わたしが殺す予定だったのに。
この度、ピクシブ百合文芸2にてガガガ文庫賞を受賞した作品です。書籍化検討だそうです。
夕暮れに赤く染まる女子トイレ。
めったに人の寄り付かない、薄汚れた旧校舎のそれ。
わたしの目の前には、懐かしい顔があった。
わたしより頭一つ小さい背の、隈のひどい、不健康に肌の白い女。
『……ねえ、黒川』
女の名を呼びながら、その長い黒髪に触れる。厳密には、その髪を飾るそれに。
『これ、なに?』
髪飾り。雪の結晶のかたちをとった、見覚えがない銀色。
『……髪飾りだけど』
こちらをまっすぐ見つめながら、か細い声で黒川が答える。
『見りゃ分かるわよ』
言いながら、わたしは髪数本を犠牲にして髪飾りを奪い取った。
『なんでこんなものをあんたみたいな根暗が付けてるのかって、そう言ってんの。あんた現国とか苦手でしょ。わかる? 全然似合ってない。気持ち悪い。根暗が色気づいてんじゃないわよ』
似合わない髪飾りを汚らしいトイレの床に投げ捨てると、そのまま踏みつける。
何度も何度も、プラスチックと上履き、石材の床がぶつかり合う乱暴な音だけが、トイレに響いた。
『……』
だというのに、黒川は相も変わらず無表情で、粉々になった髪飾りを見つめているだけ。
涙を流すわけでもなければ、怯えるわけでも、怒りを示すわけでもない。
……つまらない女。
わたしは舌打ちしながら、黒川の髪を手に続けた。
『……それに何、この髪の匂い。黒川のくせに、なんでそんないい匂いさせてるの? いつもの安物のシャンプーじゃない。リンスも使ってる。それに香水の匂いもする。……気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い! 発情期なの!?』
叫びながら、わたしは頭を掴むようにして、その髪を頭皮ごと引っ張る。
その、腹立たしいことにやたら指通りの良い髪を。
『……人間はいつも発情期だよ。いつでも子供が作れるんだ。あなたも、わたしも』
やはり無表情で、こちらを見つめて。
立場をわきまえていない言葉の羅列に、わたしはその頭を勢いよく壁にぶつけることで答えた。薄汚れた壁に、真新しい赤が付着する。
『気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いっ! 黒川のくせにっ!』
そのまま頭を離さずに、わたしは個室のドアを乱暴に開け放つと、
『――むぐっ』
そのまま便器にその顔を突っ込んだ。
『そのきったない水で洗ってあげるわよ! 綺麗なものもいい匂いも、あなたには似合わないんだから!』
『ぐううううっ』
やっと苦しそうな声を上げてもがく黒川。
顔が見れないのが残念だけど、それでも苦悶に歪む表情をありありと想像できる声音。
わたしはそれを開放してやるはずもなく、ひときわ力を込める。自身の手が汚れるのを気にもせずに。
『やめっ、助けっ――』
『いい!? あんたはね、黒川唯はね! 地味で根暗なチビガリで! オシャレとは無縁なの! もし髪を染めてきたら丸刈りにしてやるし、ネイルをしてきたら爪ごと剥がしてやる! わかった!? わかったなら返事なさい、そしたら離して――』
わたしの言葉は、最後まで続かなかった。
『――ごぼっ』
気がつけば、わたしは溺れていた。
(苦しっ、死ぬっ)
いくら足掻いても、頭を押さえる強い力にわたしの顔は浮上を拒まれる。
鼻を、口を、汚らしい水が塞ぐ。呼吸出来ない。
『このままじゃ死んじゃうじゃん、やめなよ~』
半笑いの声が遠く聞こえる。
『だいじょぶだいじょぶ、死なないって、多分』
『多分て』
『まあでもこいつ死んでも誰も悲しまないし』
『あははは! それもそうだ!』
まるでマックで雑談するようなトーン。
声は徐々に徐々に遠く離れていって。
(……殺す、殺してやる、絶対の、絶対に)
