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長々書いてきたが、そんなにダラダラ書く必要はなかったかもしれない。ただ自分としては、現在の地平をはっきり確かめておきたいと思ったに過ぎない。
ベルジャーエフは文化と文明は両立できない、という事を語っていた。立川談志も、文化は文明の欠損を補うようなものではないかと持論を述べていたが、この落語家の観点は哲学者的である。
芸術というのは当然、文明ではなく文化に属するものだ。当時はフランスに遅れを取っていたドイツが、ゲーテやカント、ベートーヴェンなどを輩出したのは、文明の劣りを文化が補償したものなのだろう。
ただ、この在り方にも限界があると思う。先に言ったように、実際にディストピアが来てしまえばディストピア小説は書けない。ロシアではロシア革命以降、文豪は死に絶えたし、優れた哲学者や作家も消えてしまった。いたとしたも亡命やシベリア送りの目にあっている。社会の万全の準備がなければ優れた芸術家が輩出されないというわけではないが、どんな社会でも個人の努力や工夫だけで偉大さに到達できるというものではない。ここには微妙な関係があるが、現在の地平は、優れた芸術家はみな、世界から目を背け、自分の魂の中に退避するか、世界を批判的な目で見つめる事によってなんとか自己の居場所を作ろうとしているように見える。
何故こうなったかと言えば、「場」の消失という事だが、これは現代の作家らが生活をリアリズムで書く時に必然的に生じてくる作品全体の矮小さが、裏側からこの状況を証明してくれているように思う。また、今の作家らが別段の教養もなく書けてしまうという事実もその事を証しているように思う。
こうした状況をどう打破するかというのは時代と個人が絡み合った複雑な問題になるが、社会の有様をそのまま描きつつ雄大な作品を描くのは難しいと考えるか、少なくとも過去と比べて視点を変える必要があるだろう。規範的な物で内外が埋め尽くされた我々が自分達を眺めた時何が見えるか…私は、シオランやペソアのような個人が我々にとっては先立つ存在としてあると思う。そこでやられている事はこの世界におけるまた新たな場の創出の第一歩ではないか。そして創造とはまず消失の認知から生じてくる。自己を生み出す為にはまず自己が消えている事に気づく必要がある。
誰よりも自己の不在と、個のなさを自覚していたフェルナンド・ペソアという一詩人が今では全く独創的な天才と見られている事にパラドックスはない。それはむしろ順説であり、正当な成り行きであろう。ここには一個人がいて、それは我々的な世界にあっては個の不在として捉えられた。我々はまずこうした場所をはっきり見てかかる必要があるだろう。