心優しきピアニスト「夏詩の旅人新章4」
2009年 10月
東京都立川市、某結婚披露宴会場
「それではここで、新婦のお父様である志賀連太郎様より、新婦のユカ様へお祝いメッセージがございます。志賀様…、お願いします」
披露宴の司会者が言う。
拍手で迎えられた新婦の父が、会場席からゆっくりと立ち上がる。
志賀は周りの来賓客たちへ一礼すると、のそのそと、マイクスタンドがあるステージの方へと向かって歩き出した。
その父を、怪訝そうな表情で見つめる新婦のユカ。
父親はステージではなく、その隣にあったピアノの前へと座り出したからだ。
志賀は、よれよれの楽譜を譜面台にセットすると、ピアノの上に何か額縁の様な物も、一緒に静かに置いた。
「お義父さんピアノ弾けるんだ?」
新郎が隣に座るユカに言った。
ユカは、(そんなの知らないわ)とい感じで、「ううん…」と、無言で顔を左右に振る。
不安な表情で、新郎新婦席から父親を見つめるユカ。
そして志賀がゆっくりとピアノを弾き出した。
えっ…!?
ユカは驚いた。
父が弾き出したのは、ショパンの夜想曲第2番「ノクターン」であったからだ。
不器用な手つきで、懸命にノクターンを弾く志賀。
ユカが、その曲に驚いたのには理由があった。
その曲は、ユカが幼い頃、まだ生前だった母が、彼女に教えていた曲であったからだ。
木漏れ日が差し込む部屋。
優しい笑顔で、ユカにピアノを教える母の姿が甦る。
二人がピアノに向かって練習しているすぐ後ろでは、ソファに腰かけて新聞を読んでいる父がいた。
あの頃は、まだ家族3人が揃っていた。
何でもない、ありきたりの休日の午後だった。
だが今ではかけがえのない、本当に幸せな日々であった。
そう、母が交通事故に巻き込まれて亡くなるまでは…。
やめて…、やめてよ…。
何で今更、その曲を弾くのよッ…!?
ユカは、父がピアノを弾く姿を見つめながらそう思い、恨めしそうに涙を浮かべる。
ユカが中学生の頃、母を亡くなくしてからの父は、茫然自失となってしまった。
何もかもが手につかない、無気力な父親に志賀は変わってしまったのだった。
家の中は散らかり放題となり、母と一緒に練習した家のピアノの上は、乱雑に荷物が置かれていた。
ユカも母が亡くなって以来は、ピアノの前に向かう事もなかったのである。
それからの父は仕事も辞めてしまい、収入が途切れてしまったユカの家では、やがて借金取りが現れる日が続くようになった。
そんな、いつまでもグダグダとして過ごしていた父に、愛想をつかしたユカは、高校卒業と同時に家を出て行く事となる。
ユカが荷物をまとめて出て行く日。
父は何も言わず、ただ黙って居間のソファに腰を掛けていた。
(お父さん…、何で…、何で何も言わないのよッ!?)
ユカはそう思いながら振り返り、何も言わず奥の部屋にいた父を、玄関から恨めしそうに睨んでいた。
以来、親子との関係は疎縁となった。
久しぶりに父と会ったのは、この度、ユカが結婚するに辺り、相手男性がユカの父に挨拶したいと言う申し入れがあったからだ。
そういう事でもなければ、ユカは今も父と会う事はなかったであろう。
それくらい、父娘の関係は冷え切ってしまっていたのであった。
ユカは、父のピアノ演奏を聴きながら、そんな事を思い出して涙した。
ステージの父は、懸命にノクターンを弾き続ける。
不器用だった父が、ノクターンを弾くのには相当努力したに違いないと気づくユカ。
父は昔から無口であった。
もしかしたら父は…、口下手な父は…、ノクターンを通して、私にメッセージを送っているのではないのか?とユカは気づき出す。
そして父の方も、あの頃の…、あの幸せだった、あの日々を取り戻そうと、懸命にピアノを弾いた。
お前と母さんと一緒に過ごした日々は、本当に幸せだったよ…。
父さんは、今も母さんの事を忘れてないよ。
そして父さんと母さんの子供であるお前の事だって、忘れた日なんてなかったんだよ。
ごめんな…。
父さん、お前にこんなことしかやってあげられなくて…。
ユカ…。
おめでとう…。
幸せになるんだぞ…。
ピアノを通しての、父からのメッセージが伝わって来たユカ。
うう…、うう…。
新郎新婦席に座る彼女は、その場で嗚咽するのであった。
父が向かうピアノの上に置かれたあの額縁は、若くして亡くなった、笑顔の母が写るポートレイトであった。
半年前の2009年4月
東京府中刑務所
ギィ…。
刑務所正面の鉄扉が静かに開く。
「もう2度と、こんなところに来るんじゃないぞ…」
刑務所前で、看守が静かに言う。
「へい…、お世話になりやした…」
小さなボストンバッグを手にしたハリーが、看守に頭を下げながら言った。
