月を見上げる大小三つ目
七つ渦羽根という魔弓がある。
まず目を引くのはその異様な姿形だが、それ以上に凄いのがその威力だ。
渦を巻くように組み合った七つの霊木が生み出す破壊力は、弓の範疇を遥かに超えている。古い記録では竜の頭ですら一矢で潰したというその一撃は、初めて見る者を放心させることもしばしばだ。
だがしかし、その拵えは複雑怪奇の一言に尽きる。霊木部分は言わずもがなだが、その異形の弓を手に持ち引けるようにするために、弦の糸も蜘蛛の巣のように複雑に絡み合わせられており、それを知らない者だと一目では弓と見抜けないほど奇抜な形となっていた。
そんな異様な構造をしているがために、その作成と調整は普通の弓とは比べ物にならない程の労苦を弓職人に齎す。それ故、七つ渦羽根はこれまでに作られた数が八張りと非常に少なく、更に現在も使えるよう調整されているのはその中でも五張り限り。
その内の二張りは国府フェルドゥーベに、そして残りの三張りが国境近くの城砦に配備されている。
死者が彷徨う低地からの侵入を防ぎ止める要衝、ここセンドルス城にも七つ渦羽根の一張りが配備されており、その射手が使う高塔を水晶の塔と、そう呼んだ。
◆
水晶の塔の中程。七つ渦羽根の射手の待機部屋前で警備していたリヒルトは、少し離れた場所にある窓の向こう、低地を見やった。
窓は開け放しにされており、吹き込んでくる温く湿った谷風がリヒルトの肌と灰色の短髪を舐めて行く。配属されたばかりの頃には怖気に鳥肌だったこの感覚にも、二年も居ると随分と慣れたものだった。
遥か遠く、低地と呼ばれるその地が死者に侵されたのは二百年も前のこと。死者の氾濫によって、低地にあった村という村、街という街が滅びた。このディアス盆地に住まう二部族が生き残れたのは、偏にこの地の周囲を死者が登れないほど高い峰々が取り囲んでいたおかげだろう。
とはいえ、このセンドルス城のある南部だけが管のように低地へと山に遮られること無く続いているため、二百年前には低地と同じくこの地にも死者の大軍勢が襲い掛かって来たという。
高い石壁と強力な武装の数々により今でこそ難攻不落と化したセンドルス城だが、当時は今より遥かに貧弱な砦だった。後方には最終防衛線となっているベルヒリア大城壁も存在しなかったので、死者の大軍勢が押し寄せたそのとき、ここを抜かれればそのままこの奥に広がる盆地全てが滅びてしまう、そんなのっぴきならない状況だったと言う。
戦いは凄惨を極め、血で川が赤く染まるほど大勢の戦士が死んで、何とか辛うじて死者を押し留めることが出来たのだそうだ。
それ以来、死者が軍勢を率いて攻めて来ることは無かった。攻めるのを諦めたのか、存在すら忘れられたのか、それとも死者の軍勢を操る者が滅ぼされたのか。外の世界の情報が入って来ないリヒルト達には分からないことだった。
(いや、詮無い話だ。来たら潰す、それだけだ)
リヒルトは掌を見詰め、ぎゅっと握り締める。
思考を振り払い、意識も新たに職務を遂行する。そう、職務に邁進するのだが。
(そうは言っても、暇なんだよなぁ)
リヒルトの現在の任務は七つ渦羽根の射手の護衛だ。塔の中程にある待機室で控えている射手を守るべく、待機室前の扉で歩哨をしている。
しかしながら塔入り口にも歩哨はおり、そして入り口の門が開かれることは滅多に無い。
だからこそ、リヒルトが真面目に仕事をしていても、訪れるものはほとんど――敵に限っては一度も――いなかった。
そんなとき、下の方から金属の蝶番が軋む音が小さく聞こえて来た。
(おっ、珍しい。噂をすればと言う奴か……)
