3-3.二つの解釈
「これでいいかな」
ナカセは言葉を失っていた。肘掛けに体重を預けて頬杖を突き、思い耽っている。どうしたものかと考えている様だ。
ナカセの横にある窓は先程まで俺達が居た街の景色を映し終え、木々のスピード感を見せてくれている。葉が太陽光を反射して白くなっていた。
やがて、ナカセは肘を外し、回答を出した。
「無理だ、四千万は。額がデカ過ぎる。人生を棒に振るかもしれない額だ」
傷の男は透かさず言った。
「なら、八千万にしよう。これで俺も負けたら人生を棒に振るリスクを負う。ここに居る若は昨日俺の稼ぎが少なくなる様にした。だから、数千万くらい気前良く貸してくれる筈だ」
そう言われた若の顔が曇った。若は組織の中での立場は高いが、個人的な理由で簡単に数千万を動かせるという訳ではない。四千万は凄まじく大金である。
どうして傷の男はこの様なことを言ってしまうのか。世間知らずで金銭感覚がないのか。大きい金額を賭ければ楽しい、といった考えは子供染みているぞ。
才能が素晴らしいだけに、実に勿体ない。これでは勝敗以前に対戦相手も儘ならない。そう考えると、実際は代打ちには向かないのかもしれないな。
「滅茶苦茶だ。話にならない。金はただの目盛りではないんだ。あんたには付いていけないよ。電車でやる気軽な運試しに人生は賭けれない」
ナカセが正論を放った。
電車がトンネルに突入する。
傷の男が遠い目をした。そして、突然、告白をし始めた。
「俺、弁当を味わえないって言ったら信じるか。何の味もしない。匂いも感じない。でも、熱い勝負をするとそういった感覚が回復する言ったら?生きるために熱い勝負が必要なんだよ。分かってくれ。八千万勝負だ。お願いだから」
俺は傷の男が本当のことを言っている気がした。本当に熱い勝負以外には何も感じないのかもしれない。ただ一方で、それは賭け金を上げるための真っ赤な嘘かもしれないとも思う。どっちだろう。もし本当だったとしたら、それは壮絶な人生だっただろうが、何も感じないなどあり得るか。嘘なのか?
ただ、俺達は博打をしなくても生きていけるが、この男は博打なしでは生きていけないというのは間違いなく本当だろう。俺の直感がそう言っている。だから、傷の男は強くなるしかない。強くなければ負け続けて借金で死ぬ。俺達とは博打への態度が全く違うのだ。
重ねて言うが、何も感じないというのは嘘の可能性も十分にある。だが、この男が言うと、どうなのだろう。
ナカセは絶句していた。傷の男に対し困惑している様だ。しかし、ナカセはそれでも八千万は受けないだろう。
若も困惑していた。もう昨日の様に、賭け金を下げることを勧め難くなってしまったからだ。もう誰も事態を打開できない。
皆の状況を察した傷の男は観念したのか、振り絞る様に言った。
「分かった。二千万でいい。いや、千五百万でいいから、勝負してくれ」
これは大きく歩み寄る発言だ。ナカセも譲歩されて断れなくなったのか、千五百万の勝負を渋々認めた。
その一方で、俺は違和感を抱いていた。もしかすると、傷の男は初めから千五百万を狙っていたのではないか。だから、張子の八千万勝負にリアリティーを持たせるために真っ赤な嘘を吐いて千五百万が安く感じる様に演出したのかもしれない。
もしそうなら聡い男だ。俺はこいつの言うことを信じ過ぎない様にしよう。でないと、一千万単位の勝負に引き摺り込まれてしまう。たった今、引き摺り込まれたナカセを見てそう思った。ナカセは無傷で済むのだろうか。
トンネルが終わって日の光が差し込んできた。
傷の男は金の入った鞄の隣に弁当のゴミを置いた。傷の男はやっと弁当を食べ終えたのだ。
「勝負再開だ。栞を差すんだろ」
そう言われてナカセは『フローレンス』を構え直した。そこの小口の真ん中辺りに傷の男が栞を差し込み、手を下げる。
ナカセが栞を押し下げ、栞の上下で別れる割れ目を作り、そこに手を突っ込んだ。本を開き、栞の差さっているページを傷の男に示す。傷の男に示した後は俺に示して言った。
「ページ数を確認してくれ」
あ、俺が確認するのか。
「えー、98と99ページ」
「98」
ナカセは自分の方に開いているページを向けた。遠視なのだろうか、少し本を遠ざけて眉に力を入れ、ページを見る。
「98か」
