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2-4.ぐに

 この壺振り、爆発するつもりか。そう感じられる程の迫力を壺振りは放っていた。その目は涙目、口の端から涎、顔は真っ赤で、肩を大きく戦慄かせ、激しく息を吸ったり吐いたりしている。


 俺は、衝立代わりの座布団を長時間持たされ、いつになったら目を決めるんだ、と心の中でぼやいていたのだが、ここに来て壺振りの様子がおかしくなってきたことにドン引きしている。爆発されるぐらいなら声を掛けて落ち着かせたいが、どうすればいいのだろう。


 傷の男を見た。俯いていて、我関せず、といった色だ。


 壺振りに視線を戻すと賽子を手に持っていた。遂に目を決めるのか。


 壺振りは1の目を上にした。今度は6の目を上にした。そのまま、賽子を持った手を低速で木枠に近付けていった。


 収納するぞ。火蓋が切られる。


 そのとき、フルズの構成員が作る壁の後ろの方が騒がしくなった。その騒ぎは前の方へ伝播し、壁が二つに分かれた。


 その間を通って出てきた男、髭を生やし、凛とした風体の優男、左目の下に赤いラインを二本、白いラインを一本、計三本も貯えている。


 その男がこちらに近付いて来て状況を確認し、壺振りに向かって、おい、と声を掛けた。だが、壺振りは無我夢中で賽子に齧り付いており、男の声が聞こえない様だ。男は壺振りを蹴り飛ばした。


 吹き飛んだ壺振りは顎を打った。涎を撒き散らしながら、鋭い目で振り返る。最早、狂犬だ。しかし、その狂犬は御主人を認識して顔を緩ませ、マキヤ兄、と声を震わせた。もう狂犬はマキヤと呼ばれる男を眺めることしかできない。


 そのマキヤは傷の男の正面で正座をして両手を突き、頭を下げて言った。


「お客様、勝負に水を差してしまい、誠に申し訳ありません。どうかお許し下さい」


 俺は、取り敢えず衝立代わりの座布団はもう要らないだろう、と判断し元の場所に戻した。俺はマキヤのことを知らないのだが、マキヤが自己紹介をしないということは、きっと傷の男とは面識があるのだろう。


 傷の男は落としていた視線を上げた。マキヤも顔を上げ、直ぐに本題に入った。


「また、別のお願いを申し上げます。この勝負、こちらの壺振りは降ります。その代打ちはこの私が務めます。それをお許し頂きたい」


 先程よりも深々と頭を下げる。壺振りの男も体勢を直し、マキヤの隣で頭を下げた。


 壺振りには勝つ雰囲気が全くと言っていい程なかった。だから、傷の男が勝っていてもおかしくはなかった。マキヤが代打ちするなど、傷の男にはデメリットしかない。


「駄目だ。俺はその壺振りとやる」


 予想通りの傷の男の返答だった。傷の男が認める筈がない。


「もちろん、手前勝手でお客様には損でございます。タダでとは言いません。無条件で四百万両、お譲り致します。お受け取り下さい」


 は、マジか。タダだぞ。タダで四百万両。無条件で大金を貰える。これは貰うしかない。


 どうせ相手が壺振りでもマキヤでも当たるかどうかは運任せなのだ。傷の男が負ける可能性が高いことに変わりはない。貰えるものは貰えるうちに貰っておけ、それが俺のルールだ。是非、四百万両を貰うべき。


「分かった、お宅の代打ちを認める。俺の手許にはお宅から借金した四百万があるから合わせて八百万だ。賭け金八百万の勝負をさせてもらうぞ」


 俺は唖然とした。借金分を返さないのか。借金したまま賭け金八百万、ということは、二倍して、二倍して、十倍して、四百万引くから、三億一千六百万になるな。


 三億?何てことだ。とんでもない額だ。もう働かなくてよくなるではないか。一生ニートが許される。


 マキヤは困り、傷の男を責める様に言った。


「お客様、お客様の仰ることは尤もでございます。今は有り金を全て賭けるタイミングで間違いはないでしょう。私も博徒の端くれです。このスリリングな博打、是非ともお受けしたい。断るなんて恥晒しでございます」


