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近代にできた「小説」という体系は基本的にはリアリズムを基礎に置いている。それは現実をありのままに見つめるというより、そのように見えたタイプの現実の一つ眺め方だった。パースペクティブの一つだった。
世界は様々に眺められうる。だが、世界の方でもそれに答える実質がなければならない。目には太陽と同じ性質があるからこそ、目は太陽を見る事ができる、とゲーテは言った。見るものと見られるものとの間に何らかの関係がなければならない。
近代の優れた作家として、私はドストエフスキーとかシェイクスピアを念頭に置いている。あるいは、最近読んで感嘆したサマセット・モームの「月と六ペンス」でもいい。またフローベール「ボヴァリー夫人」でもいい。モームやフローベールは基本的にリアリズムで書いている。ロシアの大作家、トルストイもリアリズムで書いている。
だが、リアリズムとは、世界を眺めうる一つの方法でしかない。…個人的にずっと感じていた事として、例えば、朝井リョウの小説というのは確かに「今」を映し出しているのかもしれないが、面白くない。いや、面白くないというより非常に卑近である。朝井リョウに「何者」という就活をテーマにした小説があるが、この小説のテーマも人物もなんとこせこせ生きているだろうか。小さな打算と利害だけが目標になって、それに疑いも抱かず生きている。そこに客観視点も存在しない。なんと矮小だろうか。
現代の作家も基本的にはリアリズムで描いているが、なんとそれは小さくまとまってしまっている事か。名をあげても仕方ないかもしれないが、金原ひとみの「蛇にピアス」をパラパラ読んだ時、私はかなりがっかりした。そこに別に高い芸術的資質を希望していたわけでもない。ただ、せめてそこには過激なテーマを扱う若い女性の情念とか、エネルギーはあってほしいと無意識的に思っていたのだった。だが実際読んで感じたのは二十歳そこそこにも関わらず、小さくまとまった、小利口な若者が器用に書いているという印象だった。こんな作家を出版社やおじさん作家が丁重に扱ったとしても驚くに値しない。脅威に感じるものはなにもないからだ。
だが、この現代作家の不毛ぶりはすべて、現代の作家の力量不足に課せられるかと言うと、そうも言い切れないと思う。ここでは微妙な歴史的問題が起こっている。もちろん、今の芥川賞・直木賞云々はすべて無視しても構わないようなものだろうが、その深層で起こっているのは作品それ自体のように重要でない事はない。
優れた作家に目を移そう。私は作家で言えば伊藤計劃とかミシェル・ウエルベックを高く評価している。それらは優れた作家だと思う。また映画監督だが、ミヒャエル・ハネケも実に素晴らしい監督だと思う。
ハネケを今は作家として扱うが(現実を描いてドラマを作るという点は共通だ)、ハネケはニヒリズムの作家である。ハネケはパゾリーニに影響を受けている。パゾリーニはサドの系譜を継ぐような人物だろう。つまり人間の悪魔性を暴き出すというタイプだが、西洋なので、そこには神の不在という裏側の問題がある。サドの執拗な悪は、私はただの「欲望」に帰すのは無理だと思っている。神に対する反逆という壮烈な、もちろん人としては許し難いような、壮絶なものがそこにはある。ハネケも大きくはそういうタイプであると思う。
ハネケは、今は、一番特徴がわかりやすい人物なので特に取り上げたが……彼の処女作「セブンス・コンチネント」は一家が心中する話だ。この作品にハネケの性格がはっきり現れているか、一家はこれという理由もなく、ただ生に漠然とした不安と諦念を感じ死の方に近寄っていき、最後に心中を果たす。
ではハネケが、さっきあげた現代の作家らと違う点はどこにあるか。それはニヒリズムの視点であり、「この世界に大切なものがない」という視点である。さっきあげた作家らは大切なものが消えたにも関わらずそれを意識していない(できない)という点におそらく矮小さが現れている。
現代は不毛の時代だろう。だが、不毛の時代は不毛とは思われない。二十世紀前半には、優れたディストピア小説が書かれた。オーウェルとハックスリーのそれである。だが「現実に」ディストピアになると、もうディストピア小説は書けない。それを指摘する「場所」自体が失われてしまうからだ。現実の不毛さを告発する場所それ自体は不毛なものではない。ところが、現実の変化はこの場所さえも奪ってしまう。こうして世界からはディストピア小説さえも消え、不在と指摘する事もできない不在が全てとなった。