした。不登校になる前は、数学の成績だけで言えば学年でトップだった。
「学科が変わるから勉強は難しく感じるかも知れないけど、心機一転すれば、気持ちが晴れるから」
「……先生が……そう言うなら……」
躊躇いながらも、綾世は私の言うことを聞き入れた。彼女は、二年の二学期にして、文系クラスに転入することになった。
綾世の不登校を解消した私は、緒方先生に褒められた。けれど、こんなクソジジィの褒め言葉なんて、クソも嬉しくなかった。
綾世は、親しくなれば明るく積極的だが、基本的には人見知りだ。ただ転入するだけでは、クラスで浮くことになるだろう。新しいクラスに誰もが戸惑う一学期ならともかく、二学期ともなれば、教室内で一定の人間関係ができているのだから。
クラスに馴染めない綾世がまた不登校になり、私に縋ってくる。そんな未来も悪くはない。でも、女子高生は女子高生のまま操るから楽しいんだ。美少女を、学校という箱の中で飼い慣らし、操作する。まるで、何かのシュミレーションゲームのように。
それなら、プレイヤーである私が最初にすべきことは何か。
私は綾世にアドバイスした。
「まずは、転入時に元気に挨拶して。暗い子と仲良くなりたい人なんて、いないんだから」
「はい」
「それで、近くの席になった人を、お昼ご飯に誘うの。昼食を食べながら、できるだけ相手の話を聞いて、相手の話に合わせて自分のことも話すの」
「わかりました」
私の指示を聞く綾世は、真剣そのものだった。私の指示通りに動けば、間違いない。私に対する絶対的な信頼を感じる。
綾世は、私の指示通りに動いた。後ろの席の生徒を、昼食に誘った。森久保幸美。眼鏡をかけた大人しい――遠慮なく言うなら暗い――女の子だ。あえて特徴を上げるなら、他の子よりも胸が大きい。
人見知りだけど親しくなれば積極的な綾世と、大人しい幸美。二人は、予想外に仲良くなった。綾世に誘われて、幸美は天文部に入部した。綾世の希望で、三人で、天文部のホームページ用の写真まで撮った。
正直なところ、綾世が幸美とこんなに親しくなるなんて、予想外だった。正確に言うなら、綾世が私以外の人に依存するなんて思わなかった。
綾世は、私だけの人形であればいい。私だけのオモチャであればいい。それなのに。
私は次第に、綾世を転入させたことを後悔し始めた。
◇
綾世が幸美を天文部に誘ってから、一ヶ月くらい経っただろうか。
職員室にいた私を、一人の男子生徒が尋ねてきた。
「あの。天文部に入部したいんです」
彼のことは、私も知っていた。真部朔。特進クラスの子だ。特進クラスの中でも、特に成績がいい子。両親共に教師で、なかなか厳しい家庭の子だと聞いている。
どうしてこんな子が、部活などを始めたいと思ったのか。しかも、二学期の秋口という中途半端な時期に。疑問に思いつつも、私は溜め息をつきたくなった。
天文部に入部したことで、もしこの子の成績が落ちたら。
緒方先生にグチグチと文句を言われる未来が、鮮明に思い浮んだ。気分が重くなった。
とはいえ、入部を断るには何か理由がないといけない。とりあえず私は、入部希望の理由を聞くことにした。
「どうしてこんな時期に入部したいなんて思ったの? まあ、入部希望を拒否する権利なんて、ないんだけどね。一応、聞いてみたくて」
しまった、と思った。つい、言葉の端に本音が滲んでしまったかも知れない。
朔は私の心情に気付くこともなく、もじもじとした様子で答えた。
「あの……天文部のホームページを見て……それで、その……楽しそうだったから……」
私は、自席のパソコンを開いた。ホームページにアクセス。開かれたトップ画面には、先月撮影した写真が表示されていた。私と綾世と幸美の三人で撮った写真。背景に星空。
あ。この写真の幸美、凄く胸が大きく見える。まあ、実際に大きいんだけど。
