さようなら、彼女
私は昔、一度だけ、たった一度だけ、人を――自分の一番近くにいた人を殺めたことがある。けれど、逮捕されたことも刑務所に入ったこともない。
彼女が死んで丁度、十年。まだ一度も墓参りにはいった事もない。
彼女はずっと私のそばをくっついていた。出会いはいつだったか忘れてしまったけれど、気づいた時には既に私と仲良しだった。
彼女が死んだ時、私は泣いた。殺したのは私なのに泣いた。
彼女が狂い始めたのは、私が彼女を殺める一年ほど前から。
いつも笑顔で、何処へ行くにも私とだった彼女は、ある時からおかしな事を言うようになった。
ある時は「怖い」と。またある時は「嫌だ、助けて」と。
私が落ち着かせようとしても彼女は同じ言葉を繰り返す。
そんな言葉を言うようになって、数ヶ月後。彼女に、更なる変化が訪れる。
突然、その場に座り込む。両手で耳を掴むように塞ぐ。それから、頭を左右に何度も激しく振る。頭を降る前、微かに開いた唇から「やめて」「ごめんなさい」と言葉を漏らしていた。
大粒の涙を小さな目から溢れさせて、泣いていた。
その姿を初めて見た時は、目の前にいる彼女が消えてしまうのではないかと思った。そのくらい脆く見えた。
またしても、私はそばにいる事しかできなかった。
それからまた一ヶ月程たち、今度は「死にたい」と言うようになった。まだ幼いのに、そんな言葉を覚えてしまったんだね、と内心思った。
前に比べて泣く回数は減った。
それから数週間、時折、彼女の目に光が無くなる。
彼女は泣きながら「死にたい」と言い、その後に「あいつらが憎い、死んでしまえばいい」と言うようになった。
彼女が「死んでしまえばいい」と初めて使ったのをその時聞いた。
好奇心旺盛な彼女はどこに行ってしまったんだろう。
やはり私は、彼女のそばにいる事しか出来ずにいた。
確かあれは、夏休み明けだったと思う。彼女の目が死んだ。私と二人きりの時は生きていたけど、それ以外は死んでいた。世界は灰色に見えていただろう。
昼間は目が死んでいて、夜寝る前は毎日、幻覚と幻聴に泣き、無理やり眠りについていたらしい。
もう、ここまで来ると、毎日楽しそうに過ごしていたあの頃の彼女の面影は何一つ残っていない。
狂っていく彼女を毎日見ることは心臓をゆっくり握りつぶされるようだった。
「あそこ行こうよ」「これ食べたい」
笑顔でそう言っていた彼女を最後に見たのはいつだろう。そんな事も、当時の私でさえ思い出せなくなっていた。
どのくらい経ったか。彼女の感情はずっと泥の中。それでも彼女は、人前では必死に人間を演じていた。私の前では充電の切れた玩具のように無だった。
何も言わなくなっても、私は彼女の隣にいた。
ある日、彼女は私にこう言った。
「わたしを殺して」
ああ、遂に来たか。
彼女の要望に私は応えなかった。彼女を死なせたくないから。
その言葉を最後に、彼女は私と口を利かなくなった。
彼女の声をきかなくなった。
彼女が話すところを見なくなった。
彼女の影が薄くなった。
時々、彼女がどこにいるか分からなくなった。
時間が経てば経つほど、彼女を認識できなくなっていった。
いくら呼びかけても返事がない。
そこにいるはずなのに、いない。
私は一人になった。
いじめが原因とはいえ、私のせいだ。
ごめんね、彼女。ずっと君の声を無視して、ただ傍にいただけだったもんね。
ごめんね、君の声をちゃんと拾っていたら、君はまだ生きていたのに。
ごめんね、何もしてやれなくて。
ごめんね、私の自分勝手で。
君がいなくなるなんて思わなかったんだ。君が死んでしまったなんて、信じたくなかったけど、事実だもんね。
ごめんね、彼女。いいえ、心の私。
私がいなくなった私の心は、物凄く静かで、不気味だったよ。私が私に「どうしたい?」って問いかけても、何も聞こえないんだ。
そんなことになるなんて思わなかったんだよ。
ごめんね、私。守ってやれなくてごめんね。
プライドとか世間体とかどうでもいいから、私自身を私が守らないといけなかったのにね。犠牲にしてしまった。
もう戻ってこない私。
私が死んで、それに気付いてから、私は自分の声をちゃんと聞こうって決めたんだよ。
もう死んだ私はいないけれど、私は別の私として今を生きているよ。
ごめんね、私。
さようなら、彼女。