続いて、カツカツと階段を駆け上がる音がリヒルトの耳に届く。
近付いて来ていたのは単眼族の新兵だった。彼はリヒルトの前で立ち止まると、胸に手を当て敬礼する。
「伝令! 骸骨二、肉付き三、合計五体が大岩を越え接近中! 城代カイネリュース様より水晶の姫に七つ渦羽根の使用を要請とのこと!」
「五体とは多いな。距離は?」
「四里先であります!」
「……まだ余裕はあるな。分かった、戻って城代様には了解したとお伝えせよ」
「はっ!」
新兵が元気良く走り去ったのを確認してから、リヒルトは真鍮の扉叩きをゴンゴンと二回鳴らした。
「入るぞ」
「……どうぞ」
少し不機嫌そうな女の声に扉を開くと、簡素なベッドに彼女――水晶の姫と呼ばれる今代の七つ渦羽根の主――ロニャーナは座っていた。
どうやら、うたた寝でもしていたらしい。長くしなやかな黒髪は無造作に絡まっており、何より大きな一つの瞳が眠さを隠し切れていない。
その隙だらけな姿に、リヒルトは嘆息せずにはいられなかった。極限の集中力を必要とする七つ渦羽根の射手には塔に登っていないときの休息が許されているとはいえ、流石にこれは気が抜け過ぎではないか。
「久々の仕事だぞ、義妹よ。城代様から要請だ。骸骨二、肉付き三、距離四里だそうだ」
「ふぁーあ。わかった、義兄さん」
大きな欠伸と一緒に、右手を握って伸びをし、左手で瞼を擦る義妹。これが他所では文武両道、冷静沈着な氷の美女などと謳われて憧憬さえ抱かれている女と同一人物なのだということがリヒルトには信じ難かった。
「……ほれ、胸当てと髪留めだ。見られてるんだからな、見た目くらい整えろよ」
「ありがと。義兄さん」
胸当てと髪留めの紐を受け取り、にへらと笑う義妹。
「……その笑顔が外でも出来れば友達も出来るだろうになぁ」
こうして義妹が気の抜けた姿を見せるのはリヒルトや父と後数名の家族にも等しい人物の前だけで、それ以外の他人の前では無表情から一切顔を動かさないのだ。そのせいか、義妹には仲の良い友達がいないのがリヒルトには気掛かりだった。
「そんなもの、必要無いわ。私の世界は家族だけで完結しているもの」
「そういう所が心配なんだよ」
「……義兄さんは心配性なんだから」
紐で後ろ髪を縛りながら義妹はクスッと笑う。
そして程なく胸当てを付け終え立ち上がる。そして置いてあった矢筒を背負い、壁に立て掛けてあった七つ渦羽根を手に取った。
「準備出来たわ。行きましょ、義兄さん。義兄さんもちゃんと護衛の仕事してね」
「ああ。昔は飛龍が落ちて来たなんて話があるが、例えそんな状況になっても必ず守ってやる」
「頼りにしてるわ、心配性の義兄さん」
「そっちこそ、役目を果たせよ」
「それこそ任せてよ! これでも今代の弓取りに選ばれる使い手なんだから!」
自信満々に微笑む義妹を横目に、リヒルトは扉を開けて先導した。塔入り口に警備がいるため、先に誰かがいることは無いだろうが念のためだ。
屋上の扉前まで上がると、扉を開き先行する。前後左右、そして上空。異常が無いことを確認すると、扉前で立ち止まっていた義妹に手を振り合図を出す。
「骸骨二、肉付き三が四里だっけ。……ああ、見えたわ。あれね」
顔の中央にある大きな一つの目を南方――低地に続く谷へと向ける義妹。
「風が少しあるぞ。行けるか?」
「この程度、私と渦羽根には何の問題も無いわ」
纏められた後ろ髪を風で揺らしながら、塔の中心部、一段高くなったお立ち台の上に義妹は上がる。その口元は真っ直ぐに引き締められていた。
