3-4.協力
傷の男はその二文字も解釈に含めた。だから傷の男にとって98ページの二文字目は『滑』なのだ。
「『滑』で間違いないだろ」
「違うわ。本文には含めねえよ、上のちっちゃいタイトルなんて。当たり前だろ」
「そうなのか。聞いてなかった」
「喧しい。この『私は稽古を始めた』って文が始まるまで、漢字は出てこないから、このページの二文字目の漢字は稽古の『稽』だろうが」
「そんなこと言われても俺は」
「あんたは理解していた。だから、選択肢に『稽』を入れたんだろ。罰符だ、これは。十倍払いだ。あんたはわざとやったんだ。これは立派な妨害行為だ」
「分かった。分かったから落ち着け。うるさいぞ。お宅、真後ろを見てみろよ。他のお客さんが居るから静かにしよう」
ナカセは後ろを振り向かずに座った。傷の男が続ける。
「悪かったよ。勘違いしていた。もう一度、やり直そう」
「いや、やり直しは有り得ない。これは罰符だ。若、罰符でいいですよね」
若は急に意見を求められてたじろいだが、傷の男は若に意見させなかった。
「若に言うな。やり直しすればいいじゃねえか。それとも何か、やり直しは都合が悪くなる事情でもあるのか」
「いや、何を言う。そうではない。あんたが罰符だからやり直す必要がないと言っているんだ」
「本当か」
「本当だ」
「・・・まあいい」
傷の男は、一呼吸置いた。
「何で、稽古の稽、と知っていた」
追求する声色だった。ナカセは何のことか分かってない様だ。
「その98ページを見る前に、お宅、口走ってたぞ。稽古の稽、と。なぜその段階で知っていたんだ」
ナカセが明らかにしどろもどろになった。
「いや、それは違う。その、稽古と滑稽があったから普通に稽古と言ったんだ」
傷の男が、はあ、とだけ言い放った。
「だから、その、言うだろ、そういう風に。漢字の説明するときに、田んぼの田、とか、松竹梅の松、とか。それと一緒だ。だから、稽古の稽、と言ったんだ」
ナカセが話している途中で、元の調子を取り戻した。理に適っている言い訳だと判断したのだろう。
「苦しいな、それ。通用すると思うか」
「通用するとかじゃねえ。事実だ。何なんだ、さっきから。あんたは何が言いたいんだ」
ナカセの発言に対し、遂に傷の男が核心を突いた。
「罰符はお宅だ、と言いたい」
ナカセから、なっ、と声が漏れた。図星なのだろうか。
しかし、罰符というのはどういうことなのだろう。ナカセは間違いなく、傷の男が持っていた『潤滑』に触れていない。つまり、不正の余地はない。だが、実際にナカセは、稽古の稽、を指摘され動揺した。ということは、ナカセは『潤滑』に触れずに『稽古』を知ることができたということだ。
その可能性は二つ。『潤滑』に登場する漢字を全て暗記するか、98ページの二番目の漢字を使うと決まってから回答までの間にどこからか答えを仕入れたか。
先ず、前者について考える。全漢字暗記は可能なのだろうか。小説って、二百ページくらいかな。二百の漢字、覚えられないこともない。
いや、待て。違う、覚えるのはその半分でいいのだ。本を開くと必ず二ページ分、表示される。その二ページのうちの二番目の漢字なので、左のページは覚えなくて、いや、違う。
二番目の漢字ではなかった。何番目の漢字になるかは、こちらの返答次第だ。たまたま今回は二番目だったが、三番目や四番目の可能性もあった。
つまり、暗記しなければならない漢字の個数は、その小説のページ数の半分の数倍になる。この量の漢字を覚えることはできるのか。
そうだな、俺だったら覚えない。人生の貴重な時間をその様なことに使いたくない。最早、勉強ではないか。勉強やりたくない。絶対やりたくない。
ということは、答えを仕入れたのだ。どこかのタイミングでナカセの視界に入ったに違いない。ナカセの視界には何かがあった筈だ。
俺はナカセの隣に居るからナカセが見ているものと俺が見ているものは殆ど同じの筈だ。俺の視界には、若、傷の男、吊り革、網棚、窓、広告、壁など、無機物から有機物まで色々あるが、答えを教えてくれそうなものはなさそうだ。
他の乗客達も居るが、もし彼らのうちの一人が、答えは稽古の『稽』、と書かれた紙を掲げていたとしたら、俺が見逃す筈ない。つまり、答えを仕入れることはできない。あれ、できないぞ。
そう考えていると、視界の隅に『フローレンス』があることに気付いた。それはテーブルの上にある。そこで俺はその『フローレンス』に不正があると仮定してみた。
本か。待てよ、本って、確か。本は変装することができる、カバーを替えさえすれば。エロ本のカバーを替えて普通の本に偽装するよくあるやつだ。二冊の小説、『潤滑』と『フローレンス』は、ほぼ同じサイズ、もしかして。
俺はテーブルの上の『フローレンス』に手を伸ばした。それを取り上げる。ナカセは黙って俺の動きを見ていた。体を戻して、栞が差さっているページを開く。98ページ。本文の上には小さく『フローレンス』と書かれていた。本文にも軽く目を通してみたが、『稽古』の文字はない。
違うか。これはナカセの不正の証拠ではなかった様だ。ここから答えを得ることはできない。
車内に、間もなく駅に到着します、とアナウンスされた。事故のため次の駅で暫く停車するらしい。
ナカセの真後ろの席に居た金髪の乗客が立ち上がり、降車の用意をした。ボックス席から離れる。そのとき突然、傷の男は俺から『フローレンス』を奪い、テーブルに置いた。