ホームページを開いた途端、朔は、パソコンの画面を凝視した。目が離せない、という様子だった。頬が少し紅潮している。
ああ、なるほど。私は一瞬で察した。女目的で入部したいんだ。特進クラスの優等生も、所詮は男なわけだ。
では、朔の狙いは、綾世と幸美のどちらなんだろう? 美少女の綾世か。大きな胸の幸美か。どちらにしても、面白い。彼は、天文部にとっての爆弾になってくれるかも知れない。
「ホームページ、見てくれたんだね。ありがとう」
感謝の気持ちなど微塵もない礼を言って、私は朔に指示を出した。
「じゃあ、とりあえず、部室に行って挨拶してきて。今日は、ホームページに写ってる二人がいるはずだから」
「あ、はい! わかりました!」
「じゃあ、入部届書いていって。受理しておくから」
私は、机の引出しから入部届を出した。
朔は凄い勢いで入部届に記入すると、私に「よろしくお願いします!」と頭を下げ、職員室から出て行った。
◇
思った通り、朔は、天文部にとっての爆弾になってくれた。
彼が狙っていたのは、幸美だった。どちらがアプローチしたのかは知らないが、彼等は付き合い始めた。
たった三人しかいない部活で、二人が恋人同士になる。一人残された綾世は、幸美に依存気味。綾世が感じる疎外感や孤独感は、尋常ではないはずだ。
綾世は二人と争い、結果として、幸美と朔は天文部を退部した。
綾世はまた引きこもった。去年は家族を失い、今回は友人を奪われた。ただでさえ不安定な彼女の心は、今、グラグラに揺れている。
理想的な状況だ。私はつい、笑いそうになった。でも、笑ってはいけない。
私は今、綾世の部屋にいる。学生寮の一室。
「先生……私、もう、学校辞めたいです……」
数ヶ月前、綾世は寮に引きこもっていた。そのときは、退学したいなんて一言も言わなかった。皮肉げに、学費のことは心配いらない、なんて言っていた。
そんな綾世が、学校を辞める、とまで言っている。それほどまでに心が弱っている。
結果論だけど、綾世が幸美と仲良くなってくれてよかった。朔を入部させてよかった。
綾世には、今、何もない。誰にも縋れない。
私以外の誰にも。
「大丈夫だよ、綾世」
私は優しく、綾世の肩に手を置いた。
「森久保さんのことは、私がどうにかしてあげるから。森久保さんにとって綾世が大事な人だって、彼女に気付かせてあげるから」
私を見る綾世の目には、涙が浮かんでいた。親にしがみ付く子供みたいな顔。
翌日になって、私は幸美を職員室に呼び出した。
私の前に現れた幸美は、ひどく強張った顔をしていた。
「新滝さんから学校を辞めたいと相談を受けたわ」
強張っていた幸美の顔は、同時に青ざめた。肩が震えていた。
私は淡々と、綾世のことについて説明してあげた。彼女が家族を亡くしたこと。寮に引きこもったこと。二学期になって、ようやく登校を始めたこと。でも、まだまだ不安定であること。
そして、幸美と朔のことも聞いているということ。
幸美の顔色が変わった。強張っていた顔が、攻撃的な表情に変わった。「私達が悪いというのか」「綾世のために恋愛を諦めろと言うのか」とまくし立てた。
私は深く溜め息をつき、首を横に振って見せた。もちろんこれはポーズだけど。
「そんな事は言ってない。さっき『学校を辞めたい』と彼女が相談してきたって話したわね。私はそれを阻止しようと思っている。彼女には彼女を護ってくれる身内なんていない。そんな彼女が中卒過程で世にでてイイ事あると思う?」
「それは……」
「貴女とは随分親しくしていたらしいわね? そんな彼女を見放してまで選んだ彼氏なのでしょ? ちゃんと導いてあげなさい。成人にもならない男子は過ちを犯しやすいものだからね」
「…………はい」
「それとも一つ」
「はい?」
