第89話 温泉街の依頼
北からの風に、僅かにこれまでとは違う匂いが混じってきた。
丘の向こうの空は、僅かに煙っているようにも見える。
「今日は街に入れそうですね、コウ」
「ああ。たまには普通に休みたいところだしな」
コウとエルフィナは、丘を登りきったところで、眼下の街を見渡した。
さほど大きくはない街だが、そこかしこから煙が上がってるようにも見える。
だが、それらは全て湯気だった。
温泉が湧いているのだ。
「温泉も楽しみです。私は初めてですし」
「そうだな。俺もこの世界では初めてだ」
「元いた世界にはあるんです?」
「ああ。まあそのうち話す。まだ昼前だが、とりあえずさっさと街に入ろう」
「はい」
エルフィナは頷くと、コウの腕にしがみつくように抱きついた。
先の告白以後、エルフィナは以前とは比較にならないほど積極的にアプローチしてくるようになった。
コウとしても、それが嫌なわけではないが、どう応じたらいいか戸惑っているのは事実だ。
もっとも、エルフィナはその反応すら楽しんでいるようにも見える。
「……とりあえず、行くか」
「はい」
こうして、二人はハクロの街に入る。
この時点では、ほんの一時立ち寄るだけのはずだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
アルガンド王国からバーランドに入るルートはいくつかあるが、事実上はほぼ一つしかない。
それが、王都を流れるアルカーナ河にそって存在する、アルカーナ街道をひたすら西に向かうルートだ。
アルカーナ河は、その源流がバーランドにあり、水路としても重要視される大河である。
しかし、バーランドが近くなり、山岳帯に入ると、急に流れが速くなり、水路としては使えなくなる。
その代わり、河に沿って大きな街道が作られており、この道はそのままバーランドへ通じているのだ。
この道だけが、ある程度まともに舗装され、かつ比較的なだらかであるため、馬車なども通行が可能な唯一の道である。
これ以外にもないわけではないが、どれも狭く急峻であったりして、馬車どころか馬で行くことすら困難な道ばかりなのだ。
コウとエルフィナが乗った船は予定通りアルカーナ河を遡り、船でいける限界とされる場所にあるニグネムの街に着いたのは三日後。
そこからは徒歩の旅になる。
使うルートは、あまり人が使わないルートを選んだ。
いくら情報が渡ってない可能性が高いとはいえ、警戒される可能性も考えれば、正面から入国するのは避けたい。そのため、あまり旅人が行くことのない別ルートを通ることにしたのである。狙うのは事実上の密入国だ。
ただその道中で、ちょうどニグネムの街で魔獣退治の依頼が出されていた街があったので、それを片付けつつというつもりだった。
その魔獣退治の依頼を出していたのが、温泉街として最近有名になってきたハクロの街である。
ハクロの街は、五十年ほど前は何もない寂れた農村だったという。
ところが、豊富な湧出量を誇る源泉が見つかり、温泉街として人気が出始めた。
王都からは船と馬車で四日ほどかかる距離だが、比較的安全なルートであるため、人気がある。
ただ、最近になって近隣に魔獣が出没するようになり、それで冒険者ギルドに退治を依頼していたのを、コウたちが請け負うことにしたのだ。
市街に普通にいる犬や猫、あるいは猛獣として知られる虎や獅子は、あくまで動物だ。
魔獣はこれらとは一線を画し、魔力によって法術に近い現象を起こしたり、あるいは何かしらの特殊能力を持つ存在だ。
その能力は千差万別で、強力な固体では、冒険者数人がかりで敵うかどうか、という高い戦闘能力を持つ。
元々は古代において、神々によって戦闘生物として生み出された存在とも云われるが、これは真偽のほどは怪しい。
ただ、生態系としては確立しており、その意味では世界に根付いた存在ともいえるだろう。
かつて戦ったブラステインも魔獣の一つである。
ちなみに、人に害をなさない、あるいは友好的だったり協力的だったりする存在は、幻獣と呼ばれることもある。
この辺りの区分は曖昧だ。
稀に、極めて強力な個体が人間に協力して、地域の守護獣として祭られているケースもあったりする。
知性を備えているケースもあるが、人里を襲うような魔獣は、たいていは動物と大差ない。
人によっては竜を含めることもあるようだが、それとは別に魔獣にも竜属とされる分類があり、かなり強力な存在だ。ただ、魔獣としての竜属と純粋な竜は根本的に異なるらしい。
その辺りは、一度しか竜に相対していないコウには良く分からないのだが。
街に入った二人は、早速依頼者であるハクロの町長宅を訪れた。
話はすぐ通され、応接間と思われる場所に通されてすぐ、初老の男性が現れる。
「よくいらしてくださいました。私がハクロの町長、トーマスと申します。ニグネムからいらしていただいたのでしょうか」