 そして、落ち着いた口調に変わった。


「しかし、私はこの賭場の長を務めております。従業員やその家族の生活に責任を持たねばなりません。もし、三億負けでもすれば、この壺振りに責任を取らせるのはもちろんのこと、従業員の大部分を解雇することを免れません。ですので、私は、長として、三億の負けのリスクをどうしても背負えません。どうか、ご自制を。先ず、四百万を受け取って頂いて、その後、借金を返済して頂き、残った四百万から、二百万での勝負にして頂けませんでしょうか」


 俺は再び唖然とした。二百万勝負と言ったのか。何だ、それは。虫がよ過ぎる要求だ。マキヤの言葉には呆れる。我が儘だ。この博打は自分にとって都合が悪い、ということを長めの文章で表現しただけだ。傷の男はマキヤの要求を間違いなく受け入れない。


 傷の男の方を見ると、空気が震えている様な気がした。傷の男が震わしている。つまり、キレている。一見、傷の男は先程と同じ様子に見えるが、目の中の色と背中から立ち込める何かが違う。少し目を離した隙にドスをマキヤに突き立てていてもおかしくない凄みがあった。


 しかし、その凄みは長時間持続されるものではなく、怒りを克服した傷の男は静かに言った。


「お宅は自身の敗北を確信しているんだろう。これは確実に勝てる勝負、張りを弱くしたら博打の意味が消えちまう」


 傷の男とマキヤの視線が強くぶつかっている。どちらも一歩も引かない。視線がぶつかるポイントから強風が発生している様に感じられた。


「代打ちをするなら八百万を認めろ」


 傷の男は強硬な姿勢だ。二人の交渉は長引くかと思われたが、意外な人物が話を纏める。


「素晴らしい。あなたは特別な人だ」


 全く調子の合わない声がした。振り返ると若が近くに立っている。若のことを忘れていた。居たのだった。若が傷の男の隣に座る。


「失礼しますよ。いや、あなたの博打は美しい。惚れてしまいました。私もね、長いこと裏稼業をやっていますが、あなた程の逸材は居なかった」


 若が握手を求めて手を差し出したが、傷の男は無視した。若は笑いながら差し出した手で傷の男の肩を叩いた。


「あなたの邪魔をする気はありません。八百万勝負をしたいのなら、私からマキヤさんにお願いしましょう・・・塩胡椒」


 あ、傷の男が幽かに笑った。


「ただ、少し心配事があります。我々ギャングというのはメンツのために暴力を働く習性がありましてね、どうしようもない連中なんですよ」


 確かに若の言う通りだ。三億も負けたギャングは何をしでかすか分からない。報復として夜道で襲ってくるかもしれない。そういえば、傷の男の顔の傷はなぜ付いたのだろう。


「お気付きですか、マキヤさんの左目の下、ラインが三本もあるでしょう。しかもそのうちの二本は赤だ」


 確かフルズでは何かしらの活動で功績を立てるとラインが貰え、その内容によって色が決まった様な気がする。赤は何か暴力活動だったかな、俺は余りよく知らない。


「もちろん、マキヤさんが暴力を振るうという訳ではないですよ。ただ可能性はゼロではない。そこでどうでしょう、八百万勝負はやめにしませんか。百万にしましょう。百万ならマキヤさんも問題ない筈だ」


 え、百?


「何でそうなる。俺は八百万を断られたら、壺振りと四百万の勝負をすればいい」


 そうだよな。傷の男の言う通りだ。百万という少額では、今までの時間は何だったんだ、ということになる。


「ええ、もちろん。ただ、百万は勝っても負けても恨みっこなしにするためです。それともう一つ、ちょっといいですか」


 若が顔を近付け、傷の男に耳打ちをした。いかがです、と言いながら顔を離すと、傷の男が少しだけ体を丸めて考え出した。一体、若は何を言ったのだろう。


 すると、背筋を伸ばした傷の男が賭け金を百万にすることをあっさり了承した。俺はなぜ傷の男が余りよくない条件を飲むのか分からなかったが、まあ、若の耳打ちが原因だろう。


 マキヤは若を一瞥した後、傷の男に感謝の言葉を告げると、勝負の前にルール変更をしたいと申し出た。


 その内容はルール変更といっても大したものではない。マキヤが俺を信用してないだけだ。俺が二人の間で座布団を持っていると、当然ながらマキヤが何の目を木枠に収納したかが俺の目に入る。それを嫌ったのだ。


