ミイラ取りがミイラに、いじめっ子がいじめられっ子に。
黒川唯。
5月23日生まれ。O型。左利き。片親。
わたしが中学二年生から卒業するまでいじめていた女。
きっかけはよく覚えていない。
得てしていじめなど、加害者側はその理由を覚えていないものだ。
ただ、初めて意識したのは、学級通信か何かで誕生日を知ったときだったと覚えている。
『なんでこんな根暗の誕生日がわたしと同じなの』
何とも言えない、面白くない気持ち。
思えば、あの女との関わりは概ねそれで埋め尽くされていた。
殴っても、体操着を隠しても、机を落書きで埋め尽くしても、教科書を破り捨てても、上履きを虫の死骸で埋め尽くしても、援交してると噂を流しても、給食をチョークの粉まみれにしても、死んだ母親の悪口を言っても……とにかく何をしても、あの女はいつも無反応で。
そのたびにわたしは、自分の存在を否定されているような、心底見下されているような、面白くない気持ちになった。
その気持ちをかき消すために、さらなるいじめに走る。
……ああ、思い出したら苛々してきた。
高校三年生にもなって中学時代にいじめていた女に苛ついているのは、ちゃんとした理由がある。
あれは忘れもしない、高校生活一日目、すなわち入学式の日のことだ。
わたしが通うT高校は、県内でもトップクラスの偏差値を誇る、いわゆる自称じゃない進学校である。
今となっては愚かしいことだが、わたしはそこに入るために必死で勉強した。血のにじむような努力の末に、勝ち取った高校進学。きっと人生で一番がんばったのは、このときだろう。
……だというのに、だというのに、だ。
(なんで、あの女がいるのよ)
校門に張られた、新入生のクラスを示すプリント。
そこには、あの女の名前が。
それも、よりにもよって自分と同じクラスに。
心底苛々する。
どうして、わたしが必死こいて受かった高校にわざわざやってくる?
どうして、あの女はわたしをこんなにも苛つかせる?
『……そんなにわたしにいじめられたいの』
だったら望み通りにしてやろうじゃないか。
せっかくの晴れの日だというのに、わたしは苛立ちを隠しもせず新しい教室に向かった。
さあ、どうしてやろうか。
真新しい制服をぐちゃぐちゃに汚してやろうか。
有る事無い事噂を流してやろうか。
何にせよ、きっと退屈に事欠かない高校生活に――
『……ッ!』
教室のドアを乱雑に開くと、わたしは絶句した。
一瞬、誰かわからなかった。
窓際、後ろから二番目の席。
真新しいブレザーに身を包んだ、黒川唯。
腰まで伸ばしていた黒髪は、バッサリと肩口まで切られている。
不健康だったはずの白い肌は、健康的な肌ツヤを煌めかせている。
ひどかった目の隈は見る影もなく、意外なほどにパッチリとした瞳が露わになっている。
まるで別人。
しかし何よりも、一番別人めいていたのは。
(……何よ、その笑顔)
わたしにはそんな顔、一度も見せたことがないのに。
いっつもいつも、無表情しか見せたことがなかったのに。
知らない女子に、出会ったばかりの隣の席の女子に、黒川唯は笑顔を見せていた。
まばゆいばかりの、あの女の本性を知らなければ、きっと見とれてしまうだろう、そんな笑顔を。
(生意気に高校デビューなんかしちゃって。……ああくそ、苛々する)
わたしは舌打ちして、なるべく距離を取り顔を伏せながら、席順を確認するために黒板まで移動した。
『……うげ、最悪』
窓際、最後列。教室の隅の隅。
よりにもよって、あの女の後ろの席だった。
しかしその場で固まっていても何が変わるわけでもなく、わたしは重い足取りで指定された席まで移動する。
なるべく目を合わせないように、そっと存在を消すように。
一方の黒川唯といえば、そんなわたしに一瞥もくれず、ただ隣の女子と楽しそうに話を続けていた。
まるで、わたしがその場にいないみたいに。
(クソクソクソ、ムカつく、ムカつく)
なんでこんなにも腹が立つのか、苛々するのか。
もし一瞥でもされていたら、確実に睨み返していただろうに。
もし話しかけられたら、反射的に殴り倒していただろうに。
結局の所、何をされても苛立つくせに。
究極的には、黒川唯が呼吸をしているだけで苛立つくせに。
(楽しそうに話しやがって、黒川のくせに、黒川のくせに……!)