本館へ向かい一礼すると、義妹は横立ちに立ち肩幅に足を開く。それだけで、場の空気が一気に氷の世界に変わったかのよう。そこにはそれまでのような気安い義妹はおらず、七つ渦羽根に選ばれるに足ると皆が信じるだろう、一人の弓取りがいた。
七つの霊木の渦の中心、縦に通された握りを左手で握り締めると、右の細指は背の矢筒に伸び、一本の矢を取り出す。
矢を弦に番え弓を持ち上げると、少しずつ握りと弦の距離が開いていき。
その大きな瞳の虹彩が、獲物を捉えんと微細に引き絞られていく。
白い霊木が限界までしなり、肺腑を潰すように息が吐き出される。そして、時が止まったかのように一瞬だけ硬直し。
――弦が空気を叩く甲高い音と共にその右手が矢羽を離れた。
その狙いの先がどうなったか。すぐにリヒルトは遠く、谷間の先に目を凝らす。もうもうと土煙が起こっているのは見えるが、敵がどうなったかまで見えない己の小さな二つ目がもどかしい。
「やったか?」
「……土煙で今は見えないけど、狙い通りに当たったから多分問題無いわよ。……ああ、地面抉って爆発してるわ。半径は五間くらいだから、これは跡形も無く消し飛んだようね」
義妹は淡々と他所行きの顔で答える。
「……相変わらず弓とは思えない、とんでもない威力だな」
「ええ、そうね。私もそう思うわ」
それから土煙が完全に晴れるまで待っていたが、結局動き出すものは何も無かった。射る前と同じように義妹が本館へ向かって一礼すると、見ていた兵達がわあっと大きな歓声を上げた。
「じゃあ戻りましょうか、義兄さん」
急かされ、リヒルトは扉へ向かう。塔の中に入り誰も見る人がいなくなると、リヒルトは軽く肩を動かす。リヒルトには注目を浴びている状況というのがどうも好きになれず、ああして義妹が射る傍で立っていると何もしていないのに筋肉が凝ったような感覚を覚えてしまうのだ。
「相変わらず人前では淡泊だな。手でも振ってやれよ、喜ぶぞ」
後ろを付いて来るロニャーナを見やる。義妹は呆れたとでもいうような胡乱な目つきでリヒルトを見ていた。
「喜ばせてどうするのよ」
「いや、友達になれるかも知れないぞ」
「下心丸出しの友達なんて要らないわよ」
「……男なんて皆そんなものだがなぁ」
軽口を言い合っているとすぐに待機室に到着する。リヒルトは護衛として先に入って中を確認する。中は先程と同じで全く変わらず、誰かが入った形跡も無い。当然と言えば当然だが、怠って万一があればと考えるとしない訳にも行かない。
「はぁ。疲れた。とりあえず横になってるから、何かあったら教えて」
「ああ。ゆっくり休め」
義妹がベッドに辿り着くのを見る前に扉を閉める。まだ日は天高く、交代までは時間があった。することも無く、窓の外を眺める。長い谷間には死者の一体もおらず、遠く低地へと続いていた。
◆
死者の接近があった日から数日経った。
リヒルトとロニャーナは二人、石造りの回廊を歩く。
リヒルトは義妹の前では無く、隣を歩いていた。今日のリヒルトは七つ渦羽根の射手の護衛では無いからだ。
「なあ、何だと思う?」
隣を向くと、義妹の大きな瞳と目が合った。
「分からない。でもいい話じゃない気がする」
「奇遇だな、俺もそう思う」
義妹と二人、肩を竦める。
城の最高責任者である城代からの突然の呼び出し――それも義妹と一緒に――というのは、とても普通の話とは思えなかった。
そうこうしている内に城代殿の居室前に到着する。城代殿の居室前にはリヒルトより階級が上の人物が歩哨に立っていた。
二人揃って踵を合わせ、胸に握り拳を当てる。
「リヒルト・シュレーカー及びロニャーナ・シュレーカー、城代カイネリュース様の召喚命令に従い、参上仕りました」