わたしが誓うのと同時、その意識は真っ暗闇に落ちた。
「――ッ!」
飛び起きる。
シーツを足蹴にして、勢いよく。
顔をぺたぺたと触るが、じっとりとした汗が張り付いているだけで、あの冷たく汚らわしい感触は影も形もなかった。
「……夢、か」
ただし、現実を元にした、だが。
「そうだ、夢なんだ、これから先は、夢でしかないんだよ」
未だに早鐘を打ち続ける心臓を鎮めるため、わたしは枕元に置いたそれを手繰り寄せる。
黒くてゴツゴツした感触、ずっしりと重たいそれ。
わたしはそれを抱きしめるようにして、目を瞑る。
それだけで、心臓の高鳴りは鎮まるのを通り越して、別種の高鳴りを宿していった。
そうだ、これがあれば。
わたしの胸の中に、全てを解決する力がある。
これでわたしの高校三年間は、肯定されうるものになる。
ああ、こんなにも学校が待ち遠しいのなんて、一体いつぶりだろう。子供の頃の遠足だって、こんなに胸を高鳴らせてくれなかった。
時刻は午前四時、いっそこのまま起き続けていようか。
いいや、それはダメだ。
寝不足でとちってしまえば、全て無駄になってしまうのだから。
「明日で全部が決まるんだから。……だからこれはまだお預け」
名残惜しいが、わたしは仕方無しにそれを胸から離す。
「おやすみ」
そのまま、その黒いボディにキスをすると、わたしは再び眠りに落ちた。
コルト・ガバメント。
約二万円のそれは、今まで試したどんな睡眠薬よりも効果てきめんであった。
『――先日のS県T市の銃乱射事件の続報です』
日本で銃規制が解かれたのは、一体いつだっただろうか。
確かわたしが子供だった頃のことだ。
大人たちが揉めに揉めていたことだけは、今でも覚えている。
まあそんな議論には大した意味がなくて、晴れて日本でも拳銃が買えるようになった。
何故かって?
わからない、理由とか経緯とか、そういうのは忘れてしまった。
きっと一般教養とか一般常識に属することで、わたしも政経の授業で習っている。それこそ、わざわざニュースで解説してくれないくらいに。
「へえ、こんな事あったんだ」
一人きりの食卓。
わたしは朝食のコロッケパンをかじりながら、思わずつぶやいた。
もしかして模倣犯扱いされちゃったりして?
……それは嫌だなあ。
これは誰かのマネじゃない、わたしだけの犯罪なのに。
「一週間前のことなのに、無駄に長い」
やたらセンセーショナルに、犯人宅にアニメのブルーレイがあっただの何だのと、クソどうでもいい事を延々と話している。くだらねえ。わたしも漫画とか処分してからしたほうがいいだろうか?
「でもなんで、今更気づいたんだろ」
少なくともこうして毎朝、ニュースがBGM代わりに流れているというのに。
きっとこれも、銃規制が解かれた理由を思い出せないのと同じだ。
ニュースも一般常識も余裕のある人のためのもので、わたしみたいな余裕のない、自分のことで精一杯の人間からはすっぽりと抜け落ちていく。
「ってことは、今のわたしには余裕があるってことかしら」
それこそ、ニュースに耳を傾けるくらいに。
このまま、余裕の表情でパンパンと行きたいものだ。
『速報です』
なんてことを考えていたら、アニメと犯罪を結びつけた雑な論評を遮って、新しいニュースが転がり込んできた。
『昨夜未明、A県M市にて女性三名が頭を銃のようなもので撃たれ死亡しているのが発見されました』
アナウンサーが他人事めいて、冷たく言葉を紡いでいく。
「……嘘、でしょ」
『発見されたのは、小宮栄子さん(17)、酒澤はるかさん(17)、古藤ここねさん(17)の三名。ともに市内のT高校に通う女子生徒で――』
その忌々しい名前とともに、顔写真が画面に映った。
同姓同名の別人などでは、決してない。
そう、それは、間違いなく、間違えようもなく。
「……何、先に殺されてんのよ」
わたしが殺す予定の三人であった。