 傷の男がマキヤの申し出を了承し、それと同時に勝負が始まった。


 今、賽子二つと木枠がマキヤの目の前にある。そして、そのことを皆で確認する。確認できたら俺がそれらの上に座布団を乗せ、俺は元の位置に戻る。


 マキヤが腕まくりをし、両手の指をしっかり開いて、表も裏も改めた。そして、両手をゆっくりと座布団の下に入れる。こうすることで誰にも見られずに目を決めれるのだ。


 俺は勝負と無関係だが、どうしても緊張してしまう。唇を噛み締め、息を止めていた。やはり、俺は博打に向いてない。平静を保てないからだ。


 ルールの話に戻るが、マキヤは座布団の下でテキトーに賽子を収納することを禁じられている。勝負の最後に木枠から賽子を取り出す直前、マキヤが目を宣言をし、それが木枠の中の賽子の目と一致していなかった場合は無条件で傷の男の勝利となる。


 マキヤが座布団から手を出した。両手の表裏を改め、体に戻す。目が確定した。もう後戻りはできない。


 目は何だろうか。6の目を上にした場合の俺の予想は合計が6か8になる目の組み合わせだ。小さい数字が選ばれる様な気がする。そうだな、丁・合計6・『2・4』かな。


「カノさん」


 傷の男が俺に声を掛けてきた。俺は、へ、と返事をしたが、傷の男が顎をしゃくったので、なぜ呼ばれたのか理解した。俺が座布団を取り除けということだ。


 俺は畳の上で膝を擦りながらマキヤの方へ移動し、座布団の周囲の一辺と、その反対側の一辺のそれぞれ真ん中を掴み、持ち上げ、取り除いた。木枠の中で上を向いているのは、1の目だ。


 傷の男は両手で挟む様に木枠を取り上げ、自分の手許に置いた。俺はその後に傷の男の後ろに下がる。先程より緊張しているぞ、俺は無関係なのに。


 傷の男はマキヤの顔を、じっ、と見詰めていた。もしかして、マキヤの顔に答えが書かれているのか。それとも心を透かそうというのか。まさか、神通力か。


 俺が馬鹿なことを考えていると、程なくして傷の男が座り直した。それに釣られて俺も座り直してしまった。


 よし、と傷の男が言う。どうやら予想の発表のときの様だ。


「半、合計は7、目は『2・5』、左が2で右が5だ」


 マキヤの眉が、ぴくっ、と一回だけ動いたのを俺は見逃さなかった。


 合計7は目の組み合わせが一番多いパターンだ。この男は敢えて、そこを予想した。しかし、それは逆張り過ぎやしないか。その目はないだろう。俺がやるとしたら絶対そこは外す。


 マキヤが発言のため息を吸った。


「お客様、その通りです」


 それは敗北宣言だった。つまり、傷の男は全て完璧に当てたということなのか。まさか、目の組み合わせまで当てたのか。嘘だろ、マジで当てたのか。傷の男の完全勝利なのか。


 マキヤが何も詳しく言わないということはどうやら本当に完全勝利の様だ。傷の男は自分で課した不利な条件を跳ね除け、見事に勝ったのだ。長かった勝負もこれで終わった。傷の男が勝ったのだ。


 傷の男は木枠のストッパーテープを剥がして丸め、俺の方を向いた。


「確認してくれ」


 傷の男は俺に確認を求めた。なぜかまた緊張感が俺にやってきた。目を実際に見れる。実際に賽子を確かめて、勝利を目に見える現実として感じれる。言葉よりも実感だ。実感が欲しい。


 俺は木枠を持ち上げた。そこで、俺は自分の手が汗を掻いていること、そして、指が震えていることに気付いた。一旦、木枠を置き、手汗をズボンで拭う。指はまだ震えているので、木枠は畳に置いたまま賽子を取り出すことにした。


 蓋が付いている長い側面板を自分に向け、右側の賽子の露出した側面に親指を宛てがう。そのまま押し付ければ、指と賽子の間の摩擦力が強まり、賽子が指に付いてくる様になる。左手は、左側の賽子ごと木枠を押さえた。


 右手で上に引っ張ると右側の賽子を取り出せた。蓋がある方から見て右側ということは、『右』『左』の文字が書かれている反対側の長い側面板の方から見れば、左の賽子ということになる。