代表してリヒルトが言うと、どうやら話が通っていたようで、歩哨の男は戸惑うことなく返礼する。
「リヒルト・シュレーカー様、ロニャーナ・シュレーカー様。中でカイネリュース様がお待ちです、お入りを」
「はっ」
家柄が上のリヒルト達に歩哨が遜り、そして階級が下のリヒルト達が歩哨に遜る。何ともおかしな気がした。
開けられた扉を潜り、義妹と共に中へと入る。少し固めの絨毯の先、執務机の奥に城代カイネリュースは腰掛けていた。
「リヒルト・シュレーカー及びロニャーナ・シュレーカー、城代カイネリュース様の召喚命令に従い、参上仕りました
「よく来てくれた、シュレーカー兄妹」
ふくよかな体躯を揺らす壮年の男。眼光穏やかな二つ目の彼こそ、城代のカイネリュースだ。リヒルトの家とは古く先祖からの盟友同士で、カイネリュースがリヒルト達の父とも気の置けない友人だということもあり、普段なら柔和に笑いかけてくる人物だった。だというのに、今日は全くそのような様子が無い。重苦しい、心痛と言ってもいいその面持ちに、リヒルトの中で悪い予感が膨れ上がる。
「……本日は一体どのような用件でお呼び頂いたのでしょうか」
リヒルトはそう言葉を切り出す。
対して、カイネリュースは執務机の中から一通の手紙を二人の前に差し出した。
「……今朝方、届いた物資の中に急を知らせる手紙が紛れていた。大変残念なことだが、君たちの父、ガンネロルド殿が危篤だそうだ」
「なっ……」
そう驚きを口に出したのは義妹だ。それも無理はない。リヒルトだって隣に義妹がいなければ、思わず驚きが口に出てしまったかも知れない。
「これだ。読み給え」
「拝見します……」
差し出された手紙をリヒルトは受け取り、開く。「リヒルト・ロニャーナ・シュレーカー様へ。父危篤。すぐ帰れ。ナネルエより」そんな簡潔な一文だけがそこにはあった。
その少し丸っぽい筆跡には覚えがある。女中のナネルエのものに間違い無かった。
「君たちは急いで帰りなさい。今なら最期に一目だけでも会えるかも知れない」
「しかし、私は七つ渦羽根の射手です」
義妹は身を前に乗り出しそう言った。その目元は不安そうにびくりびくりとしており、葛藤が見て取れる。あの父に「責任を以て役目を果たせ」と言われたと、一人前と認められたと喜んでいた義妹には、父の名が出ればこそ、尚更その言い付けを破ることは出来ないのだろう。
「その責任感、流石はガンネロルド殿、良い子を育てておる」
カイネリュースの視線は暖かい。昔の記憶を思い返すように、遠くへと思いを馳せているように見えた。
「だがな、ロニャーナ君よ、替わる者はいる。水晶の塔には君の前任だったゲッベラーを付ける。……なぁに、こういうときのために奴には早めに席を譲らせたのだ。喜んでその任を果たすじゃろうて」
カイネリュースの口調は幼子を諫めるよう。聞かされたロニャーナは頷きつつも、はいとは言わない。心の奥底にはそうしたいという気持ちを抱えているが、果たして本当にそうして良いのかと逡巡しているようにリヒルトには思えた。
そんなロニャーナの背を押そうと、リヒルトは手を伸ばす。
「ロニャーナ、帰ろう。父さんに会いに行こう」
「義兄さん、でもっ……」
反論したそうな義妹の頭を、リヒルトはぽんぽんと優しく撫でる。
「城代様が大丈夫だと言ってくれているんだ、任せよう。今は戦時でもないんだ、お前がいないせいで城が落ちたなんて話にはならないよ。それに、今行かなかったせいで『父さんの死に目に会えなかった』って、思い出す度に後悔する方が良いのか?」
「……それは、嫌」