「孤独になった女は何をするのかわかったものじゃない」
私は、自席の椅子から立ち上がった。
「じゃあ、私、新滝さんのところに行くから」
幸美の肩をポンポンと叩いて、私は職員室を後にした。
断言できる。朔は間違いなく、幸美の体に惹かれた。ホームページの写真の、大きな胸がより大きく見える幸美。彼女の姿に惹かれ、朔は入部してきた。もっと言うなら、朔は幸美に欲情したから入部してきたんだ。
もしかしたら、幸美と朔はもうセックスをしてるかも知れない。
でも、もし、まだしていなかったら。
さっきの私の忠告を聞いて、幸美が、朔に体を許さなかったら。
綾世が行動することで、彼女達三人の関係は大きく動くことになる。
つまらない日常をこれ以上ないくらい面白くする、昼ドラみたいな展開に。
◇
「森久保さんは、真部君との付き合いに完全にのめり込んでるみたいだった」
学生寮。
綾世の部屋でそう話すと、彼女は、ひどく悲しそうな顔になった。
「綾世のために恋愛を諦めろとでも言うのかなんて、酷い剣幕で怒って。もう完全に、真部君しか見えてないみたいで」
綾世は震えだした。悲しそうな顔。こぼれ落ちそうな涙。
私は、綾世の様子をじっくりと観察した。
綾世の表情は、少しずつ、少しずつ変化していった。幸美の心から自分が消える、という不安。恐怖。友達が、自分よりも男を優先しているという悲しさ。
でも。
綾世の気持ちは、嫉妬というスイッチによって、別の感情に切り替わっていった。
裏切られたと感じて、怒りに変わった。
「先生。私、サチのことを、本当に大切な友達だと思ってたんです」
綾世の声は歪んでいた。震える声。
「うん。知っている。森久保さんと一緒にいるときの綾世は、本当に楽しそうだったから」
「知り合ってからの時間は確かに短いけど、サチといると楽しかったし、辛いことも忘れられたから」
「そうだね」
「だから、私、幸美が真部君と付き合っても、応援しようと思ってたんです。それでも、三人で楽しく天文部をやっていけたらな、って」
「そうなんだ」
「でも、二人は、徐々に二人だけの世界に入っていって」
「うん」
「私のこと、除け者にして。私なんていないみたいに振る舞って」
すぐにわかった。綾世は、被害者になろうとしている。おそらく、幸美も朔も、綾世を除け者になんてしなかった。ただ付き合っただけだった。それどころか、幸美はたぶん、朔と付き合っても綾世と友人のままでいたかったはずだ。
それでも私は、綾世の言うことを信じる振りをした。
「そうだったの。二人とも、ひどいね」
「私は……ただ、サチと友達でいたかっただけなのに……それなのに……」
私は綾世の頭を撫でた。「私はあなたの味方だよ」と伝えるために。友人を失った綾世を、再び思うようにコントロールするために。
綾世は、私が操るゲームのキャラクター。学校は、シュミレーションゲーム。人間の愛憎をテーマにした、刺激的なゲーム。つまらない毎日を、楽しませてくれる娯楽。
私はゲームのコントローラーを操作し、綾世にアドバイスを送った。
「じゃあ、真部君から、森久保さんを取り戻さないと。取り戻して、あなたに謝らせないと駄目だね」
「取り戻す、って?」
「あのね。真部君が天文部に入部してきたのは、ホームページの写真を見たからなんだって。本人は楽しそうな写真だったからなんて言ってるけど、絶対に違う」
「どういうことですか?」
「私の知る限り、天文部に入部するまでは、森久保さんと真部君に接点はなかった。それが、たった一ヶ月程度で急激に親しくなって、付き合い始めた。どうしてだと思う?」
綾世は「あ」と声を漏らした。
「最初から、サチが目当てだった?」
「そう。でも、失礼な言い方だし好みは人それぞれだろうけど、はっきり言って、森久保さんよりも綾世の方が美人だと思う。じゃあ、どうして真部君は、森久保さんを狙ったと思う?」