「冒険者のコウです。こちらはエルフィナ。実は王都からです。ちょっと立ちよったというところですが、ちょうど依頼を見たので」
「それはまた……遠いところからようこそ」
コウは、ニグネム冒険者ギルドが発行した依頼請負証を、依頼人である町長に渡した。二人が、ギルドから正式に依頼を請け負ったことを証明する文書である。
トーマス町長はそれに間違いがないことを確認すると、二人に座るように促して自分も対面に座る。
二人がソファに座ると、程なくお茶が出された。
ついでに饅頭のようなものが出てきたとき、思わずコウは苦笑した。
温泉はどこでも饅頭なのか。
とりあえず依頼条件を確認する。
目的は魔獣の討伐、または撃退。ただし数は不明。
街としてはいなくなってくれれば問題はない。
報酬は銀貨八枚、魔獣を倒した場合のその素材の買取は応相談。
この報酬はこの街で支払ってもらえて、さらにニグネムへの報告も代行してくれるという。これが、今回依頼を受けた理由でもある。さすがに報告に一日かけて戻るのは時間的に無駄だ。
バーランドの動向が分からないが、依頼にかけられる時間はせいぜい一週間くらいだろう。
「それで、魔獣が出没するようになった、とのことですが、実害は?」
「幸い、今のところありません。とはいえ、街中からも見える距離にたまに現れるため、住民はもちろんですが、せっかくここを訪れてくれた人々を怯えさせることになると……」
「客足が遠のく恐れもある、と」
「はい……」
普通の獣ならともかく、魔獣ともなると種類にもよるが、一般の人の手には余る。
そんなものが街から見える距離にいては、いざ襲われたらたまったものではない。
一応、街の外周を柵で囲ってあるとはいえ、魔獣なら簡単に破壊できる種類も多い。
「実際に現れたのは、なんだかわかりますか?」
「私は見ていないのですが、住民の話では、イルワクラがいたとも……」
イルワクラ。
巨大なトカゲともされることもあるが、コウが図鑑で見たのは、見た目はトカゲの体にニワトリの頭、という体の、全長は五メートルほどの魔獣だ。
体が大きいこともあり、その戦闘能力は非常に高い。
もっとも恐るべきは、石化能力とまで言われるほどの強烈な麻痺毒をもつこと。
毒とされるが実際には魔力による効果であり、薬ではなく法術でなければ解除できない。
しかもこれを吐息として吐いてくるため、退治する際には絶対に風上に陣取るか、風の法術で防御しなければならない。
個体によって著しく性格が異なるようで、好戦的なイルワクラは冒険者ギルドでも第一種討伐対象とされている。
いずれにせよ、普通の人々はもちろん、並の兵士でも手に余る。
ただ、群れる習性はないはずだが。
「他にも、カウバクスや火を吐く巨犬がいたとも」
カウバクスは牛頭人身の怪物。地球ではミノタウロス、として知られるものと、ほぼ同じだ。
強靭な肉体と怪力で知られ、雷を放つことができる。
火を吐く犬は、いくつか種類がいる。
ただいずれも魔獣も、基本的に群れることはあまりないはずの種類のものばかりだ。
「目撃された回数は?」
「早朝が一件、あとは夕暮れです。全部で六回ほど。ここ十日ほどで、です。場所は全て街の北側の森にいたとのことでした。他にも、目撃ではないのですが、うなり声の様なものを聞いたとも」
魔獣は通常人里にはあまり近付かない。
自分たちが討伐される対象だと知っているからだ。
それがここまで近くに来ているのは、それだけで異常事態と言える。
さらに、目撃されたのがいずれも普通の人の手には余る、かつ有名な魔獣であるから、住民が不安に思うのは無理もない。
それ以外にもおそらくかなりの数が近隣まで来ていると思われる。
そう考えると、むしろ目撃回数は非常に少ない。
できるだけ見つからないように振舞っているのか。
(人里に来ないようにしている……なら、もう少し離れるよな……)
幸い、時間はまだ昼過ぎ。
魔獣の活動時間は種類によって様々だが、少なくとも夜の闇の中よりは、太陽の下のほうがまだ探索もしやすい。
「分かりました。とりあえず、早速調査に行きましょう」
「よろしくお願い致します。あ、宿についてはこちらで手配しております。森泉亭、という宿です。街の中心近くにあるので、戻られたらそちらへどうぞ」
「分かりました。では……荷物はそちらに持っていってもらっても?」
「もちろんです。では、よろしくお願い致します」
最低限の荷物だけを持って、コウとエルフィナはとりあえず村長宅を出る。
「なんか……ちょっと奇妙ですね」
「ああ。本来群れるはずのない魔獣が何種類もいる時点で妙だ」
魔獣側の事情を推測できるわけではないが、だとしても奇妙だと思えた。
最初は単純な討伐依頼かと思ったが、どうもそういう感じでもない。
かといって、あまり時間もかけられない。
「とりあえず、調査に向かうか」
「はい」
とりあえず二人は、街の北側へと歩き始めた。




