たとえ世界のすべてを敵に回しても、あなたの敵で居続ける。
午前中一度訪ねた、平凡な一軒家にわたしは再びやってきていた。
日は山の端に沈み、薄暗い玄関は灯りが自動で点灯している。
チャイムを鳴らすと、やはりあの男が現れた。
「……おや、また君か」
半開きのドア、不機嫌さを隠しもせずに、私を見下ろしている。
『今夜、父親を殺します』
きれいな文字で書かれた書き出しは、その後こう続いた。
「はい、唯さんに一度直接謝りたくて」
『あなたには未来があります。けれども、私にはない。すでに三人殺していますから』
「……それはまた明日、学校ですればいいだろう?」
『いいや、白状しましょう。本当は父を殺すのが先で、そのついでがあなたをいじめていた三人です』
「いえ、今すぐじゃないとダメなんです」
『三人を殺す前から私はもう、とっくの昔に取り返しのつかないところにいます。けれどもあなたには、私と違って未来があります』
「――だって」
『……だから、もう何者に縛られることなく、あなたは自由に生きてください。あなたの友人、黒川唯より』
「だって、早くしないと先に殺されちゃうじゃないですか」
わたしは後ろ手に隠していた拳銃を取り出した。
「――なっ」
いつわたしが助けてくれと頼んだ?
いつあの三人を殺してくれと頼んだ?
何を勝手に、わたしを救った気でいる?
何を勝手に、友達のつもりでいる?
あんたはわたしの復讐の機会を奪った、敵に過ぎない。
だから味わえ。
殺したいほど憎い相手を他人に殺される、その悔しさを。
何を犠牲にしても果たすべき復讐の機会を奪われる、そのやるせなさを。
(そうだ、これは復讐だ。復讐の機会を奪ったあの女への)
わたしの指が一片の躊躇いもなく引き金に触れようとして――
「ごげっ」
それより先、目の前の男は派手に吐血して、その汚らわしい血をわたしの顔に吹きかけながら、前のめりに倒れた。
「……な、な」
思わず後ずさりする。
そして私は見た。
「先は越させないよ? この人は私が殺すんだから」
全開になった玄関、血まみれのナイフを片手に佇む、黒川唯の姿を。
そこにたたえた表情は、満面の笑みで。
狂気に満ち満ちたそれは、けれども今まで私に見せたどの表情よりも艶めいて。
……綺麗だった。
「……うぐ」
「おおっと危ない」
虫の息だが、それでも生きている父親に、何度も何度もナイフを背中に突き立てる。
返り血を浴びながら、何度も何度も、確実に仕留めようと。
わたしはただ、それを呆然と見ているだけで。
そうして、ついに男は沈黙した。
「やっぱり銃って便利だね。安心確実だもん」
血まみれの彼女が、肩で息をしながら言う。
「そうだ、今からでも貸してくれない、それ? 確実に仕留めたいし」
いいながら伸ばしてくるその手を、わたしは振り払った。
「ふざけないでっ! なんでっ、なんでっ、なんであなたはいつもっ!」
そして叫ぶ。
「わたしの邪魔ばっかりするの!」
どう考えてもこの状況にそぐわないことを。
ああ、目の前で人ひとりが惨殺されていようとも、そんなことはどうでも良かった。
そのまま彼女の襟首を掴み、怒鳴り散らす。
「せっかくあなたの邪魔をするためにここまで来たのにっ! なんで、なんでっ! 殺すならさっさと殺しなさいよ! どうしてわたしの目の前で、こんなタイミングで殺す必要があるのっ!?」
「……それはね」
返り血で真っ赤に顔を染めながら、それでもなお笑顔で黒川は続けた。
「あなたのその顔が見たかったから」
「……なっ」
「あなたの悔しそうなその顔が、昔から大好きだから。だから、あなたにとって最悪で、私にとって最高のタイミングで殺したんだよ」
「何を言って」
「私がいつも無表情だった理由、分かる? それはね、私が無表情だと、それだけで悔しそうな顔をしてくれるから。あなた、笑った顔よりも落ち込んだ顔よりも何よりも、悔しそうな顔が一番、可愛いから。だから、いつも本当は笑いたいのに我慢してきたんだよ。あなたの可愛い可愛い悔し顔が見れるのに、ずっと我慢して」
早口で語るその表情は、今まで見たどの黒川唯よりも生き生きしていて。
「あなたが悔しがるところが見たくて、ずっと頑張ってきたんだよ? 苦手な人付き合いも、勉強も、運動も、何もかも頑張って。あなたに精いっぱい劣等感を与えて、悔しがらせるためだけに。ずっと見てたんだ。落ちこぼれたことも、友達がひとりもいないことも、いじめられてることも、知ってた。私に見せるよりずっと悔しがってくれて、最高だった!」
「……」
あまりの豹変ぶりに、思わず後ずさりする。
ぷるぷると、体が震えている。
表情筋を必死に操作して、無表情を意識する。
けれども、体は、心は、どうしようもなく悔しさに反応して。
「我慢しなくていいんだよ? ほら、私に見せて? さいっこうの悔し顔を! ほら、あの時みたいにさ、復讐を奪われたときみたいにさ!」
わたしの顔は屈辱に歪んだ。
「ああ、最高! 最高すぎるよ! 大好き! 愛してる!」
「……ふざけるな」
わたしは震える手で、拳銃を突きつける。
「ふふふっ、悔しくて悔しくて泣いちゃうそうだから殺してやるって? でもそんな震えた手じゃこの距離でも当たらないよ? そんなんじゃあの雌豚共も殺せなかったんじゃない? 私はかんたんに出来たのに! 私みたいな地味で根暗なチビガリでも!」
「黙れ!」
もはやわたしは屈辱を隠すこともなく、咆哮する。
悔しかった。
今までこの女に味わわされたどんな屈辱よりも、遥かに。
涙が出た。
この女にだけは見せまいとしていた涙が、ボロボロと。
一番見せたくない相手に、一番見せたくない醜態を晒していた。
「……殺す、殺してやるっ!」
けれどもそれは、覚悟である。
かつて見せたのと、同質の覚悟。
己の目的のために、あえて退路を断つ覚悟。
「残念。あなたがいくら度胸があっても――」
あの女は、いつも見せていた無表情になって、
「――私は私が殺すから」
その細い首にナイフを突き立てようとする。
(……させないっ!)
