第71話 キールゲンの企み
八月に入り、かなり暑くなってきた。
比較的北方に位置し、河沿いにあるアルガスはそこまで暑くなることはないとはいえ、この時期はさすがにかそれなりの暑熱に見舞われる。
王都中心を流れるアルカーナ河では、河岸の一部を遊泳場として開放している場所も少なくない。
さすがにアルス王立学院にもいわゆる水泳の授業などはない。
というか、プールという設備はさすがにないらしい。
もちろん空調などない……と思ったら、驚いたことにこれは存在した。
法術具による冷風機が存在したのである。
ただ。
「うう……報酬が出るとはいえ、この時期は毎年大変です」
法術具は稼働させ続けると込められた魔力を消耗し、あっという間に使えなくなる。そのため、定期的に同じ法術をかけ続けるしかないが、それは当然お金がかかるため、稼働は最小限にされるのが普通だ。
が。
アイラがいる講義だけは、常にこの冷風機が稼働していた。
アイラが得意とするのは氷系の法術。そしてアイラは、付与を行う文字の適性まで持つため、単独で冷風機へ付与が可能なのだ。
そのため、アイラがいる場合、講義の開始前に冷風機へ法術のかけなおしをしてもらえれば、少なくとも講義が終わる程度の間は稼働させていてもまず問題にはならない。
アイラへの報酬は学生食堂一回分のおごり――その講義を受けた友人たちで持ち回り――である。
「私はそこまで暑いとは思わないのですが……やはり暑いんでしょうか」
涼しい顔でそういったのはエルフィナである。
「エフィは平気なんですね。夏はもっと暑かったのですか?」
「そうですね。私の出身は大分南の方なので、真夏の暑さはこれ以上でした。まあ森の中なので適度に涼しかったとはいえ、それでもこの街よりは暑かったと思います」
キュペルのさらに南部だったので、明らかにこの地よりは暑かったと思う。
その分、冬の寒さはそれほど厳しくなかったが。
ちなみに冬の凌ぎ方は法術ではなく主に暖炉である。
火をおこすのに法術を使うことはあるが、温風器の法術具というのは使わない。ないわけではないが。
アルガンドは基本的には冬の寒さの方が厳しいので、暖炉は各講義室にも備えられていて、建物も冬の寒さをしのぐことを重視した造りなのだ。
「そういえば、コウも平気そうですね」
エルフィナが小声で訊いてきた。
さすがにコウの出身地のことを知るのはエルフィナのみで、さすがに大声で話題にするわけにもいかないからだ。
「ああ、まあな。というか俺にとっては湿気もないし、むしろ過ごしやすいくらいだ」
少なくとも日本の夏と比べると比較にならない。
コウが住んでいたのは東北地方だが、それでも夏の暑さは余裕で三十度を超える。
しかも太平洋側なので湿度が高い。
空調なしでは熱中症で倒れる人が続出する。
無論、橘老も夏の暑さに修行で耐えろ、などという事は全く言わず……というより道場にまで大型のクーラーを入れてあったくらいだ。
曰く『夏の暑さの中で修行しても身にならん』とのこと。
ちなみに冬は本当に寒かったが、暖房なしだった。
こちらの夏は、コウの感覚では一番暑くても三十度行くかどうかで、しかも湿度も低い。
さらにアルガスのあるアルガンド王国中央部は、夏は乾季に向かう季節になるらしく、雨が降る日はあまりない。
話によると、常にカントラント河から湿度が補充されるクロックス辺りは、夏はかなり蒸し暑いらしいが。
王都の場合、真ん中にアルカーナ河があるのもあって、湿度は適度に補充されるが、それでも蒸し暑いというほどにはならない。
そんなわけで、少なくとも日本の夏に比べたらはるかに過ごしやすいというか、コウ的には避暑地にでも来てる気分である。
「コウもアイラと同じことはできますよね」
「多分な。ただ、出力の調整を誤るとむしろ面倒なことになる気がする」
法術具は基本的に装置に付いている魔石の大きさで、蓄積できる魔力の大きさが決まる。
だが、コウの法術は基本的に威力が高く、つまり魔力が大きい。