ナカセは『フローレンス』を閉じ、胸ポケットに差してあるボールペンを傷の男に手渡した。
「えー、二と言ったよな。じゃあ、そっちの98ページの二番目に出てくる漢字に丸を付けてくれ。僕は後ろを向いている」
そう言ってナカセは、俺や若に背中を向ける様に体を捻って後ろを向き、片方の手で自分の視線を遮った。
傷の男は言われた通り『潤滑』の98ページを開き、ボールペンで丸を付ける。そして、『潤滑』を閉じ、言った。
「終わった」
その声を聞いてナカセは振り返る。窓側の小さいテーブルに『フローレンス』を置きながら、身を乗り出した。栞は『フローレンス』に挟まったままだ。
「その後ろの方に余白ばっかりのページが幾つかあるから、そこを開いてくれ」
傷の男が『潤滑』の裏表紙から数ページ捲り、余白の多いページを見付けた。。裏表紙を捲る際に、カバーが外れたが、ちゃんと戻した。
「二択と言ったな。そこに二つの漢字を書いてくれ。一つはさっきあんたが丸を付けたもの、もう一つはテキトーなもの。どっちを先に書いてもいい。僕はあんたが書くところを見させてもらう」
傷の男はナカセを一瞥してから、ボールペンをノックした。先端のボールをそのページに押し付け、滑らせ、回転させる。インクが紙に付着し、線を構成する。
傷の男はナカセの監視をどこ吹く風と受け流し、淀みなく書いていった。
傷の男が再びボールペンをノックし、ナカセに返した。二つの漢字を書き終えたのだ。俺も気になり、身を乗り出した。書かれている漢字は、『滑』と『稽』。滑稽。傷の男は真っ直ぐ前を見据えている。
ナカセが前屈みになっているため、ナカセの座席の背もたれが顕になっている。その高さは、ナカセの後ろに座っている乗客の後頭部が見える程度だ。
傷の男はその乗客の金髪の後頭部をぼんやりと見詰めていた。二つに一つで千五百万を失うというのに、よく平然としていられるな。傷の男は静かに待っている。
ナカセは前屈を解除し、背もたれに思い切り寄り掛かった。だが視線は『滑』『稽』から外さない。長考に入る。
電車が停車した。目的地ではない。ただでさえ少ない乗客が、更に少なくなった。だが、それもこの駅までだ。次の駅で一気に人が乗ってくる。
発車のベルが鳴った。
プルルルルルル、プシュー。
ドアが閉まり、電車が発車する。
ナカセが姿勢を正し、解答の準備をした。傷の男も解答のときを察し、受け入れる準備をした。ナカセは、いいかな、と前置きしてから言った。
「僕の答えは『稽』だ」
俺はなぜかナカセが正解した様な気がした。その雰囲気を持っていたのだ。確信している。確信していなければ、この雰囲気は出せない。ナカセは自分の直感を完全に信用できているのだ。
ということは、『稽』が正解なのか。ナカセが全幅の信頼を寄せる『稽』が本当に正解なのか。傷の男は負けたのか。
そう思っていただけに、傷の男の発言が、意外に感じられた。
「残念。正解は『滑』だ」
え、『滑』・・・。
「今、金がねえんだろ。それなら、若に借用書を書きな」
ナカセの目が点になっていた。俺も一瞬どういうことか分からなくなってしまっていた。そして、若が言う。
「え、俺が立て替えるのか。俺も今は金持ってねえよ」
ナカセの確信度合いからして『稽』が正解の様なのに、傷の男が言うには、『滑』が正解らしい。どっちが正解なのだ。後に出た『滑』か。いや、あの、ん?どっちだ?
ナカセが我に返った。
「待て、そんな筈は。『稽』だ。稽古の稽。嘘を吐くんじゃねえ」
ナカセが、傷の男から『潤滑』を取り上げた。
「確かめれば分かる。98ページ」
『潤滑』を開く。その開いたページのは86ページ。一ページずつ捲っていく。
88。
90。
92。
94。
96。
そして、98ページに辿り着いた。
丸が付いている漢字は、傷の男の言う通りの『滑』だった。『滑』なのだ。ナカセは不正解で、傷の男の勝ち?そうではあるのだが、しかし、少し問題があった。
「何だあ、これは!あんた、意味分かってねえのかよ!」
ナカセは立ち上がって叫んだ。
丸がついている漢字は『滑』。そして、その一文字前は『潤』。『潤滑』。この手の小説は、全ページ本文の上に小さい文字でそのタイトルが書かれている。この小説の場合は『潤滑』である。
傷の男はその二文字も解釈に含めた。だから傷の男にとって98ページの二文字目は『滑』なのだ。