綾世は首を傾げた。わからないらしい。少し前まで彼氏とセックスしまくっていたとはいえ、恋愛自体の経験は浅いからだろう。同時に、思春期の男の生態もわかっていない。
「答えは簡単。森久保さんの胸が大きいから。端的に言えば体目当てでしょうね」
「そ……」
そんな、とでも言いかけたのだろうか。一瞬だけ声を出して、綾世は黙り込んだ。元彼のことを思い出しているのだろう。セックスに夢中になり、生理の日でもしたがった元彼。
綾世の表情が変わった。朔が幸美の体目当てだと、納得したようだ。
「ねえ、綾世」
私は綾世の手を取り、両手で握った。じっと、彼女の目を見つめた。かすかに涙が浮かぶ、彼女の目。
「今のあなたは、森久保さんのことが許せないかも知れない。体目当ての男に溺れて、あなたを蔑ろにしたんだから。でも、森久保さんが真部君の本心に気付いて、真部君を捨ててあなたのところに戻ってきたら、許してあげてもいいんじゃない?」
真部君を捨ててあなたのところに戻ってきたら――私のセリフに、綾世の瞳が動いた。彼女の怒りは、嫉妬が原因。嫉妬が消えれば、なくなる怒り。だから綾世は、幸美が朔を捨てて戻ってきたら、間違いなく許すだろう。
もっとも、幸美が綾世のところに戻ることなんて、ないんだけど。
「どうしたら、サチは、私のところに戻ってくるんですか?」
綾世が、縋るように私を見つめている。彼女は、家族を亡くして心が地の底にあったときに、私のアドバイスで救われた。少なくとも彼女は、そう信じている。だから、アドバイスや決断を私に求める。
可愛い私の操り人形。また、私のゲームで操られて。
「実はね、こんなことを見越して、森久保さんに注意したの。『成人にもならない男子は過ちを犯しやすいものだ』って。だから、少なくとも森久保さんは、真部君とのセックスを控えると思う。もしかしたら、まだ一回もしてないかも」
綾世は、私の話をしっかりと聞いている。
「真部君は、森久保さんの体目当て。でも、その森久保さんはなかなかセックスさせてくれない。じゃあ、真部君はどう感じると思う?」
「不満になると思います」
「そう。そこで綾世が、真部君の相談に乗ってあげるの。連絡先くらいは知ってるでしょ?」
「真部君の相談? サチじゃなくてですか?」
「そう。それで、真部君の悩みを聞き出して、セックスできない不満まで聞き出したら――」
私は、綾世の手を握ったままだ。握ったままの手に、少し力を込めた。
「――あなたが、真部君としてあげなさい」
「!?」
綾世は目を見開いた。意味がわからない、という顔をしている。
私は、綾世が納得できるように続けた。
「森久保さんが好きで、森久保さん目当てで入部したはずの真部君が、簡単に綾世とセックスする。これで、真部君がどんな男か、明確に証明できるでしょ?」
「確かに……そうですけど……」
綾世は納得したようだが、躊躇いはあるようだ。当然だろう。いきなり、友人の彼氏とセックスしろなんて言われたのだから。言ったのが私でなければ、綾世は、即座に拒否しただろう。
「これはね、綾世。あなたが、森久保さんを救ってあげる方法でもあるの」
「私がサチを救う?」
「そう。体目当ての男の正体を森久保さんに見せつけて、森久保さんの目を覚まさせてあげるの。恋は盲目、なんて言うけど、今の森久保さんはそんな状態。だから、救ってあげるの。あなたが、森久保さんを」
「私が、サチを」
同じ言葉を繰り返して、綾世の表情がまた変わった。口角を上げながら、どこかうっとりとした様子になっている。独占したい友達が自分に縋ってくるところを、想像したのだろうか。
綾世の反応が面白くて、私は、さらに深く彼女を操りたくなった。