 ということは、左の賽子の接触面の目は2で、木枠に残った右の賽子の接触面は5だ。俺の心臓が一瞬、縮み上がった。


 本当に的中している。当てやがった、合計7の目を。


 何てことだ。俺では計れない博打の才能だ。あり得ない、異次元の世界の住人。恐ろしさすら覚える。強運を通り越えた豪運。ゴッドラックの称号は、この男の方が相応しいかもしれない。


 俺は次の日になるまで、目を当てたのは運が良いからだ、と思い込んでいた。


「どうなんだ」


 若が聞いてきた。俺は何度も頷きながら答える。


「当たってます。どちらの目も、完璧に」


 フルズの構成員から落胆の溜息が漏れた。どうやら俺以外の皆も、マキヤの言葉だけでは実感できず、俺の報告を待っていたらしい。


 俺は傷の男を見た。どことなく力が抜けている様だったが、嬉しさは全く表現してない。どうでもいいのだろうか、勝ったというのに。


 マキヤもだ。負けたのに一切悔しがろうとしない、隣に居る壺振りは分かり易く悔しがっているのに。マキヤは強がっているのだろうか。


 傷の男もマキヤも、俺が思う様なリアクションを取らなかった。二人だけを見ていると、まるで二人は幽体離脱していて、幽体同士で対峙し、次の試合のゴングを待っているかの様な印象を受ける。


「ここに四千万はあるのか」


 マキヤは怒鳴り気味に壺振りに聞いた。壺振りはマキヤの声に驚いた後、あります、と答えた。


「直ぐに取ってこい」


 壺振りは立ち上がり、バックヤードの方へ行こうとしたが、待て、とマキヤが声を掛けたので立ち止まった。マキヤが壺振りの方へ手を伸ばしたが、壺振りはそれが何を意味するのか分からず、固まっている。


「借用書だ」


 壺振りは慌てて懐から傷の男の借用書を出した。受け取ったマキヤは、行け、と命令してから借用書を開く。


「こちらのお名前、お客様のもので間違いございませんか」


 マキヤが傷の男に確認する。頷いた傷の男を見て、マキヤは借用書を徹底的に破き出した、細切れになるまで。


 破り終え、暫く待つと、壺振りの男が金の乗った長手盆を持ってきた。壺振りは急いで小走りをしながら持ってきたので、マキヤの手前で盛大に転び、札束をぶち撒けた。その風圧でマキヤの持つ借用書の紙片が宙を舞う。紙片は空気から抵抗力を受けるため、回転しながらひらひらと落ちた。


 マキヤはそれを気にも留めず、百万の束を数える。傷の男の手許には四百万両あるので、三十九の束を数える必要がある。重なった三十九の束は山となった。マキヤはその山を傷の男の方へ押し出して、淡々とした口調で言う。


「お納め下さい」


 傷の男はズボンの後ろポケットから濃紺のポリエステル製のバッグを取り出して金を詰めていった。


 随分と準備がいいな。負けていたら必要ない物なのにちゃんと用意していたのか。もし負けてたら傷の男は必死になってあのバッグの存在を隠していたのだろうな。あれ、お前、ポケットに何か入ってんじゃん、違うよ、関係ないよ、もう放っておいてよ、という感じで。


 そのようなことを考えているうちに傷の男は金をバッグに詰め終え、立ち上がった。出口の方へと向き、帰ろうとする。


 終わりだ。長い丁半だった。もともとは穴の開いた壺のイカサマ丁半をしていたのに、この様な結末を迎えるとは誰も予測できなかっただろう。いや、一人、例外が居るな。傷の男だけは予測していたのかもしれない。


 傷の男、一体何者なのだ。普段からこの様な大金を賭けた博打をし、勝ち続けているのか。


 傷の男が出口に差し掛かった所で、待て、と声を張り上げ、呼び止める者が居た。それは壺振りの男だ。壺振りの男は立ち上がって続けた。


「教えろ。ピンの目はズレていたのか。お前が教えるまでは帰さねえ」


 ズレ?


 俺には発言の意味が分からなかった。それは勝負に参加した者だけが理解できて、勝敗に間違いなく影響する重要な要素のことなのだろうか。


 傷の男が答えた。


「そうだな、違うとだけは教えてやる」

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