刑務所を出てトボトボと歩くハリー。
すると彼の後ろから「ハリーさん!」と呼ぶ声が…。
「えっ!?、中出さんッ?」
振り返ったハリーが、声の主に言う。
「お勤めご苦労様でした…」
そう言うと中出氏は、中指でメガネのフレームをぐいっと上げた。
北府中駅前、喫茶店「虎白」
ハリーと中出氏は、その喫茶店で向かい合って座っていた。
「いやぁ~ホント参りましたよ…。なんで私だけ逮捕されちゃったのか、未だに納得いきませんよ!」とハリーが言う。
「そりゃあ、あんだけの逃亡劇を起こして、山梨県警のメンツを丸潰れにしたんですから仕方ないでしょう…」
中田氏がそう言った、“あれだけの逃亡劇”とは、1年半前に、ハリーが運転するバスで、郵便局強盗の共犯者と逃亡した事件の事だ。
あの時、生まれて間もない、共犯者の赤ん坊がいる病院まで、彼とその赤ん坊を会わせる為に、警察の追っ手をことごとく蹴散らした、あの事件の事である。
「それにしても、交通違反で1年半なんて、酷すぎゃあしやせんか!?」
ハリーはそう言うと、コーヒーを口に運んだ。
「仕方ありません…。昨今は、あおり運転を含んだ危険運転事故が、問題視されていますからね…」
澄まし笑顔の中出氏が言う。
「でも…、そんな中でも、中出さんからの差し入れは、獄中生活の私にとって、ホント心の支えになりましたよぉッ!、あの菊池エリのDVDッ!」
「観れましたか?」と、笑顔でハリーに聞く中出氏。
「無理ですよAVなんだから…、全部没収されましたよ。きっと看守の野郎たちが、夜勤のヒマな時にでも観てたのに違いありやぁせんッ!」
ハリーが苦笑いでそう言うと、互いに2人は「ははははは…」と一緒に笑うのであった。
「で…、どうしたんです?今日は…?」
自分の出所時間に合わせて会いに来た中出氏に、何か自分に会う用件があるのだろうと思ったハリーが言った。
「ハリーさんは確か、ピアノをやってたんですよね…?」
中出氏は、確認するようにそう言うと、1枚のチラシをハリーの前に置いた。
そのチラシには、「ヤマホ音楽教室 ピアノ講師急募!」と大きく書かれていた。
「これは…?」
ハリーが中出氏に聞く。
「私の高校時代のバンド仲間が、今度音楽教室を始めたんですよ…。それで今、ピアノ講師が足りなくて困っています…」と中出氏。
「あなたが学生時代にバンドをッ!?」
「はい…、ギター担当で、エックス・ジャポンをカバーしておりました」※マジです
「意外ですなぁ…」
「あの頃は、この髪を逆立てて赤く染めていました…」※マジです
自分の髪を指差しながら中出氏が言う。
「へぇ~…」(ハリー)
ハリーは中出氏の、その姿をちょっと想像してみる。
「中出さん、ちなみにバンド名は…?」
「“8の字無限大!”です!」
そう言った中出氏は、中指でメガネを押し上げる。
(こッ…!、この人も、“リードコミック誌”を、隔月曜に買ってたんだぁ…!?、レイポマン読んでたんだぁ…!!)
ハリーは中出氏に対して、妙な親近感を覚えるのであった。
「ところで、さっきのヤマホ音楽教室の話に戻りますが…、あなたも私と一緒にヤマホで講師を始めるという事なんですか?」
ハリーは先ほどの、話題に戻って中出氏に聞いた。
「いや…、私は今、別のビジネスを既に始めておりまして参加出来ません。だからあなたにお願いしたのです…」
「別のビジネス…?」
「これです…」
そう言うと、中出氏は懐から1枚の名刺をハリーに差し出した。
その名刺には「黒目エンペラー 3代目総長 中出ヨシノブ」と書かれていた。
「えッ!、中出さん、暴走族になったんですかいッ!?」
名刺を手にしたハリーが驚いて言う。
「違います…。それはブラッド・エンペラーですよハリーさん。私のは、“黒目エンペラー”です」と中出氏。
「何ですかそりゃあ…?」
「ラブホです!…、私はラブホ経営の、総合プロデューサー長を任されているのです」
「総合プロデューサー長…、略して総長というワケですかぁ?」とハリー。
「そうです」
そう言うと中出氏は、中指でメガネのフレームをクイッと上げた。
「ああッ!、黒目エンペラーって思い出したッ!」
ちょっと間を置いてから、ハリーが突然言い出した。
「あの、新青梅街道沿いに最近、お城みたいな怪しいラブホがバンバン建ってますけど、あれですね!?」
「そうです…」
ハリーのその言葉に、含み笑いを浮かべた中出氏が言った。
「あれ、あの名前って、目黒エンペラーのパクリですよね?」
ハリーが聞く。
「違います…。あの辺りでは黒目川という清流が流れているのです。それで黒目エンペラーと名付けました」と中出氏。
(じゃあ、“エンペラー”の方は何なんだッ?)