「でもね、綾世。森久保さんを救ってあげるって言っても、簡単に許しちゃ駄目。簡単に許したら、森久保さんは、また同じ過ちを繰り返すから」
「簡単に許さない、って。じゃあ、どうしたらいいんですか?」
「そうね。まずは突き放すの。真部君とセックスしたことを話して、真部君が綾世に乗り換えたことを話して、煽ってあげるの」
「そんなことしたら、サチに嫌われちゃうんじゃ……」
「逆よ、逆」
私は、綾世の手から自分の手を話した。人差し指を立てて、説明してあげる。
「さっきも言ったけど、簡単に許したら森久保さんは同じ過ちを繰り返す。だから、一旦突き放して、落ちるところまで落とすの。それで、森久保さんが真部君を嫌いになったところで、教えてあげるの。本当は森久保さんが大切なんだ、って。だから、体を張って真部君の本性に気付かせてあげたんだ、って」
我ながら、滅茶苦茶なことを言っていると思う。自分の彼氏を寝取った女を、嫌わない女なんていない。
それでも綾世は、私の言うことを信じた。彼女の中で、私は、すでに、救世主という立場を確立している。
「わかりました」
偽りの希望を抱いて。
綾世は、力強く頷いた。
◇
「サチに嫌われた! どうしよう!? どうしよう!?」
私が寮を訪ねるなり、綾世は大泣きして縋り付いてきた。
クリスマスまであと三週間。
綾世は、面白いくらいに私の言いなりになった。朔に連絡を取り、彼の悩みを聞いた。彼は『幸美が俺に抱かれるのを拒む』と悩みを打ち明けたらしい。何のことはない、ただセックスできないのが不満なだけ。その不満を『幸美は俺のことが好きじゃないのか?』なんて、綺麗な言葉で飾っていたという。
綾世は朔を慰め、自分の体を差し出した。
朔はすぐに、綾世の体に夢中になった。
もともと下心で幸美を好きなっていた朔は、あっさりと綾世に乗り換えた。
綾世は幸美に連絡を取り、自分と朔の関係を打ち明けた。私の指示通りに動き、幸美を絶望させた。
けれど幸美は、綾世の思い通りには動かなかった。朔にコーラをぶちまけ、そのまま立ち去った。
朔は、情欲に溺れるくせに気が弱い。たぶん、厳しい両親に抑圧されて育ったせいだろう。幸美から綾世に乗り換え、幸美から責められて、不安を感じたはずだ。その不安は、罪悪感ではない。もしこんな問題が、両親に知られたら――そんな、恐怖が混在する不安。
不安に押し潰された朔は、自殺した。「迷惑をかけた」という、簡潔な遺書を残して。
幸美は、朔が自殺した後、不登校になった。
大泣きする綾世を抱き締めながら。
私は、笑い出しそうになる自分を抑えるのに必死だった。
なんて面白いんだろう。まさに昼ドラだ。ドロドロの愛憎模様。事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだ。その現実を、私が操っているんだ。大泣きしている、この可愛い操り人形を使って。
もっと綾世を動かしてみたい。また新しいドラマを作り出したい。私は、自分の欲求を抑えなかった。
「ごめんね、綾世。私の見通しが甘かった。森久保さんが、あなたの話を最後まで聞かずに立ち去るほど考えの浅い子だなんて、思わなかった」
抱き締めながら、綾世の頭を撫でる。
「でも、これだけは間違えないで。あなたは何も悪くない。あなたは、性欲だけの男から、友達を守ろうとした。自分の体を使ってまで。そんなに友達のことを思いやれる人なんて、他にいない。あなたは悪くないの」
綾世は何も言わない。ただ、彼女の漏らす泣き声が、小さくなってきた。
「あなたは頑張ったのに、森久保さんは、あなたの気持ちすら足蹴にした。性欲に溺れた真部君も、友達の気持ちを考えない森久保さんも、どっちも自業自得。だから、綾世が悔やむことも悲しむこともない。あなたはこれから、自分が幸せになることだけを考えればいいの」
