1-2.メーガin犬舎
では、リックとビル、セスとダン、えー、フリオとカル・・・、違う、ルイスか。まあ、どれでもいい様な気もするけどな、六ヶ月くらいずっと居る私ですらよく分からないのだから。兎に角、早く付け替えよう。バレるかもしれないから後でやろう後でやろうと考え過ぎて、結局前日になってしまった。もう今日しかない。誰も見ていない今のうちに終わらせなければ。
レース会場の直ぐ隣のこの犬舎、広い一室で鉄筋の柵で分けられた沢山の部屋があり、そこに犬が一頭ずつ暮らしている。私はリックが居る部屋に向かい、柵を開け、リックをビルの部屋の前まで連れて行った。そして、ビルの部屋の柵を開けてリックを中に入れ、リックとビルのネームタグを交換した。後はビルをリックの部屋に連れて行くだけだが、ここで問題発生。ビルが頑として動こうとしないのだ。
「ビル、行くぞ」
私はビルの首輪を引っ張った。だが、ビルは伏せたまま踏ん張って立とうとしない。困ったな。一つの部屋に二頭が居る状況を長く作りたくない。誰かに見られたら言い訳が面倒だからだ。仕方ないから私はビルを抱っこして運ぶことにした。
「行くよ」
地面にべったりと張り付いたビルの体の下に無理矢理手を差し込み、ガニ股でビルの上に跨って引っ張り上げた。腰にかなり負荷が掛かっている。重いな。少し持ち上げれたが、ここからは上がりそうもない。しかし、やるしかない。私は背中に力を込め、一気にビルを持ち上げた。
体をぷるぷる震わせ、今にもビルを落としてしまいそうながらも抱っこを維持している私は、予定通りビルをリックの部屋に連れて行こうとした。だが、ビルの部屋を出た瞬間、ビルが私の腕の中で暴れ出した。おい、落ち着け。
私が暴れる大型犬を抱っこし切れる訳がない。私は体勢を崩し、ビルは私の腕から脱出した。そして、それと同時に犬舎の外が騒がしくなり、誰かの声が聞こえた。
「あ、親父、どうなさったんですか」
モルヒロの声だ。
親父。親父だと。カタタが来たのか。聞いてねえぞ。不味い、タグ、このタイミングで。ビルを、駄目だ、またビルは床に張り付いてしまった。どうしよう。そうだ、リックだ。リックだけは言うことを聞くから・・・。
「リック、こっち来て。そう。伏せ」
「おい、メーガ、何やってんだ」
振り返るとそこにはモルヒロが居た。その後ろでカタタが犬達に視線を遣っている。モルヒロは鋭い目付きで私を睨んでいるが、私は平静を装って説明した。
「運動の帰りなんですけど、ビルが部屋に入ろうとしなくて」
「ああ?」
モルヒロは私に反発の意思表示をした。こいつはいつもこの様な感じだ。こいつは私のことを女だからという理由でずっと信用していないくそ野郎だ。毎回突っ掛かってくる。まあ、今回に限れば、モルヒロは間違っていないのだが。
ビルの方を見てみると、ビルは上目遣いでモルヒロを見詰めている。その様子はまるで私の嘘に協力している様に見えた。
「モルヒロ、ビルを部屋に入れろ」
カタタが静かに言った。くそ、カタタは厄介だ。早くこの犬舎から出て行ってくれ。
「はい。・・・えーっと」
「左がビルで右がリックだ」
「はい」
モルヒロはビルの体の下に手を入れ、ふっ、と短く息を吐くと、ビルを軽々と持ち上げた。私があれ程苦戦したビルを・・・。いいよな、男は。骨も太いし、筋肉も多いからな。
「犬達の様子は」
カタタは私の方を見ず、犬達の方を見ながら言った。
「いつも通りです。あ、でも、テギュンがあんまり走ろうとしなかったかな」
「体調が悪いのか」
「いや、そうは見えなかったんですけど」
「飯は食ってるか」
「はい、全部食べてます」
「そうか、しっかり様子を見てろ。リックを部屋に戻せ」
私は返事をしてリックを部屋に連れて行った。どうやらカタタから疑われずに済んだ様だ。
そのカタタは暫くビルを眺めていたが、直ぐにネイサンの許へ向った。当然だ、カタタはCクラスのビルよりAクラスのネイサンの方に関心があるのだから。ビルをまじまじと見続ける訳がない。
モルヒロがビルの部屋から出て来てカタタの許へ向かった。私もリックを部屋に入れた後、カタタの許へ行く。カタタはネイサンの部屋に入り、ネイサンと戯れていた。
私はなぜか少し緊張した。幾らネイサンに近付かれても別に構わないのだが、もしこれから全ての犬に近付いて調べられ、明日も同じ様に調べられたら、私達の計画は頓挫する。特に私は中ゼミサイドに居なければならない立ち回りだから、下手すると・・・。
「何のトラブルも起こすな。モルヒロもしっかり見張ってろ」