絶対ウソだ!と思ったが、ハリーはそこまで中出氏には突っ込まないでおく事にした。
「どうですか?、ハリーさん、仕事探してるんでしょう?」と中出氏。
「まぁ…、そうですけど…」
「健全なピアノ講師ですよ…。僕の知り合いだから怪しい事はありませんよ…」
「いや…、それが1番怪しいんですよッ!」
ハリーがそう言うと、2人はまた互いに「ははははは…」と笑い出すのであった。
ヤマホ音楽教室 立川校
「ここかぁ…」
応募チラシを手にしたハリーが、雑居ビルの前に立って言う。
結局ハリーは、中出氏の誘いに乗ったのであった。
「じゃあイマイさん、早速ですが明日からお願いします」
中出氏の、高校時代の友人だった男性経営者がハリーに言う。
ハリーは音楽教室の面接を終え、無事採用される事となった。
「こちらこそ、宜しくお願いしやす」
ハリーはそう言って男性経営者に頭を下げると、音楽教室を後にした。
「なんだ、思ったほどマトモなとこじゃないか…」
最寄りの立川駅に向かって歩きながらハリーが言う。
考えてみたら中出氏は、あれでも名門の鷲田実業高校に通っていたそうだから、きっと生徒の中で変態だったのは、中出氏だけだったのかも知れないなと、ハリーは安心するのであった。
翌日ハリーは、1人の生徒を任される事になった。
志賀連太郎という、50代前半くらいの男性であった。
志賀は見るからに覇気がない、小柄で痩せた男であった。
小柄とは言っても、ハリーと同じくらいの身長165cmくらいはあったかと思えた。
だがハリーは筋肉質の体系であったので、ハリーには志賀が、妙に小さな男に見えたのであった。
「先生…、私、実はこの曲が弾けるようになりたいんです…」
志賀が、手にした楽譜をハリーに渡しながら静かに言った。
「ショパンのノクターンでやすか…?」
楽譜を眺めながらハリーが言う。
「これを…、これを半年間で弾けるようにお願いします」
続けて志賀が、今度はすがる様にハリーに言いだした。
「えっ?、半年で…?」
「そうです!お願いします!」
「分かりやした…。ところで志賀さん、ピアノのご経験は…?」
「まったくありません!」
「では、何か楽器の演奏経験とかは…?」
「そういうのもありません。私は不器用なもので…」
志賀の言葉にハリーは、「ふむ~…」と考え込んでしまった。
「志賀さん、確かにノクターンは、初心者が練習するのには良い曲だと思います。ですが、イキナリ、まったくの素人であるあなたが…、まして半年でマスターするなんて…」
ハリーが正面に座る志賀に言う。
「お願いしますッ!」
頭を下げる志賀。
「もっと簡単な曲から始めてみたらどうでやすか?」
「その曲でなきゃダメなんですッ!」
「わっ…、分かりやした…。できる限りの事はやってみやしょう…」
「ありがとうございますッ!」
ハリーは、志賀の余りの迫力に圧倒され、つい承諾をしてしまうのであった。
こうしてハリーと志賀のレッスンは始まった。
志賀はとても熱心で、音楽スクールに毎日毎日通い続け、ハリーの指導を受けた。
ところが志賀は、本人が言う様に本当に不器用で、普通の人が1日でマスターできる事を、1週間も掛ってしまっていた。
このペースでは、とても半年後になんか間に合うはずがないと思ったハリーは、志賀へ半年後にこだわる理由を聞いてみる事にした。
「志賀さん!」
今日のレッスンが終わり、家路に向かって歩いている志賀へ、ハリーが後ろから駆け寄って行った。
「イマイ先生…?」
振り返った志賀が言う。
「ちょっと、そこの喫茶店にでも入りやせんか?」
「え?」
ハリーの誘いに驚く志賀。
「ちょっと、お話したい事があるんでげすよ…」
「分かりました…」
志賀がそう言うと、2人は近くの喫茶店「マイアミン」へと、入って行った。
「へいッ!、らっしゃぁいッ!」
パンチパーマで蝶ネクタイの若いウェイターが、2人の座る席のテーブルに、お冷をドンッと置いた。
「なんですか、この喫茶店は…!?」
志賀がオドオドしながらハリーに聞く。
「ここの店員は、みんなパンチパーマで、ドリンクの値段も高いから、いつでもガラガラです!」
「ここなら心置きなく、誰にも聞かれずに話せると思いやしてね…」