下手にやろうとすると、蓄積限界を超過して魔石を壊してしまう可能性すらある。
「あー。それはありそうです。料理法術も微妙でしたし」
コウの顔がなんとも言えない複雑なものになるのを見て、エルフィナがクスクスと笑う。
「エフィ、なんか楽しそうですね」
講義がおわって、ステファニーが声をかけてきた。
ステファニーとキールゲンは同じ講義を選択していることが多いので、必然的にコウとエルフィナとも一緒になることが多くなる。
「いえ。しかしアイラの法術は便利ですね、ホントに」
「ええ。本当に夏は重宝されてます。本人は大変そうですが。学生食堂に行きますが、エフィはどうします?」
「コウは?」
「キールが用事があるらしいからそれに付き合う。男子寮での用事らしいから、エルフィナはステファニーさんらと一緒に食事でもしててくれ」
「わかりました。ではまた後程」
ちょうどそのタイミングで来たキールゲンと共に、コウは講義室を後にする。
「男子寮の用事ってなんだ?」
「学院祭の準備の一環だ。大規模な看板やらは毎年作っていたら大変だから、ある程度使いまわすんだが、それが男子寮の倉庫にあってな。そろそろ状態を確認して、修理するか作り直すが決める必要がある」
「なるほどな」
高校の文化祭でもウェルカムゲートとかを作った記憶がある。
実際に作業したわけではないが、あれの予算編成とかには関わった。
こちらが同じとは思えないが、資材の一部を使いまわすというのは十分理解できる。
キールゲンが向かったのは男子寮の地下。
見ると、大きな金属のパイプめいたものや板なども見えた。
どちらかというと、工事現場の足場の様ですらある。
「これを組み上げて、外装整えて舞台とかの飾りつけに使うんだ。去年も使われた奴で、多分大丈夫だとは思うが、状態の確認を頼む。錆びてて危険そうだと思ったら教えてくれ。俺はこっちから見る」
「学生会長なのに下働きもするんだな」
「人手不足だからな。頼める奴がいるなら頼むが、俺は去年も見てるから勝手がわかるし。今日はざっとチェックするだけでいい。予算を先に概算だけ作りたいからな」
「なるほどな。とりあえず見てみるか」
コウとキールゲンは手分けして資材の状態を確認した。
何本か、錆が深刻だったものがあったのでそれだけチェックすると、男子寮を出る。
「少し時間かかったな……俺が男子寮の食堂で昼食を見繕うが、コウはどうする?」
「そうだな……まだ何か残ってるといいんだが」
寮の食堂でもお昼ご飯を食べる人は多い。
午前中で講義を切り上げた者や、今日は講義なしで自室で学習している者などは寮の食堂を使う。
やや遅いお昼なのであるいはなくなってる可能性もありえたが、幸い二人分だけなら何とかなった。
紙箱に入っているそれは、コウ的にはお弁当に近いものだ。
エルフィナだとこれ三つは一人で食べられそうだと思ったが、コウはもちろん一つで十分である。
「天気がいいし外で食べるか。付き合え」
「護衛だからな。言われなくてもついていくが」
実のところ、学院内では危険はほとんどないので四六時中張り付いている必要はない。
少なくとも現時点で学院内にいる人間は、そのすべての身元が分かっている。
学院内に限れば安全だとほぼ言い切れるだろう。
例の爆発事件後、学院の出入りは非常に厳しく管理されているのだ。
夏の陽射しがあるとはいえ、木陰に入れば十分に涼しい。
本当に日本の夏とはえらい違いである。
適当に雑談しながら食事を終える。
今日はあとは一時間ほど後に研究テーマの発表会がある。
「そろそろか……俺は学生会室に行くが、コウはあとから来い」
「は?」
「お前に客が来るからな。その後に来るんだ」
「え?」
いきなりキールゲンはそういうと、駆け出して消えた。
入れ違いに――女生徒が一人、視界に入ってくる。
亜麻色の長い髪に、深い翡翠色の瞳。胸元のリボンは、瞳の色に合わせてあるのか、同じ深い翡翠色。やや小柄な印象の女性だ。
「えっと……君は?」
「あ、あの、私はレリアナ・パティントンと申します。キュルメル伯爵の娘です。コウ様……ですよね」