「じゃあ、行こう。それでは城代様。少しの間宜しくお願いします」
「ほっほ、ここのことは心配せんで良い。……それにしても、リヒルト君はお父君によく似て来たのう。今のあやし方なんぞ、昔見たガンネロルド殿そっくりじゃったよ」
「あやし方って、私が子供みたいじゃないですか」
子供のように拗ねてムッとする義妹に、リヒルトは笑いはしないが、少しだけ幼い妹を慈しむ気持ちを心の奥で感じた。
しかし、悠長にしている訳にもいかない。リヒルトは踵を鳴らし胸に拳を当て敬礼の姿をする。すぐにそれを察した義妹も続く。
「格別のご配慮、感謝いたします。それでは我々はこれで失礼します」
「うむ。それでは我が友ガンネロルド殿に宜しくと伝えてくれんかの」
その柔らかな口調に、カイネリュースの確かに深く友を案じているのだと、確かにリヒルトは感じた。父を真剣に案じていてくれる人がいるのだということが何とも嬉しく、感じ入る。
だからこそ、リヒルトはカイネリュースの目を真っ直ぐに見返し、真摯に言葉を選ぶ。
「はっ。カイネリュース様のお言葉、必ず伝えましょう」
そう言い切り一礼する。
そしてリヒルトは義妹と共にカイネリュースの居室を辞し、すぐさま実家への帰路に就いた。
城に物資を運んで空になった帰りの荷馬車に乗り込んで国府まで役半日、そこから更に歩くこと二刻ほど。二人が実家に着く頃にはもう日が山の陰に隠れようとしていた。
実家の門を潜るが、玄関までの間には誰も見えない。
無駄に長い庭を歩き玄関に手を掛ける。鍵は掛かっておらず、軽い力で戸が横に動いた。
「ただいまー。誰かいないかー」
「ただいまー。ナネルエさーん、ジェスフィさーん」
リヒルトとロニャーナは戸を開き声を上げる。晩夏のせいか喧しいほど大きな虫の合唱に交じり、「はぁい」と言う声が遠くから聞こえ、次いでばたばたと床板を蹴る足音が近付いて来た。
「はいはい、どなた……ってあら、坊ちゃまとお嬢さまじゃない。良かったわぁ。あ、ジェスフィは旦那様の所よ。それにしても、随分と早く帰って来れたわねぇ」
ひょっこりと廊下の奥から顔を覗かせたのは恰幅の良い中年の女性だ。帰って来た二人を見て朗らかな笑顔を見せた彼女こそ、父の急を知らせてくれた女中のナネルエだった。
彼女ともう一人の女中ジェスフィは義妹の家族枠に入る数少ない人達で、リヒルト自身も子供の頃から面倒を見て貰っているので立場的には上だが頭が上がらない相手だった。
「ナネルエさんが早く知らせてくれたからよ。……それで、義父さんの具合はどうなの? 間に合ったんだよね」
「ああ、もちろん間に合ったとも。今は眠っておられるけれど、昨日診て下さったウールキ先生の話によれば、もってあと数日の命だとか……」
それを聞いたリヒルトの心にあったのは諦念だった。ウールキ先生は薬学に精通した父の主治医だ。危篤と言う知らせが間違いであればと心の奥底ではずっとそう思っていたが、前々から具合の悪かった父に薬を煎じてくれていた先生がそう断言したのなら、もう覆すことは出来無いのだろう。
「……そうなんだ」
リヒルトの横で、暗く、若干俯きながら義妹はそう溢した。
昔からお義父さんっ子だった義妹のことだ、無理も無いだろう。その衝撃は、人付き合いを家族に絞っている分、実子のリヒルトより義妹の方が大きいかも知れない。
そんな義妹の様子を見て取ったのか、ナネルエは手をぱんと合わせた。
「あらあらいけない、話し込んじゃったせいか、私ったらお濯ぎの水の用意を忘れていたわ。すぐに用意するから、詳しい話は足を洗って屋敷に上がってからにしようかね」