そう言うとハリーは、ガハハハハ…と、笑い出した。
「志賀さん…どうしてノクターンじゃなきゃダメなんでげすか?、どうして半年でマスターしなきゃダメなんでげすか…?」
ハリーが正面に座る志賀へ、静かに聞いた。
「……。」
「志賀さん…、話して下さいよ…」
「実は…」
そう言うと志賀は、ハリーへその経緯を話し出すのであった。
「なるほど…。そういうワケだったんでげすか…」
ハリーが静かな口調で言う。
ハリーは志賀から、妻の死、それで無気力になってしまった事が原因での借金、そして娘と疎遠になってしまった経緯を聞いた。
「志賀さん、元気出して下さいよ!」
「実は今日、志賀さんにお渡ししたい物があるんでやす…」
そう言うとハリーは、持っていた紙袋を志賀に差し出した。
「これは…?」
「志賀さん、映画好きだって言ってたじゃないでげすか?」
「実は私も映画が趣味でやてね…。これは私の大切なコレクションの1つなんでげすが、よろしければ差し上げますんで、どうぞ受け取って下さい」
笑顔でハリーが言う。
「いやッ…、そんな大事な物受け取れませんよ…」
志賀が恐縮して言う。
「遠慮なさらずに…」
「いえ…、ホント結構です。そのお気持ちだけで充分です」
「そうですかぁ…」
ハリーは、渋々と紙袋を引っ込める。
「あっ!、そうだ志賀さん。ノクターンの練習を、ヤマホ以外にもやりやぁしょうよ!」
ハリーが突然、思い出す様に言った。
「えっ!?」
志賀が言う。
「志賀さんの自宅にあるピアノでやるんでげすよ!」
「でも…、もうそんなお金は…」
「お金なんか要りやせんよ」
「でも、それじゃあ余りにも…」
「でも、このままじゃ、娘さんの結婚式までに間に合いやせんよ!」
「……。」
「だったらこうしましょう!、娘さんの結婚式が済んだら、浅田ちちの最新作のDVDを私に買って下さい。それで構いやせんから…」
「誰の父ですって…?」
「浅田ちちです!」
「分かりました。浅田父さんとやらのDVDを買えば良いんですね?、それくらいなら私でもなんとか…」
「じゃあ!交渉成立でげすね!?」
「はあ…」
志賀が承諾すると、ハリーはいつもの様に明るく、ガハハハハ…と明るく笑い出すのだった。
「あれぇ~…?、志賀さんじゃないですかぁ~?」
すると店内の、他の席にいたガラの悪そうな4人組が、2人の側までやって来た。
「あ!」
その連中を見た志賀が気まずそうに言う。
「あれあれ…?、家に行ってみても居ないと思ったら…、こんな…、我々がいつも来てるような喫茶店で、まさかお会いできるとは思いませんでしたよ…」
4人組の中の1人が笑いながら言った。
その男は痩せ型で、パンチパーマにグラサンをかけていた。
どうやら4人組のリーダー格らしかった。
「誰でやすか志賀さん?、この連中は…?」
ハリーが志賀に聞く。
「我々は、このお方にお金を融資している、“町野サラリーローン社”の者ですよぉ!」
パンチのリーダーは、顎をしゃくりながら、ハリーへそう言いだした。
「すいません…。明日には、お金はご用意できますので…」
志賀うつむきながら、パンチパーマに恐縮して言う。
「ホントですかぁ~?」
パンチが志賀に確認する。
「はい!、間違いなく…」と志賀。
「志賀さん…、ホントに大丈夫なんですか?」
ハリーが志賀に、心配そうに聞く。
「ええ…、今日はたまたま銀行へ行く時間がなくて…。だから大丈夫です」
志賀が言う。
「志賀さぁ~ん…、いいかげんにしてくださいよ!、この前、追加融資受けてから、遅れるの3回目じゃないですかぁ…?」
「でも、遅れたのはたった2日じゃないですか!?、それ以外は、いつもきっちり返済しているはずです!」
「たとえ2日でも困るんですよねぇ…、1日でも遅れれば、我々はいつでも、あなたのとこまで取り立てに伺いますよぉッ!」
「まぁまぁ…、あんた達も…、志賀さんが明日には返せるって言ってるんでやすから、今日のところは、お引き取り願えやせんかね?」
2人のやり取りを聞いていたハリーが、割って入った。
「なんだぁオメ~は!?、こっちだって返済が遅れたら、それなりに利子ってもんがあるんだぜぇ!」
パンチがハリーに凄んで言う。
「分かりました…。今日はこれで勘弁して貰えやせんかねぇ…?」
