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ハネケというのは極端なニヒリズムであり、またそこでひどい目に会うのはいつも西欧のブルジョアと決まっている。この自虐的な韜晦はウエルベックと近いものがある。ウエルベックもまたニヒリズムと西欧の終焉を見据える目が一致している。
これらの作家は、ニヒリズム的なタイプであり、私は現代の優れた作家やアーティストは大抵、こうなるしかないのではないかと思っている。
その反対のタイプと考えると、例えば、現代的救済に向かった村上春樹が思い浮かぶ。トルストイやドストエフスキーらが文学作品に持ち込んだ救済は、宗教的救済だった。何故宗教なのかは思う所があるがこれは今は置いておく。…村上春樹は宗教は基本、関係ないと考えている人だろうが、彼は文豪の作品をよく読んでいるので、自分もそういう総合性を得たいと思って作品内に彼なりの救済を持ち込んだ。
しかしその救済は、消費社会と一致する「幸福」であり、村上春樹は八十年代あたりの東京からやはり離れられない人だと痛感した。「ダンス・ダンス・ダンス」という作品は村上流の総合小説だが、そこで主人公は最初から「寝れる」とわかっている女と作品の冒頭で出会う。主人公は色々な事柄を「冒険」し、最後に女の元に戻り、彼女と「寝て」話が終わる。これは村上春樹なりの問題解決であり、葛藤があるように見えて実はなかった、最初から思い通りになるがあえてそうしなかったという趣味的気分を引きずった結論になっている。
こんな事をネチネチ言って、何が言いたいかと言うと、現代において安易な救済をフィクションに持ち込むと碌な事にならないという事だ。もっともこれはいつの時代でもそうかもしれない。私は、ドストエフスキーが宗教的救済の方に回帰したのは、彼の社会主義理想が破れたからだと思っている。つまり、現実における救済の不可能性が、宗教的救済に昇華されたと思っている。
また、この高められた宗教的救済は、キリスト教的リアリズムとでも言うべきものとうまく釣り合っている。仏教的とも言えなくもないが、とにかく、現実における惨苦や、人間のみすぼらしさを徹底して描く事はその反対にある彼岸としての救済があるからこそ徹底して描く事ができる。パスカルの「パンセ」で、彼の人間洞察は恐ろしい所まで到達しているが、パスカルの目が遠くまで届いたのは、現実の醜さに釣り合うもうひとつのものを自分の中に抱き得ると考えていたからだった。
一方で村上春樹の場合、その救済が趣味的気分と現実と混和しているので、文豪の作品に比べると徹底性が欠けている印象を受ける。そしてこの村上春樹が現代文学ではチャンピオンである事と、我々が生きている現実が不毛である事はどこか通底しているように思えてならない。投資家にとっては都合の良い世界かもしれないが、芸術家にとっては都合の悪い世界である。それは最初から手垢に塗れた、市場に出回っているタイプの「救済」が用意されているからである。村上春樹は現代文学のチャンピオンらしく、正当にもこれをしっかりと掴んだ。だがこの現実が一旦流れ去れば、村上春樹という存在そのものも流れ去るのではないかという危険を孕んでいるだろう。