「いや、外の井戸を使ってこちらでやるよ。そっちこそその手のお玉、料理中だったんじゃないか?」
「おや、悪いねぇ。それに、二人の分も追加で用意しとかないと。それじゃあお話は料理の後でも宜しいかい?」
「ああ、それでいい。……晩ご飯、楽しみにしているよ。ここまで碌に食べずに来たもんだからお腹がぺこぺこなんだ」
空元気だがリヒルトは笑って見せた。義兄として、落ち込んでる妹の傍で自分まで暗い顔になる訳には行かないという意地があった。
そんなリヒルトの虚勢にナネルエは微笑みを返す。
「ふふっ、それは大変だねぇ。急いで準備するよ。……お嬢さまも、ずっとそんなお顔だと旦那様を心配させてしまうよ」
「……ナネルエさんには敵わないなぁ。うん、分かった。私も義父さんを心配させたくは無いからね。気合い入れるわ」
「……程々にしておけよ」
「まあっ、坊ちゃまったら」
はははと三人で笑い合う。そうして笑ったら少しだけ心が軽くなっていた。
食事の前に義父さんの顔だけでも見たいという義妹の申し出により、三人は父の寝室の隣部屋まで来ていた。
襖を少しだけ開いてこっそりと覗くと、父は苦しそうに汗を流しながら眠っていた。
その頬は半年前に里帰りしたときより明らかに痩けており、かつて艶々としていた黒髪は白髪交じりとなり萎びたように力が無い。
「大分お痩せになったでしょう?」
そう言ったのは父の寝室で控えていたジェスフィだ。ナネルエと同じく女中として住み込んでおり、見た目は若いがリヒルトよりも一回り以上も上で、痩身の彼女もナネルエと同じくリヒルトが子供の頃からこの屋敷で働いていた。
襖を開き切り、中へと入るようにと手招きするジェスフィに促され、そのまま父の布団の隣までそっと近寄る。父がその物音に反応しなかったことに安堵する一方、それだけ近くに来ても気付かず眠り続ける父の具合の悪さに心が重くなった。
「ここ数日はほとんどこのように眠られております。……痛み止めのお薬を処方頂いているのですが、それも効き目がそう長くは無いようで、服用から時間が経つとこのように苦しまれるご様子でして……」
「そうか。苦労を掛けるな」
「いえ、とんでもありません。かつて我が家が受けた御恩に比べれば。むしろ先祖の御礼をこうしてお家にお返し出来ているという喜びに胸が一杯で御座います」
彼女の一族は二百年前にこの盆地に逃げて来た難民で、その頃の恩を忘れず今でもシュレーカー家に仕える忠臣の家系だった。
だが、例えそのような来歴があったとしても、こうして世話を掛けて当然だと見下すような考えを持つことはリヒルトには出来無かった。
リヒルトは身体を女中の二人に向け、心に宿る熱に身を任せ頭を下げる。
「それでも、感謝している。ナネルエさんも、だ。有難う」
「わたしからも。義父さんを助けてくれて有難う、ナネルエさん、ジェスフィさん」
「お二人とも、頭をお上げ下さい。……特にリヒルト様! 貴方は人間族十四将家の御一つ、その直系の次期当主様なのですよ! 私のような臣下如きに頭を下げるなど……」
あわあわと慌てて手をばたつかせるジェスフィに、ナネルエが呆れたように笑った。
「相変わらずジェスフィは堅いねぇ。良い子に育ったって喜んで上げれば良いんだよ」
「しかしナネルエ様、それとこれとはまた話が別で……」
「そう言う一族だからこそ、私や貴女のご先祖様は助けられたんじゃないか。……もっとも、こっちはあんたのとことは違って借金からだけど、ねぇ」
「……それは、そうかも知れませんが」
小声で言い争う二人。
そんな二人を前に義妹はもう一度だけ父の顔を振り返り見て、「うん」と一つ頭を上下に動かした。