ハリーはそう言うと、さっき志賀に渡そうとしていた紙袋を、サラ金パンチパーマに渡した。
「お!、なんだオメェ気が利くなぁ…」
紙袋を受け取ったパンチがニヤニヤしながら言う。
「ハリーさんッ!、それはハリーさんの大切な…」
志賀がそう言いかけると、ハリーは、「いいんです。いいんです…」と志賀を制止した。
「あッ!?、なんだこりゃぁッ?」
紙袋の中身を見たパンチが言う。
パンチが覗いた中身には、「日活ロマンポルノ 白川和子 団地妻シリーズ」という、昭和の古いポルノビデオが入っていた。
「お前ッ!、今どきこんな古いの観て、誰がコーフンすんだよッ!?」
パンチがハリーに怒鳴る。
「名作は、いつの時代も永遠の名作でやす…」
ハリーが静かに言う。
「しかもお前これッ!、ビデオじゃねぇ~かッ?、どうやって観んだよこれッ!」
「ビデオデッキがなけりゃ、“カメラのオカムラ”で、DVDに焼くサービスをやってやすよ…」
ハリーが澄まし顔で、パンチにそう応える。
「それじゃ利子より足が出るだろがッ!」とパンチ。
「アニキッ!、このビデオはベータですよッ!」
パンチの子分が後ろから言う。
「何だ?、ベータって…?」
子分に振り返って聞くパンチ。
「ほら…、このビデオって、ちょっと小さいでしょう…?」
「ああ…」
「俺たちがよく知ってるビデオテープはVHSってやつで、これよりも大きいサイズなんです」
「このベータってのは、非常に珍しいタイプだから、オカムラに持って行っても、DVDに焼いてくれませんぜ…」
「それじゃ、まるっきりゴミってワケかぁッ!?」
ややキレて言うパンチ。
「そういう事です…。俺、ベータって生まれて初めて見ましたよ…」
子分が感心しながら言う。
「オイッ!テメェ!、ナメてんのかッ?、なんでベータなんか渡すんだよぉッ!?」
ハリーに詰め寄るパンチ。
「ベータはコンパクトだから、青少年が親の目を盗んで保管するのに便利なんでやすよ…」とハリー。
「なるほど…!」
感心するパンチ。
「アニキ!、感心してる場合じゃないですよ!」
子分が耳打ちする。
ハッと我に返るパンチパーマ。
「てッ…、てめえッ!、せめて人様に差し上げるものなら、こんな昭和初期みてぇなんじゃなくて、もう少し新しいものを差し上げるのってのが、誠意ってもんじゃねぇ~のかッ!?」
「残念ながら、浅田ちちの最新作は、まだあなた達には渡せやせんね…」
「あ?、誰の父だってぇッ!?」とパンチ。
「浅田ちちです…」
澄まし顔で言うハリー。
「アニキ!、アニキ!、もしかしたらこれ…、日活ロマンポルノのベータビデオなんて、相当なマニアが手にしてたシロモンだと思いますぜ…」
「これをメリカリとかに出してみたら、結構、良い買い手がつくかもしれませんぜ…」
パンチの子分が耳打ちする。
「そ…、そうか?」
それもアリかなと思ったパンチ。
「分かった!、じゃあ今日のところはこれで勘弁しておいてやるッ!、いいな!明日は必ず返済するんだぞッ!」
パンチは志賀を指差しながらそう言うと、その場から去って行った。
「良かったでやすね?志賀さん!」
笑顔のハリーが、目の前に座る志賀に言う。
「ありがとうございます…」
ペコペコ頭を下げながら志賀が言う。
「それにしても、たった1日遅れただけでも取り立てに来るんでげすかぁ…?」
ハリーの問いかけに、「ええ…」と頷く志賀。
「次は遅れない様に、気を付けないとダメですね?」
「はい!」
「じゃあさっきの話の続きですが、今後はノクターンの練習を志賀さんの家でもやりましょう!」
「私には、まだ受け持つ生徒が志賀さんしかいやせんから、いつでも時間は合わせられますんで!」
そう笑顔で言うハリーに、「すいません…」と言って、志賀は感謝するのであった。
それから志賀はノクターンをマスターする為に、懸命に努力した。
ハリーも、週末には志賀の家で寝泊まりする程、志賀のレッスンに付き合うのであった。
娘の結婚式までの月日はあっという間であった。
志賀はあの喫茶店の一件以来、サラ金を滞納した事は一度もなく、確実に返済して行った。
そしてついに、志賀の娘の結婚式前日となった。
「どうしたんでやす志賀さん…?、浮かない顔して…」