ネイサンを遠ざけてから立ったカタタが部屋から出て来た。そのまま犬舎を出ようとする。私は肩の荷が下りる思いだった。やっと出て行ってくれる。
はあ、突然やって来やがって。ヒヤヒヤさせるな、ボケが。カタタは犬への愛情が他の中ゼミの連中とは段違いだから簡単には騙せない。
あとは誰も居なくなった犬舎で仕事を終わらすだけ、と安心していたらリックがカタタに向かって吠えた、まるでカタタを呼ぶ様に。それに反応し、カタタの足が止まる。リックに近寄るカタタ、両者は柵越しにじーっと見詰め合っている。
「・・・メーガ、あれは何だ」
カタタがリックを指差した。そして、私の方を向く。な、何を言い出すつもりだ。
「あのタグは何だ」
私は冷や汗を掻いた。タグだと。タグに問題があるのか。
何もしないとそれはそれで怪しまれるので、私はリックのタグを確認しに行った。カタタに近付けば近付く程カタタの醸すオーラで喉が詰まりそうになる。リックの部屋に辿り着き、リックの首許を見てみると、カタタが何を言いたいのか理解した。大したことではなくてよかった。
「タグが裏返ってんじゃねえか」
「あ、すいません」
「直せ」
私は部屋に入り、リックのタグを一度外してからひっくり返して首輪に戻した。そこにはアルファベットでRICKと書かれている。
「何で裏返っている」
「あの、そのですね、さっき、運動終わりに、リックが突然走り出して、咄嗟に首輪を掴んだら外れたんです」
カタタは部屋から出た私に凄んだ。
「タグを正しく付けることもできないのか。犬のことは細かくチェックしろと何度も伝えた筈だ」
「すいません」
「二度とこんなことがない様にしろ」
カタタは見送りをしようとするモルヒロを断ると、モルヒロに警戒を怠らないこと、特にネイサンに注意することを伝え、大股で犬舎を出た。カタタは気が立っている様だ。無理もない、明日の大勝負のことを考えたら誰だってピリピリする。
それにしても、私も無意識に焦っていた様だ。タグを裏返しで付けてしまうとはな。カタタが犬舎に入って来た瞬間、大慌てでリックとビルのタグを元に戻したのだが、まあ、タグが入れ替わった状態よりは裏返しの状態の方が余程マシだ。
「おい、どういうことなんだ」
今度はモルヒロが私に凄んで来た。何なんだよ。本当に絡んで来るな、こいつ。
「・・・何がですか」
「タグだよ」
「さっきカタタさんに説明したじゃないですか」
「本当か、あれ」
くそ、こいつ、私のことをとことん疑っている。タグも怪しんでいるのか。面倒臭えな。
「本当ですよ」
「タグを裏返して気が付かねえのか、お前は」
「あのときは本当に気付きませんでした。もしかしたら手許を見ないで付けたのかもしれませんね」
「もしかしたらって、自分のことだろうが」
「んなこと言ったって覚えてないんだから仕様がないでしょ」
「何だ、その態度は。そういうのが気に食わねえんだ」
「元々こういう人間なんです。すいませんでした」
「てめえ、謝る気ねえだろ」
軽ギレしたモルヒロが拳で私の額を押す様に叩いた。こいつ、私に、許せねえ。私は頭に血が上って反射的に近くにあったスコップを手に取ったが、何とか踏ん張ってやり返さなかった。でも、それは明日のためであってモルヒロをぶっ殺してやりたい気持ちに変わりはない。
「痛えな。カタタさんに言うからな」
「親父がお前の話なんか聞く訳ねえだろ」
「聞くわ。クビになれ」
「静かにしろ。犬達が興奮するだろ」
モルヒロは落ち着いた風を装って私に注意した。私だけが馬鹿みたいにヒートアップしてる感を演出しているのだ。くそ、こいつ、気に入らねえ。
「やることあんだろ。作業に戻れ」
「言われなくたってやりますよ」
私は吐き捨てる様に言ってモルヒロの許を去った。私は犬に関する雑用、トイレやシャンプーやら食事やら躾やら何やら全部をやって、モルヒロはただ見るだけ。ただ、見るだけ、何もせず。見張りという超楽な仕事を無気力で消化するだけだ。こいつは明日の勝負の予定が立ってからここに来る様になったのだが、何もせずに居られると腹が立つ。何見てんだよ、見んじゃねえよと言いたくなるのだ。
モルヒロは犬舎の外を確認しに行った。モルヒロはよく外に行く。もちろん、外の様子を見ることもあいつの仕事なのだが、それよりも私と同じ空間に居たくないのだろう。まあ、私もそうなる様に敢えてモルヒロと対立しているところがあるのだが。
よし、もうカタタがここに来ることはない筈だ。犬を入れ替えるとしよう。
(終)