綾世の泣き声が消えてゆく。しゃくり上げる声だけになってゆく。
私は優しく、綾世に言って聞かせた。
「あなたは確かに、森久保さんを友達だと思ってた。大切にしてた。でも、森久保さんは違った。それなら、もう、森久保さんのことなんて忘れちゃいなさい。忘れるために、他に大切な人を作ってもいい。真部君みたいな性欲先行じゃない彼氏を作ってもいい。あなたのクラスの河村君なんて、凄くいいと思う。真面目だし、あの二人と違って利己的じゃないし」
私の胸の中で、綾世はコクリと頷いた。彼女の中にある私への信頼は、まだ消えていない。薄れてさえいない。
◇
私の指示通り、綾世はすぐに彼氏をつくった。同じクラスの河村君。
美人な綾世に、河村君は夢中になっているみたいだ。
綾世も、河村君とどんどん親しくなって、幸せそうだ。
もしかしたら、この二人はもの凄く相性がいいのかも知れない。
とはいえ河村君も、ただの男子高校生だ。本質は朔とそう変わらないだろう。性の味を知ったら、愛情よりも快楽が勝る年頃。
今度は、綾世にどんなことをさせようか。
どんなドラマ紛いな行動を取らせようか。
いっそ、妊娠して退学、なんてパターンもありかもしれない。
綾世に、結婚や妊娠、出産、子育ての幸せを言って聞かせて。
そうだ。クリスマスにセックスするように勧めてみようか。「クリスマスプレゼントとして綾世をあげたら」なんて言って。しかも、避妊具を着けないとびっきりのクリスマスプレゼント。
綾世はもう、私が受け持っている生徒じゃない。もし彼女が妊娠しても、緒方先生にグチグチ言われることはない。むしろ、綾世の復学に尽力した私は、他の先生の指導不足で成果を台無しにされたとして、被害者とも扱われるだろう。
私は再び、綾世に色々と吹き込んだ。幸美や朔のことを忘れるためにも、あなたは幸せにならないといけない、なんて諭しもした。
綾世は真剣に私の話を聞き、言う通りに河村君を誘った。
クリスマス前の数日間、河村君は、心ここにあらずという様子だった。それだけ、クリスマスが――避妊具を着けないセックスが楽しみなのだろう。
情欲に溺れた、無様なオス。
男の「セックスが好き」という気持ちを、「自分のことが好き」と勘違いしている、哀れな綾世。
もし本当に妊娠したら、綾世はどんな顔をするんだろう。
どんな顔で私に縋ってくるんだろう。
妊娠した綾世を、どんなふうに操ってやろう。
胸が躍る自分を、私は、抑え切れそうもなかった。
◇
また、ドラマみたいな事件が起こった。
それも、すべて私の手の中で。
発端は、クリスマスの日だった。
綾世が河村君とデートをしていると、幸美に遭遇したらしい。
幸美は、本来なら朔君と行く予定だったデートスポットで、一人でフラフラしていたそうだ。まるで、失った幸福を憂うように。
当然、幸美は綾世を罵った。この阿婆擦れ、と。
河村君は幸美を突き飛ばし、綾世を守ろうとした。快楽の夜を過ごす相手を、傷付けられたくなかったのだろう。
クリスマスの翌日に、私は幸美に呼び出された。私から、綾世のことを色々と聞き出そうとしていた。
確かに私は、綾世と深い繋がりがある。私の指には、彼女を操る糸がある。でも、そんなことなど話さない。話す必要などない。
私は、以前に綾世が言っていたことを幸美に聞かせた。
『私、幸美が真部君と付き合っても、応援しようと思ってたんです。それでも、三人で楽しく天文部をやっていけたらな、って』
『でも、二人は、徐々に二人だけの世界に入っていって』
『私のこと、除け者にして。私なんていないみたいに振る舞って』
これは、綾世が被害者ぶるためについた嘘だ。そんなことはわかっている。でも、それも幸美に伝える必要はない。
私は、冷めた目を幸美に向けた。綾世の言葉を信じて幸美を批難する、という体で冷たく言い放った。