レッスンで志賀の家に来ているハリーが、ピアノに向かう志賀の様子が変だと思って、聞いてみたのであった。
「実は…、今月の返済が今日までだったんですが、まだ返していないんです…」
志賀が言う。
「今夜、あの借金取りが現れるかも知れないと…?」
ハリーがそう言うと、志賀は無言でコクリと頷いた。
「明日は結婚式だから…、やはり思ったよりも予定外の出費が重なってしまって…」
志賀が不安げに言った。
「やつらが来たら、また待ってもらいやしょう!」
「でも、今回はお金が用意できるのに1週間は掛かります…。果たしてそれまで待ってくれるかどうか…?」
「何ですか1週間ぐらい!、そんなの優良返済者の方でげすよ…!、全然ブラックリストにならないと思いやすよ!」
「でも…、やつらは1日でも遅れたら、あの調子なんです…」
ビクビクしながら志賀が言う。
「ふむ~…。まぁ悩んでもしょうがない!、今は、明日の結婚式の事だけ考えて練習しやしょう!」とハリー。
「は…、はぁ…」
志賀はそう言うと、おずおずと練習を始めた。
だが幸いな事に、その夜、借金取りが現れる事はなかったのであった。
2009年 10月某日
志賀の娘の結婚式当日となった。
東京都立川市、某結婚披露宴会場が行われるホテル前。
「じゃあ志賀さん、今日までやって来た事を信じて、頑張って来て下さい!」
ホテル裏側の駐車場近くから、会場に向かう志賀へそう言うハリー。
「はっ…、はいッ!」
志賀が緊張した面持ちで言った。
ホテルのエントランスへ入って行く志賀。
それを見守るハリー。
「志賀さん、あんなに緊張してて、大丈夫でげすかなぁ…?」
そう言ったハリーが帰ろうと踵を返した。
すると目の前から、町野サラリーローン社の4人組が、こちらに向かって歩いて来る姿が見えるのだった。
「あ!、お前は!?」
近くまで歩いて来た4人組の1人が、ハリーを見つけて言った。
「何でやすか、あなた達は…?」
4人組を睨んでハリーが静かに言う。
「約束の日に返済が無かったんでね…。取り立てに来た…」
リーダー格のパンチパーマが、不敵な笑みを浮かべてハリーに言う。
「今日はお引き取り下さい…。今日は志賀さんの娘さんの、結婚式じゃありやせんか…」
静かな口調でハリーが、パンチパーマに言う。
「そいつぁダメだ…。しょうがないだろ?、やつが約束を破っちまったんだからよ…」
パンチが鋭い眼光で、ハリーを睨みながら言う。
「今日は父と娘の、一世一代の晴れの日なんでやす…」とハリー。
「ダメだ…」
「お願いしやす…」
「ダメだって、言ってんだろぉッ!」
「これだけお願いしても、ダメでやすか…?」
「テメェッ!、何回同じ事いわせんだッ!」
「分かりやした…。では、どうしても行くと言うのであれば、ここであっしを倒してから先に行って下せぇ…」
「は…!?、バカかオメェは?、そんな事言ったら、はい、そーですか!って、俺たちが引き下がるとでも思ってんのかッ!?」
そう言ったパンチを、無言で睨みつけるハリー。
「いくぞ!お前ら!」
パンチが子分たちにそう言うと、前に進み出た。
4人組の前を塞ぐハリー。
「どけ!」
子分の1人がハリーに言う。
「どけコラァッ!」
そう言った相手が、ハリーの胸倉を掴もうとした。
次の瞬間、ハリーが払い腰で、その男を投げ飛ばした。
「チョリソォオオッ!」
ズダンッ!
地面に叩きつけられる子分。
「痛てぇぇぇ……」
腰を押さえながらうずくまる、投げられた男が言った。
「この野郎~~ッ!」
他の子分もハリーに飛び掛かる!
「チョリソォオオッ!」
ズダンッ!
2人目もハリーの柔道技で地面に叩きつけられた。
「気をつけろッ!、こいつなかなか強いぞッ!」
パンチが下がりながら、残り1人の子分に言う。
「さぁ…、お引き取り下さい…」
ハリーがパンチに静かに言う。
「くそう…」
ハリーに凄まれて、前に出られないパンチパーマ。
「テメェーーッ!」
その時、最初に投げられた男が、ハリーを後ろから蹴り上げた。
「あッ…!」
油断したハリーが、蹴られた拍子に前に倒れる。
「今だッ!、やっちめぇ~~~ッ!」
パンチがそう号令を掛けると、4人組は倒れているハリーの顔や脇腹、背中などをボコボコに蹴り飛ばす。
わ~~~~~~~~~ッ!