知らずに声をかけてきたわけでもないと思うが、と思いつつ肯定する。
キュルメル伯爵というと、確かクロックス地方に領地を持つ伯爵だ。クロックスでもかなり大きな勢力を持つ家である。
ただ、そんな伯爵家の令嬢が、いったい何の用だろうか。
少なくともコウはこの少女はほぼ初対面のはずだ。
そのレリアナは、何か挙動不審なレベルで体を震わせていたが、やがて何かを決意したかのように顔を上げると、コウを正面から見据えた。
「あ、あの……好きです! 結婚してください!」
「……は?」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
言われた内容それ自体は、前にラクティに言われたこととほぼ同じだが、さらにぶっ飛んで『結婚してください』まで入っている。
繰り返すが、ほぼ初対面に近いはずだ。
「……えっと……いや、俺は君のことはほとんど知らないのだが……」
「これから知ってください。お願いします!」
エルフィナから、正面からのそういう告白が十回近くあったとは聞いてはいたが、自分がされる側になるのは予想していなかった。
誰から見ても魅力的だと言えるエルフィナに比べれば、自分の容姿がそこまで整ってるとは思っていない。少なくとも一目惚れされるようなことはないと断言できる。
だが。
コウは自覚がないが、コウも見た目で悪い印象を持つ人がいない程度には整った容姿である。そしてこの年齢で冒険者、それも王家から直接依頼を受けるほどとなれば、それだけで注目されるに足る十分な要素となるのだ。
ただ、ここでこの少女の告白を受け入れる理由は、さすがにコウにはなさ過ぎた。
これを受け入れたら、ある意味ラクティから恨まれそうだ。
「すまない。俺は君のことを全く知らないし――結婚するといったことも、全く考えられない」
そもそもこの世界で結婚していいのかどうかすら分からない。
見た目はコウとこの世界の人間は同じだが、本当に同じ存在であるかもわからないのだ。おそらく生物的にはほぼ同じだとは思われるが。
そういう意味でも、少なくとも今コウがこの世界で結婚するといった選択をすることはあり得ない。
「……だ、ダメですか」
「すまないな。だが、何度聞かれても返事は変わらない」
「……わ、わかりました……ちゃんと返事してくれて、ありがとうございます」
泣きそうな顔を堪えて深々と一礼すると、女生徒が去っていく。
悪いことをしたなという気にはならなくもないが、さすがにこれで了承するのはコウとしてもあり得ない。
「しかし……ラクティもそうだったが、ホントに真正面から来るな、この世界の人たちは」
おそらくはアルガンド貴族だからか。
下剋上すら上等、ただし正面から来い、などという国是はこの辺りにも影響しているのだろう。
とても潔いと思えるし、陰にこもるよりはずっといい。
こういう気質だからだろうが、日本の学校にあったようないじめ問題とも、ほぼ無縁な気がする。
貴族の子弟が多い以上、派閥などが出来ても不思議はないのだが、そういう話すらほとんど聞かないのだ。
しかし、別れしなのキールゲンとの会話を思い出すに、キールゲンはおそらくこれを相談されていたのだろう。どうりで動きが妙だとは思った。
無理に男子寮に来たのは、あるいはエルフィナからも引きはがすつもりだったのか。
いくらコウでも、エルフィナがそばにいる状態であの女生徒が告白できたとは思えない。
とはいえ、よほど強い想いだったのだろうとは思うが――さすがにほとんど知らない女生徒相手には、やはり了承するのはあり得なかった。
「さて、学生会室に行くか」
ただ。
この時コウはキールゲンの企みがこれで終わったと思っていた。
だから、その光景を見ていた森妖精がいることに、全く気付いていなかったのである。
ようやく発動、キールゲンの企み(違)
ちなみに、キールゲンはレリアナに何度も『絶対応じてもらえないと思うがいいのか』と聞いてます。それでも突撃するアルガンド貴族の方々(笑)