「一体誰が悪いのかしら? 心配の一つぐらいして欲しいのなら、アナタも心配してあげれば何か違ったかもしれないわよ? でも、もう遅いわね。森久保さん」
幸美は絶望した顔で、私の前から立ち去った。
綾世と幸美の関係が完全に壊れた、クリスマス。それから年が明けて、正月になり、世間では年末年始の連休も終わった。学校の冬休みも明けた。
休み明けに職員室に行くと、私の机の上に、一枚の紙があった。天文部の入部届。覚えのない女子の名前が書いてあった。一年の特進クラス。私は綾世に入部届の件を伝え、近々入部希望者が部室に行くだろうと伝えた。だから、数日は毎日部室に顔を出してね、と。
結論から言うと、その入部届は偽造だった。正確に言うなら、入部届は本物だけど、記入されていた名前は偽名だった。
入部届を出したのは、幸美だった。
幸美は、新品のサバイバルナイフを持って部室に足を運んだ。綾世が待つ部室に。
幸美の恨みの大きさは、私の想像以上だったらしい。彼女は持参したナイフで、綾世を滅多刺しにした。偽名の入部届のことといい、明らかに計画的な犯行だった。
鋭利なナイフで滅多刺しにされた綾世は、出血性ショック――いわゆる出血多量――で死亡した。
殺した幸美は、誰にも何も言わずに、静かにその場から立ち去った。
綾世の遺体が発見されたのは、彼女が息を引き取ってから二時間以上も経ってからだった。
その後幸美は、駅近くの喫茶店で身柄を確保された。
校内は、この凄惨な事件に大きく揺れた。幸美が朔と付き合っていたことはクラスでも割と知られていたようで、色んな噂が巡り巡った。
綾世と付き合っていた河村君は、涙ひとつ流していなかった。沈んだ顔を見せていたが、どういう理由でそんな表情をしていたのか、誰も知らない。恋人が死んで悲しんでいる、と思っている人が大半みたいだけど。
綾世や幸美の担任は、緒方先生や教頭、校長、教育委員会の人達にかなり詰められていた。ある意味では、担任も被害者と言えた。
私は、といえば――
とりあえず、綾世の葬式に参列しておいた。彼女の祖父の前で、悲しんでいる顔を見せた。
綾世の祖父は、私のことを知っていた。生前の彼女の悩みを親身に聞いていた先生として。感謝され、深く頭を下げられた。
「すみません、私も、気持ちの整理がつかなくて。お爺様は、お孫さんが亡くなられて、私よりも辛いはずなのに。すみません」
そう言って、私は葬儀の場から立ち去った。とてもじゃないが、長居などできそうもなかった。
どうしても堪え切れなかったのだ。
大笑いしそうになる自分を。
葬儀の場を後にし、急いで自宅に帰ると、私は天井を見上げた。見慣れたつまらない天井を視界に入れながら、大笑いした。
なんて凄いドラマだろう。こんなドラマを操っていたのは、私なんだ。しかも、自分には一切の損失がなく。
ありがとう、綾世。
心の中で、私は彼女に礼を言った。
あなたのお陰で、このつまらない仕事や人生を、初めて面白いと感じた。
綾世のように悩んでいる生徒を見つけたら、また相談に乗ってやろう。味方のフリをして、心を掌握して、私のお人形さんになってもらおう。
ありがとう、綾世。
あなたのお陰で、私は、教師という仕事を好きになれそうだ。
(終)
前書きにも記載いたしましたが、本作は、いでっち51号様の作品「わがままなザッハトルテ」の二次創作です。
作者自身、二次創作は初めての経験でしたが、お楽しみいただけましたでしょうか。
個人的には、本作を読むことにより原作を違った意味で楽しめ、かつ、原作を読むことで本作自体も楽しめるようにしたつもりですが。
上手くできたでしょうか?
上手くできたと信じたいです。
どうか信じさせてっ!(切実)
とにもかくにも。
最後まで読んでいただき、ありがとうございましたm(_ _)m