めちゃくちゃに蹴られ続けるハリー。
ハリーは、しばらく蹴られ続けていると、動かなくなってしまった。
「よ~し!、この辺にしといてやれ…。オイ!、行くぞみんなぁッ!」
パンチは仲間たちにそう言うと、ホテルのエントランスの方へ歩き出そうとした。
「待ちんさい…」
「ん?」
後ろから聞こえたハリーの声に、振り返る4人組。
鼻血と擦り傷だらけのハリーが、ゆっくりと起き上がる姿が見えた。
「この野郎…、まだやられてぇのかッ!」
子分の1人がハリーに言う。
「あ~あ…。こんな時、あの人がいてくれたら、あんなやつら、2人のコンビネーションで、瞬く間に倒しちまえるのに…」
ハリーは、ピンチの時にいつも一緒に戦っていた、あの行方不明になっているシンガーソングライターの事を思い出しながら言った。
「残念だったな…、お仲間が居なくて…」
パンチがニヤニヤしながらハリーに言う。
「嘉納治五郎先生…、申し訳ございやせん…。禁じ手を使わせていただきます…」
ハリーは天を仰ぐ様にそう言った。
「禁じ手…?」とパンチパーマ。
「武道とは護身であり、人を殺めるものではありやせん…。しかし、あなたがたが引き下がれないと言うのであれば、あっしも禁じ手を使うしかありやせん…」
「ハッタリかよ?、この野郎~」
パンチがそう言うと、子分たちは皆、ははははは…と、笑い出した。
スッと、両手を前に出して構えるハリー。
「トゥントゥン…、トゥントゥントゥン……♪」
ハリーが、ショパンのノクターンのメロディーをゆっくりと静かに口ずさむ…。
「この野郎…鼻歌なんか歌いやがって…、ナメんなぁ~ッ!」
子分の1人が、ハリーに飛び掛かった!
ハリーはスッと身をかわすと、その男の腕を素早く取り、そのまま腕を絡めた状態で、バタンッと相手を地面に押さえつけた。
あっけにとられる、サラ金のチンピラグループ。
「キムラロックでやす…」
ハリーは静かにそう言うと、そのまま話し続けた。
「木村の前に木村なく…、木村の後に木村なし…」
「日本柔道史上最強と云われる故木村政彦が、1951年10月、グレーシー柔術の創始者エリオ・グレイシーの腕をへし折った技。キムラロックでやす…!」
「てめぇ~、離せこらぁ~ッ!」
相手を地面に押さえ込んでいるハリーに向かって、仲間を助けようと、チンピラたちがダッシュした。
「むんッ!」
パキ…。
ハリーが力を入れた瞬間、腕の骨が折れた様な、嫌~な音が聞えた。
立ち止まるチンピラたち…。
彼らの表情は青ざめている。
腕を折られた相手は声も出せず、無言で口をパクパクさせながら、小刻みに震え、うずくまっていた。
「野郎~~~~ッ!」
やられた仲間を見た子分の1人が、怒り顔でハリーに殴りかかる!
するとハリーは、殴りかかる相手の腕に、飛びつき十字固めをガシッと決めた!
