2-1.スリーチャンス丁半
一時はどうなることかと思った。もし倍払いで収まらず、五倍払い、十倍払いを要求され、それを飲まざるを得ない状況に追い込まれていたら、本当にあの方に殺されていたかもしれない。この傷の男が再試合を提案してくれたので、俺は愁眉を開けた。
場の空気は先程と比べると弛緩していた。弟分達の中にもにも、何人か安心の色を呈している者が居る。
しかし、油断は禁物だ。相手の言うことを鵜呑みにしてはいけない。こいつは侮れない男だ。妙な博打の提案には必ず裏がある。俺を嵌める気に違いない。クソ、舐めんじゃねえ。
座布団に納まった傷の男が先ず木枠の説明を始めた。
「この木枠は、底板が一枚、短い側面板と長い側面板が二枚ずつで構成されていて、上に口が開いている。サイズは賽子二つがぴったり収納される様に調整されている」
この木枠に賽子を二つ入れてしまうと、完全に収納され、一切はみ出さないので、取り出せなくなってしまう。
そのため、長い側面板の口側を、その高さの四分の一程で真横に切断し、その切断した板の切れ端を元の場所にセロテープで固定する。このセロテープを、蝶番テープ、と呼ぶ。
木枠の切断前と後の見た目に変化はないが、蝶番テープがあるお陰で、板の切れ端がパカパカと開閉するため、それが蓋の役割をする。
蓋が閉じていれば元の木枠の形を留めるが、蓋が開いていれば賽子の側面が露出し、そこに指を宛てがうことで、木枠から賽子を取り出すことができる。
最後に、セロテープを蓋から真横に伸ばして、木枠の角を通り、短い側面板の真ん中辺りまで到達させれば、蓋が閉じている状態をキープできる。このセロテープを、ストッパーテープ、と呼ぶ。もちろん、蓋を開けたければ、ストッパーテープを外せばよい。
長い説明になったが、要は、普通の木枠に賽子を取り出し易くする工夫をした、ということだ。
「木枠に関してはもう言うことはない。何か質問はあるか」
傷の男は、俺との間に木枠を置いた。
少し考えてはみたが、ただの木枠にどう疑問を抱けばいいのか。聞きたいことが何も思い浮かばない。
「質問は特にありやせん」
傷の男は、そうか、と頷き、自身で考案したゲームのルールについての説明を始めた。
「壺振り役が、賽子を二つとも同じ目を上にして木枠に収納する。好きな目を上にしていいが、どの面を上にしても確率は等しいから、二つとも6の目を上にして収納した場合で説明する」
今回の勝負で客役、つまり傷の男が予想するのは、二つの賽子同士が唯一接触している面だ。先ず、その二つの面の目の合計が丁か半かを予想する。
6を見える様にして収納した場合、底板に1が接触するので、考えられる賽子同士が接触している面の目の組み合わせは次の通り。
『2・2』『2・3』『2・4』『2・5』『3・3』
『3・4』『3・5』『4・4』『4・5』『5・5』
丁の目が六通り、半の目が四通り、となるため、普通の丁半と違いフィフティ・フィフティにならない。
「テキトーに賽子を入れてはいけない。丁か半かを決めるのは、お宅の意思だ」
これだけではない。この丁か半かの予想はファーストチャンスに過ぎない。当てることができた場合は、セカンドチャンスに進める。
「セカンドチャンスで予想するのは、目の合計数だ」
6を上にして収納した場合の目の合計数は次の通り。
『4』『5』『6』『7』『8』『9』『10』
以上の七通りが考えられる。
そして、このセカンドチャンスを突破できた場合はサードチャンスに進む。
最後のサードチャンスのクリア条件、それは、それぞれの面の数字をピンポイントで言い当てること。もともとの丁半の当たる確率は二分の一なのでそれと比べると、かなりに低い確率に挑まなければならないということだ。
そして、傷の男が思い出したかの様に言った。
「油性ペンを貸してもらえるかな」
俺への要求だった。何に使うか分からないが、それを問い質したところで、寄越せば分かる、などと吐かすのだろう。
俺は弟分に目を遣って合図をした。小走りでバックヤードに向かう弟分の背中からは緊張感が見受けられなかった。
弟分から油性ペンを受け取った傷の男は、蓋が付いていない方の長い側面板の左側に『左』、右側に『右』と書いた。これは二つの賽子を左右で識別して考えるという意味だろう。
つまりサードチャンスの回答として次の十六通りが考えられる(『左・右』の順)。
『2・2』『2・3』『2・4』『2・5』
『3・2』『3・3』『3・4』『3・5』
『4・2』『4・3』『4・4』『4・5』
『5・2』『5・3』『5・4』『5・5』
纏めると、ファーストチャンスを突破する確率は約二分の一、セカンドチャンスは七分の一、サードチャンスは十六分の一である。
例えば、『3・2』の目が収納されている状態で、半・合計5・『2・3』と予想した場合、セカンドチャンスまで突破したということになる。
傷の男は心理戦を求めているため、収納する目を決定する際に、ランダムに収納することは許されない。必ず何の目を入れるか自分で分かっている様にする。丁六通り、半四通りのアンバランスさが心理戦を加速させるのだ。
「念のため、賽子が摺り替えられない様にマーキングさせてもらうぞ」
傷の男が、二つの賽子の4の目の右上と左下の角に、油性ペンで黒丸を書いた(もちろん、九十度回転させると、黒丸が左上と右下にある状態になる)。