わたしはといえば、ただぽつんと机に佇むだけ。
隣の女子に話しかける勇気も余裕もない。
その耳朶を、聞いたこともない、高い黒川の声が刺激する。
不快だった。
不愉快極まりなかった。
どうしてこの女は、わたしを差し置いてそんなに楽しそうに、見ず知らずの女と話をしているんだ。
いくら耳をふさいでも、その声は手の甲を通り抜けていく。
いいやあるいは、詳細が聞こえなくても楽しそうな声音だけで。
『……』
いたたまれなくなったわたしが取った行動は、おおよそ最悪、少なくとも高校生活初日にやることではなくて。
ポケットからイヤフォンを取り出しノイズを遮ると、わたしは机に突っ伏した。
……ああ、思えば、これが全ての原因だったのかも知れない。
この地獄の高校生活の。
最悪な第一印象。
意図せずに話しかけるなオーラを放ってしまったわたしには、当然ながら友達ができなかった。
いいやあるいは、それから挽回しようと思えばいくらでも出来ただろう。
でもしなかった。
する気にならなかった。
(……だって、そんなふうに群れるなんて、あの女みたいで気持ち悪い)
そう、黒川唯は友達いっぱいだった。
常に周りに誰かがいて、楽しそうに話をしている。
そんなものを、傍から見てしまったら。
(わたしはあの女と違う。あの女が気味の悪い媚びた笑顔で高校デビューするなら、わたしは自分を貫いてやる)
そうやって、わたしはひとり孤独に過ごした。
そうして、最初の定期テスト。
高校の勉強はやはり中学と違って難しかったけれど、わたしは必死になって勉強した。
浮かれきった黒川唯を、成績で圧倒してやると。
あんたなんかまぐれでこの高校に受かっただけで、本来的に落ちこぼれなのだと教えてやるために。
だというのに、だというのに、だ。
『……平均点』
よりもちょい下であった。
どの教科もぱっとせず、得意科目でさえ平均より五点上くらい。
(……落ち着きなさい。みんな頭いいんだから、それくらいでも落ち込むことは――)
『すごーい、黒川さん全部百点じゃん!』
その声に、わたしはそのままトイレに駆け込んだ。
『おえええええええっ』
最悪だった。
最悪すぎた。
絵に描いたような最悪だった。
それからもわたしの成績は徐々に徐々に下がっていって、あの女の成績はいつもいつも上位者として廊下に張り出されていた。
一位を取るのも珍しくなく、悪くても五位か六位。
それだけじゃない、あの女は絵画コンクールで佳作を受賞したり、体育祭ではリレーの選手に抜擢されて見事クラスを優勝に導いたりと、活躍に枚挙に暇がなかった。
……わたしの一年間は、言うまでもない。
なにはともあれ、わたしはスクールカースト最上位たるあの女に背を向け、地獄の一年目をどうにかやり過ごした。
二年生、成績でクラスは割り振られ、あの女は言うまでもなく最上位クラスであるA組になった。
そしてわたしは、いわゆる落ちこぼれの集まりであるF組に。
それでも、良かったと思う。
ようやっと、あの女と別のクラスになれたのだから。
あの女が生徒会長になるのを間近で見ていたら、きっとわたしは発狂していただろう。
非公式ながらファンクラブまで作られ、徹底的にちやほやされるあの女を見ていたら、きっとわたしは発狂していただろう。
あの女に今の自分を見られていたら、それだけで、きっとわたしは発狂していただろう。
(……ああそうだ、だから二年生は決して最悪ではない。最悪一歩手前でしかない)
たとえいじめが始まった学年であったとしても。
そうだ、いじめ。
わたしは二年生になって、クラスの落ちこぼれ共にいじめられるようになった。
人のことは言えないが、知ったことじゃない。
先程わたしはいじめなんて加害者側は理由をよく覚えていないと言ったが、被害者側は、いじめられっ子はちゃんときっかけを記憶している。
たしかあれは、わたしが一人で飯を食べられる場所を探していたときのことだ。
偶然、本当に偶然だった。
偶然、わたしは校舎裏でタバコをふかしているクラスメイト三人に出会って、挙句の果てにこちらが気づいたことに気づかれた。
『……チクるなよ? 誰だっけ、お前同じクラスだったよな? もしチクったらその時はどうなるか、分かるよな?』
メンチを切られた。
古臭い表現だが、とにかく睨みつけられたので、適当に頷いておいた。
名も知らぬクラスメイトが好き好んで肺を汚染していても、何も関係ない。
『おいてめえ、チクっただろ』
だというのに、よりにもよってその翌日、連中はなぜか生徒指導室行きになっていた。
当たり前だ、あれだけ堂々とタバコをふかしていたら、ヤニの臭いを撒き散らしていたら、いやでもバレるだろう。
けれども彼女たちは短絡的にも、全てをわたしのせいにした。
それからだ。いじめが始まったのは。
多分、わたしがクラスの女子で唯一髪を染めていなくて、きっと彼女たちには真面目でつまんないやつだと思われていたのも原因だったのだろうけど。
でもわたしは周りに迎合して見た目を変えるなんて、あの女みたいな真似は断固としてしたくなかった。
その結果が、これである。
『……最悪』
トイレをしていたら、ホースで水をぶっかけられた。
わざわざ旧校舎まで来ておいてこれとか、どんだけしつこいのか。
以前これをされたときは、ご丁寧にジャージまで隠されていた。
まだまだ授業は残っていて、出席日数は危うい。
だからといって保健室に借りに行くと、そこでまた最悪な目に遭わされるだろう。
『本当に大丈夫? 何か辛いことがあったりしない?』
どこまでも同情的な目でこちらを見る、あの忌々しい保健医だ。
(わたしをそんな目で見るな、そんな可愛そうなものを見るみたいな目で!)