「後ろの男を確保してくれ。早く」
え、後ろの男?傷の男が訳の分からないことを俺に頼んできた。後ろの男とは、今、立ち上がった金髪の男のことだろうか。傷の男は明らかにその男へ顎をしゃくった。俺が思っている男で間違いない様だ。
他人の命令を聞く筋合いはないが、傷の男は特別な存在なので指示内容に従ってやることにする。俺は立ち上がってその男の元へ向かい、二の腕を掴んでこちらを振り向かせた。その男は酷く驚いている色だった。俺は、ちょっといいか、と言って相手の返答を待たずに俺達のボックス席へ連れて行った。ナカセはポーカーフェイスを装ってはいるが、苦虫を噛み潰した色だった。
「その男の鞄を調べてくれ」
傷の男が言った。
金髪の男は反射的に俺の反対側に鞄を振った。これは怪しい。何かある。金髪の男は鞄を触られたくない様だが、残念ながらこちとらギャング、他人を犯すのが仕事だ。俺は構わず鞄を奪い、先程まで俺が座っていた座席に置きいて中を改めた。金髪の男は、ちょっと、と言い、俺の肩を掴んで引き離そうとしたが、俺は無視する。
鞄の中身は少なかった。財布、タオル、眼鏡ケース、飲み終えたガラス製のカップ酒、本四冊。これらを傷の男に報告した。
「本のタイトルは?」
傷の男からの追加調査依頼だ。鞄の中では、本のアタマだけが見えている状態でタイトルが分からないため、四冊ごと片手で掴み、鞄から取り出した。そして、その四冊のうち二冊は俺のよく知っているタイトルだった。『潤滑』と『フローレンス』。なぜナカセと同じ本を持っているのだ。
「ナカセさん、同じ小説の様だがどういうことだ」
傷の男はナカセにじりじりと迫る。そのナカセは一歩ずつ追い込まれている筈だが、毅然とした態度で言った。
「僕はホームの売店で買った」
傷の男が金髪の男の方を見た。その男も、ホームの売店で買った、と主張した。
「関係のない二人が、同じ店で、同じ本を、同じタイミングで買ったのか」
ナカセは何も言わない。
俺の頭の上に電球が、ピーン、という音と共に出現した。思い付いたのである。分かったぞ、この本、中身が違うのだ。
『潤滑』、『フローレンス』のカバーが付いた本の中身を調べた。しかし、カバーと中身は一致していた。念のため、残りの二冊、『アルファ・α』と『運転手プラス』も調べたが、一致していた。俺は真相に迫った気になっていたが、違った様だ。
一応、鞄の中身を全て座席の上に出したが、一体どれが今回の勝負に関係するのか皆目見当が付かない。
「もう、言おうか」
俺を眺めていた傷の男が説明を始めた。
「これはナカセさんが確実に勝つ漢字当てクイズだ。ナカセさんは答えを知っていた。なぜなら、始めにナカセさんが持っていた本は二冊とも同じ内容だったからだ。カバーは違ったけどな」
傷の男に渡された『潤滑』は仕掛けなし。ナカセが栞を差させた『フローレンス』は仕掛けあり。その中身は『潤滑』だった。
「逆に後ろに居た男は『フローレンス』だけを持っていた」
もちろん、一冊は普通の『フローレンス』であり、もう一冊はカバーが『潤滑』になっている『フローレンス』。ちなみに他二冊は関係ない。
「ナカセさんは仕掛けのある『フローレンス』で、堂々と『潤滑』の98ページを確認した。その証拠に、俺には中身を一瞬しか見せてくれなかった」
傷の男に一瞬だけ見せ、俺にはページ数が確認できる程、長時間見せた。俺は『潤滑』を見せられたが、それ以外の本の中身は一切見てないので、それが『潤滑』だと判断できなかった。
「後ろの男は、俺たちの会話からページ数を知り、普通の『フローレンス』の98ページに栞を挟んで準備した。そして、ナカセさんが後ろを向いたときに交換した」
座席の背もたれは電車の壁と繋がっていない。その座席と壁の間の隙間を利用し、本を交換した。これで、ナカセは仕掛けのない『フローレンス』を手に入れることができる。
「後ろの男は仕掛けのある『潤滑』と『フローレンス』のカバーを交換する。これで仕掛けの跡が消える。恐らく俺が差した栞は、丸めて足許に捨てたか、他のページに移されているだろう。最悪なのは窓から線路に捨てられたパターンだ。もしそうだったら俺はお手上げだ」
後ろの男がカバーを交換した瞬間に証拠が一切なくなる。完璧なイカサマだ。ナカセが確信を持って『稽』と答える訳だ。
これは確実に勝てる勝負なうえ相手も勝負に乗ってき易いルールになっている。それは選択肢を幾つ作ってもいいこと。このお陰で、相手は安心して勝負に参加できる。だが、選択肢が幾つあっても勝つのは必ずナカセという訳だ。
「お宅は不正を働いたんだ。認めるよな」
俺は感心した。これは文句なしの完璧な証明だ。ナカセは終わったな。不正が証明されたのだから、完全に負けだ。やはり傷の男が勝ったか。予想通りの結果だが、一回きりの短時間の勝負で相手の不正を見抜くとはさすがだ。
しかし、負けたナカセも大したものだ。一瞬でも俺に傷の男が負けたと思わせることができたのだから。相手が傷の男でなければナカセが勝っていただろう。
ナカセは負けた自分に嫌気が差したのか、ふっ、と笑った。諦めの笑いだ。ここまで俺はナカセが負けを認めるものだと思っていた。しかし実際は、全く負けを認めなかった。
「何の話だ。よくそんな妄想が思い付く。でも面白かったな。あんた、今度それやりなよ。良いアイディアだと思うぜ」
ナカセは開き直って自分の無実を主張する旨の発言をした。往生際の悪い奴だ。