自殺など、断じてさせるものか。
ナイフが突き立てられるよりも早く、わたしは躊躇いなく引き金を引く。
銃声が鳴り響いた。
「……どうして、どうして邪魔するのっ」
その鉛弾は、いじめっ子を屠るために用意されたはずの鉛弾は、しかし玄関のコンクリートを抉るだけにとどまっていた。
けれどもそれで十分。一瞬でも怯んでさえくれれば。
わたしは今、黒川唯を組み敷いていた。
ナイフは遥か彼方に吹き飛び、わたしはその両手を掴み、馬乗りになっている。
「あなたは私が嫌いなんでしょ! 殺してやりたいくらい憎かったんでしょ! だったら、なんでっ!」
「……だからに決まってるじゃない」
わたしは、全力の笑顔で、そう答えた。
「わたしはあなたが嫌いだから、あなたの思い通りにさせない」
そうだ、まったくもってそのとおり。
「……わたしは考えたわ。わたしがあなただったら、どう行動するか。つまり、一番屈辱を与えられるか。答えは簡単。結局、あなたは三人組を殺したときと、父親を殺したときと、同じことをしようとしただけ」
つまり、殺したい相手を先に殺し、屈辱を与える。
たとえそれが、自分自身であったとしても。
だからわたしは、それを台無しにする。
たとえそれが、世界で一番気に食わない女を、黒川唯の命を救う結果になったとしても。
わたしは敵が嫌がることを、たとえどんなに損をしてもやってやる。
「どう、これがあなたに二度も――いいや、何度も何度も、味わわされた感覚よ。最悪よね?」
「……ッ」
「言わなくても分かるわ。ふふふ、でもわたしは最高の気分。だって――」
目の前に、甘美な表情があった。
無表情ではない。
取り繕われた笑顔でもない。
狂気をたたえた笑顔でもない。
そう、それこそが、わたしが求め続けたもの。
「あなたのその悔しそうな顔。やっと見れたんだもの」
……ああ、今わかった。わたしが見たかったのはこれだ。
中学時代、ずっといじめを続けたのは、この表情を見るため。
無表情なあの女の、悔しがる顔が、屈辱で歪む顔が、ずっと見たかったのだ。
そして今、わたしが切望していたものが、目の前にある。
「ああ、本当に最高よ。……あなた、今最高に可愛いわ」
「……笑ってるあなたは、最高に可愛くない」
「ふふふ、でしょうね」
言いながら、わたしはスマホを取り出した。
「……通報、するの?」
観念したような声音で、黒川はわたしを見上げる。
「ええ。殺人犯を野放しにはしてはおけないでしょう?」
110。
「あー、もしもし、警察ですか? ええ、はい。ええ――」
もしわたしが黒川唯だったら、何が一番嫌だろうか。
四人殺した。
自殺しようとしたら止められた。
警察を呼ばれた。
……さて、次にされたら一番嫌なことは何だろう。
きっとこのままでは、死にぞこないは惨めに牢屋の中で過ごすことになるのだろう。
自殺未遂はきっと、そこからの逃避でもある。
あるいは罪悪感からの自罰?
もしくはその二つがぐちゃぐちゃに織り混ざったもの?
何にせよ、だからきっとそれは。
「わたし、人を殺しちゃいました」
「――なっ」
世界で一番気に入らない相手に、またもや救われることだろう。
「女子高生を三人と、中年男性をひとり。だから逮捕してください」
黒川唯の表情が、先程以上の屈辱に歪んだ。
ポロポロと、涙を流している。
きっと今、保身と誇りを天秤にかけて、綯い交ぜの感情が襲っているのだろう。
その情けなさに、屈辱に、涙している。
……ああ、可愛い。最高だ。
だからわたしは勝ち誇った笑みで、宣言した。
「殺人犯を野放しにはしておけないでしょう?」
わたしは、たとえ世界のすべてを敵に回しても、あなたの敵で居続ける。