さっさと旧校舎に隠してある、予備のジャージを取りに行かねばならない。
隠すのは面倒だけど、それでもあの哀れみの目を向けられるよりは遥かにマシだ。
次の授業は女子にはいつも甘い先生だから、時間をかけても大丈夫。
こんなことばかり上手くなっていくわたしが、わたしが――
『……最悪っ!』
惨めだった。
あまりにも惨めだった。
怒りのままにトイレの壁を力いっぱい殴りつける。
血に染まる壁が、滲んで見えた。
トイレの個室にホースで水攻め。
かつて自分がしたことを、そっくりそのままされている。
それも、あんな頭の悪い女どもに。
しかも、あの女は何をされても無表情だったのに、わたしはいつもいつも涙を流して。
わたしは弱くて、惨めで、情けなくて。
『……こんなことをされるべきなのは、あの女みたいな、黒川唯みたいな根暗でつまんないやつで、わたしじゃないはずなのに』
そうして、わたしの高校二年生はいじめとともに過ぎ去り、そして三年目。
高校三年生。
『――ごぼっ』
(苦しっ、死ぬっ)
いくら足掻いても、頭を押さえる強い力にわたしの顔は浮上を拒まれる。
鼻を、口を、汚らしい水が塞ぐ。呼吸出来ない。
『このままじゃ死んじゃうじゃん、やめなよ~』
『だいじょぶだいじょぶ、死なないって、多分』
『多分て』
『まあでもこいつ死んでも誰も悲しまないし』
『あははは! それもそうだ!』
やっぱりわたしはいじめられていた。
やっぱり学力的に同じクラスになった、例の三人組に。
人気の少ない旧校舎、便器に顔を押し付けられて。
いつか、あの女にしたように。
『おい起きろ! そのままお前が死んだら困るんだよ!』
断絶した意識を、鋭いビンタが覚醒させる。
間近に、出来損ないのプリンみたいな髪型の女の顔があった。
汚い、化粧臭い顔。
こんなものが県内でトップクラスの高校に通ってるなんて、誰も信じないだろう。
わたしも信じたくない。
『よかった、生きてる』
『あ、そうだもし死んでも大丈夫なように遺書書いとけよ遺書』
『遺書、遺書って』
ゲラゲラ、下品な笑いがトイレを満たし、わたしのぜえぜえという喘ぎをかき消した。
……不愉快な笑い声。
入学初日に聞いた、あの女の笑い声に勝るとも劣らない、不快な声だ。
『……それは、あんたたちの遺書を?』
なんて言えるはずもなく、ただわたしは身を縮こませて、連中が飽きていなくなるのを待った。
『……殺してやる』
夕焼けに染まる旧校舎の女子トイレ。
ぽつんと取り残されたわたしは小さくつぶやいて、それをスイッチに感情の渦が腹の底からこみ上げ――
『――ッ!?』
ピロリン。
涙と絶叫がこみ上げるのを、間抜けな電子音が遮った。
スマホを見てみると、ラインの通知が一通。
友達のいないわたしにそんなものを寄越すのは、企業の公式アカウントくらいなもので。
『お誕生日おめでとうございます! お得なクーポンがあります!』
そんな文字列が、騒がしい絵文字とともに踊っていた。
『……そういえば、誕生日だったわね』
厳密には明日だが、気の早いことにクーポンはすでに使えるようだった。
コンビニのおにぎり類が50%オフ。
随分とケチくさい誕生日プレゼントだった。
『……十八歳、か』
十八歳で買えるようになるもの。
えっちな本。
えっちなゲーム。
えっちな道具。
拳銃。
『……そっか、拳銃が買えるんだ』
日本国民は、十八歳を迎えれば拳銃を所持する権利を手に入れる。
だからわたしは翌日、土曜日。
近所のガンショップに向かった。
連中が二十歳になる前にタバコを吸うならば、わたしは法を遵守して十八の誕生日に銃を買ってやる。
それでやることは法を遵守していなくても、ささやかな意地を張って。
『……て、うわ』
そして、よりにもよって、わたしは出会ってしまった。
ショーケースに飾られた拳銃たちを熱心に見つめる、あの女に。
わたしと同じく今日が誕生日の、あの女に。
『……黒川唯』
すなわち、黒川唯に。