「さて、一番大事な話しをしよう」
油性ペンを置いた傷の男が俺に目を合わせ、金の話だ、と言った。
先ず、ファーストチャンス。これを突破した場合は倍払いになる。傷の男の賭け金は四百万なので、突破すると八百万が支払われる。そのうちの四百万は借金なので、その分を返済すると、傷の男はプラス四百万になる。
次に、セカンドチャンス。これも倍払いでいい、と傷の男は言う。突破した場合、プラス八百万だ。
最後のサードチャンス。
傷の男が人差し指を伸ばした。
「十倍でいい」
弟分達が再び騒然とした。十倍は高過ぎると感じたのだろう。八千万になるじゃねえか、そんなもん払えるか、といった怒号が飛び交う。
その様な空気の中、俺は意外と落ち着いていた。俯いて考える。八千万か。
しかし、この男の場合はそうはならないだろう。八千万はファーストチャンスを突破した時点で借金を返済した場合の額だ。傷の男は返済するだろうか。いや、俺には分かる、この男は借金を抱えたまま最後まで突っ走る。そして、最後まで当て続けて最後に返済した場合の金額は一億五千六百万にも上る。
一億か。到底俺が負けて許される額ではない。あの方は許さないだろう。間違いなくこの命を以ってけじめを付けることになる。俺は急に提案された博打に命を賭けないといけないのか。
傷の男に一億五千六百万両を奪われる可能性は、約二百二十分の一。かなり低い確率だ。なら、いけるか。
いや、駄目だ、何を考えている。
俺は自分の愚行を嘆いた。自己嫌悪に陥ったのだ。それは俺が丁半でイカサマをしようとしたことについてではない。今、頭の中で確率の算盤を引っ張り出してしまったことだ。博打で確率の計算など、小市民にも程がある。俺はその様な男にはなりたくなかった。だから、ギャングになったのに。
しかし、命の危機に瀕する博打を迫られると、どうしても怖気付いてしまう。万が一、億が一、兆が一、京が一、垓が一にも死ぬリスクなんて背負いたくない。
こんな博打やりたくねえ。棄権してえ。クソ、俺はなんてシャバい男なんだ。先程イカサマをしたうえ、今度は尻尾を巻いて逃げ出す算段を立てている。博打というものは互いにリスクを背負うものなのに、俺だけ逃げ出すことを考えているのだ。これは恥ずべきことだ。
俺は歯を食い縛ってどうするかを考えた。歯が砕けそうだった。しかし俺はあることに気付いた。
でも、待て。よく考えたら、傷の男のリスクはたったの四百万の借金だけではないか。俺と全く釣り合っていない。これは滅茶苦茶ではないか。
俺は、いざと言うときには命を張れる。しかし、今回のルールは不条理そのもの。命は張れるが、犬死には御免被る。
確かに傷の男に借金を負わせて俺達のメンツを回復するチャンスはあるが、この様な博打に乗るような男は威勢がいいだけの白痴だ。ただの馬鹿の間抜けだ。この博打を受け入れるのは、私は馬鹿です、と高らかに宣言することに等しい。
俺は決断した。余りにも俺に不利過ぎる条件なので、傷の男の話には乗らない。
・・・よし、言うぞ。
そのような博打には参加できません。倍払いで穏便に済ませましょう。
これを言って認めてもらうために頭を下げればよい。でも、それは、命乞いではないのか。
俺は辟易して溜息を吐いた。俺は命乞いをしないといけないのか。嘘だろう。うんざりする。
弟分達は静かになっていた。文句を言い終えたのだろう。
俺は木枠を眺めていて傷の男が視界に入っていない。だが、それでも分かる、傷の男が俺を焼こうとしていることくらいは。
嫌らしいのは先程の科白だ。
『十倍でいい』
この大きく譲歩している様な科白。考えられる場合の数が十六通りあるから十六倍払いが当然なのに十倍に抑えてやるよというこの科白。それが俺の背中を押している。そして、それが耳許で囁き出し、俺の不安定な心理を指摘する。
怖いんだよね、と。イカサマがばれて動揺しちゃったんだね、と。
俺は目の前で何もしていない傷の男にどんどん追い込まれていく様な感覚を抱いた。
もし俺が断ったら、傷の男はどう思うのだろうか。弟分達はどう思うのだろうか。イカサマを見抜かれたあげくに、勝負には無条件降伏する。何て情けないギャングなのだ。
俺は泣き出したい気分だった。勝負を引き受けたら死ぬかもしれないうえ、断ったらギャングとして確実に死ぬ。ギャングとして生きたいのならば勝負を受けるしかない。
この判断はとても難しくて俺には直ぐにできない。一体どうすればいいのだ。
クソ、しかもよく考えたらニシマツの旦那方も居る。もし俺が断ったら西にまでそのことが伝わるではないか。いよいよ俺はギャングとして生きていけなくなる。
俺はニシマツの旦那方を見た。そして、あることを思い出したのだった。若い旦那に年季の入った旦那が居る様に、俺にはあの方が居る。もし、あの方がここに居たら俺に何と言うだろうか。
あの方ならこう言う。見下せ、傷の男を、と。俺はその通りだと思う。傷の男を見下さなければならない。
あの方のことを考えると勇気が湧いてくる。俺が死んでも誰にも何の問題もないが、俺が逃げたらあの方が恥を掻いてしまうではないか。それだけは絶対に避けないといけない。俺は覚悟を決めた。
「分かりやした。有り難いご提案、謹んでお受け致しやす」
俺は見開いた目で傷の男を睨み付け、深々と頭を下げた。頭を下げるときはしっかりと下げる。これもあの方から教わったことだ。