相手の腕を取ったまま、バタンッと地面へ仰向けに倒れたハリー。
「ふんッ!」
テコの原理で、素早く身体を反らすハリー。
ブチッ…。
今度は、腕の靭帯が切れた様な音が、はっきりと聞えた。
腕をかばいながらジタバタと動き、うめき声をあげる相手。
ハリーは、その男の横からスッと立ち上がる。
「さぁ…、次はどなたでやんすか…?」
残り2人にそう言うハリー。
「わっ…、分かった…!、今日はもう帰る…。帰るからもう勘弁してくれ…ッ!」
歩み寄って来るハリーに向かって、パンチパーマは両手で制止ながらハリーに及び腰で言った。
やられた仲間たちを肩に担いで、慌てて去って行くサラ金グループ。
ハリーは彼らが去って行く姿を確認すると、「ふぅ…」とため息をついて、建物の壁際にドスンと、へたりこんだ。
「志賀さん…、これで邪魔者はいなくなりやしたぜ…。思う存分、娘さんにノクターンを聴かせてやってくだせぇ…」
壁にもたれ掛りながら、ハリーはホテルを見上げて言った。
「へいッ!、らぁっしゃぁああ~いッ!」
パンチパーマのウェイターが、ハリーの目の前に、勢いよくお冷グラスを置いた。
あの後、ハリーは中出氏と2人で、駅前のマイアミンへと来ていた。
「それにしても酷いなぁ…、見てたんなら助けて下さいよ…」
ハリーが目の前に座る中出氏に言う。
「私、暴力反対なものでして…」
そう言うと中出氏は、中指でメガネのフレームをくいっと上げた。
「それで、話って何でやすか?」
ハリーが中出氏に聞いた。
「ハリーさん、私と2人で新しいビジネスを始めませんか?」
中出氏がハリーに向かって、ニヤッと笑いながらそう言った。
「新しいビジネス…?、だって中出氏は黒目エンペラーで…」(ハリー)
「あれはクビになりました」(中出氏)
「ええッ!、なんでまた?」(ハリー)
「私、実はシャロン・ストーンの、“氷の微笑”が好きなんですよ…」(中出氏)
「ああ…、あのエロい洋画…?」(ハリー)
「ええ…、それで映画みたいに、黒目エンペラーの部屋全部に隠しカメラを仕込んで盗撮しようとしたんです」(中出氏)
「それがバレてクビでやすか?」(ハリー)
「はい…、その盗撮映像を素人モノのAVとして販売したら、二重に稼げると思ってたんですけどね…。会社では理解して貰えませんでした…」(中出氏)
「そりゃそうでしょッ!」(ハリー)
「それで今度は、私たち2人で会社を立ち上げて、一儲けしようと考えてるワケです…」(中出氏)
「中出氏と会社ですかぁ…?、怪しいなぁ…、大丈夫なんでやすかぁ?」(ハリー)
「大丈夫です!、ちなみに社名も、もう考えております」(中出氏)
「どんな社名で?」(ハリー)
「“8の字無限大!”です!」(中出氏)
「メチャメチャ怪しいじゃないですかぁッ!」(ハリー)
「大丈夫ですよ!ハリーさん!、上手く行けばバンバン稼げて、好きな物なんでも買えますよ!」(中出氏)
「本当ですかぁ~!?」(ハリー)
「本当です。ハリーさん、今、欲しいものは何ですか?」
「浅田ちちの最新作ですッ!」(ハリー)
「ハリーさん、そんなもの、これからいくらでも買えますよ!、浅田ちちどころか、インリン・オブ・ジョイトイの写真集だって大人買いできますよ!」(中出氏)
「他にも夢が叶えられますよ!、え~とぉ…、例えば…?」(中出氏)
「ややや、やりますッ!、ぜひやらせていただきやすッ!」
中出氏の、何でも好きな物が買えるという言葉に、喰らいついたハリーが言う。
それだけで、ハリーには十分過ぎる程の喜びであったようだ。
「では、我々の前途を祝して…」
中出氏がそう言うと、2人はお冷グラスを互い手にし、それをカチンと合わせるのであった。
(そうかぁ…、インリンの写真集も大人買いかぁ…)
目の前の中出氏を眺めながら、笑顔のハリーが思う。
、
2人がいるマイアミンの有線からは、演歌が静かに流れていた。
「すいやせん!、クリームソーダを下さい!」
それからハリーが、パンチパーマの店員にそう注文した。
「へいッ!」
店員はトレイを抱えながら、他の客が帰った後の席へ向かい、そのテーブルの上を片付け始めた。
空いたグラスを下げる店員。
そのグラスの中には、サクランボが残っていた。
それから店員は、厨房に入りクリームソーダを作り出す。
そして、さっきのサクランボを水道水で軽く洗うと、ハリーの注文したクリームソーダの中へポトンと入れた。
「ゲッ!」
それを見ていたハリーが言う。
「ちょっと店員さん!、そのサクランボ、今、片付けたやつじゃ…?」
「ちゃんと洗ってるじゃないですかぁッ!」と、キレる店員。
「ええ~ッ!」
今どきまだ、こんな喫茶店が存在してるなんて…。
ハリーは、パンチパーマの店員を眺めながら感慨深く、そう思うのであった。
「あ!、そうそうッ!」
すると、中出氏が突然、思い出したように言った。
「何ですかい…?」
中出氏にそう聞くハリー。
「YouTuberで成功すれば、“耳かき膝まくら”に、千回は行けますよッ!」
笑顔の中出氏がハリーに言う。
夢が叶うとは、これの事か?
「何ですとぉおお~~ッ!!」
だが大喜びのハリー。
そう叫んだハリーが、次に「あぅッ…」と言って、気を失ってしまった。
「あれ?、ハリーさん!、どうしたんですかぁ?、ハリーさんッ!」
中出氏がそう言って、ハリーの身体を揺する。
どうやらハリーは、“耳かき膝まくら”に千回行けると言った中出氏の言葉で、喜びの余り失神してしまったのであった…。
fin