「もういいわ。義父さんの顔を見れて、少しほっとした。……行きましょ。これ以上五月蠅くすると義父さん起きちゃうかも知れないし」
義妹はそう小声で言って振り返る。一先ず義父に会いたいという想いは満たされたのだろう、落ち着いた声には少しの安堵が乗っていた。
居間に向かうと、すぐに晩ご飯になった。
「話は食事の後で」とナネルエが玄関での話を繰り返したこともあり、穏やかな空気ではあるものの会話は少なく、二人の箸の音が居間に響く。
久々の実家の食事をリヒルトは懐かしみながら口に運ぶ。斑蕪と白身魚の煮付けなんかは軍の食事でも出て来るこの時期の定番料理だが、微妙に味が違うのだ。あれはあれで美味しくはあるが、こうして親しみのある味と比べるとやっぱり実家の味が勝るなとリヒルトは蕪を噛み締めながら思った。
普段より五割増しくらいの勢いで食が進み、ご飯が飲み込まれるようにすぐに減る。椀が空になるとナネルエが椀を取り、「はい、御代わり」とすぐに用意してくれたので満腹を感じる間よりも早く食事が喉を通り、リヒルトが限界を感じる頃には普段の倍近くのご飯が腹に収まっていた。
「……坊ちゃま達がいると、ご飯の減りが全然違うねぇ」
「もう。……だって、久しぶりのお家のご飯だったから、つい……」
頬を緩めるナネルエの視線の先を見ると、義妹が恥ずかしそうに顎を引いて前髪で目元を隠していた。
「そ、それで、ご飯は皆食べ終わったわよ。義父さんの話を聞かせてくれるんでしょ!」
「ああ、そうだったね……」
ナネルエは半年前二人が城へと行った後のことを訥々と語り出す。
二ヶ月くらいはこれまで通りで少し苦しそうにしながらも庭先に出たりしていたが、雨季のある日に急に苦しみ出して床に臥すようになったこと。それから一時は家の中を歩けるまで回復したので安心していたら、数日前に倒れたこと。そして、ウールキ先生を急いで呼んだらもう長くないと宣告され、すぐに城の二人へと知らせを送ったこと。
「後はずっと寝たきりさ。自分の力で身体を起こすことも出来ず、一日中苦しそうで。見ていられないよ……」
そうナネルエは悲しそうに語り終える。その間、リヒルトとロニャーナはずっと口を開かずナネルエの言葉をただただ受け入れた。
「……それじゃあ、話も終わったしそろそろ旦那様の所へ行こうかね」
「うん、そうだね。義父さんもそろそろ目を覚ましたかも知れないしね」
襖をそっと開くと、丁度父がジェスフィに支えられ布団の上で半身を起こしていた所だった。
「義父さん!」
感極まったロニャーナが駆け寄る。その大きな一つの瞳からは、大粒の涙を幾つも溢していた。
一息で近寄った義妹に父はその双眸を確りと向け、そして視線を動かし義妹の後ろにリヒルトもいることを見付けると、ぎこちなく口元を綻ばせた。
「……ごほっ、ごほっ」
「義父さん、無理しないで」
「……ぁあ、いや、すまんの。……二人とも、お帰り。よく帰って来た」
「ただいま、義父さん!」
「ただいま、父さん」
ほんの少し上げられた両手の下に手を伸ばし、リヒルトとロニャーナは父に抱き付いた。その身体は骨が浮き出ており、記憶の中にある逞しい父の身体とは似ても似つかない。
号泣する義妹だけでなく、リヒルトの頬にも熱いものが二つ伝い落ちる。変わり果てた父の身体に触れ、最早自分を騙すことも出来なくなっていたのだ。
そうして泣く二人の背を、弱い力でとんとんと父の手が擦ってくれた。
そして、父は小さな声で二人に向けて語り出す。
「……リヒルト、十四将家の当主の座はお前が思うより遥かに重い。それを儂自身が教えれれば良かったのだが。すまんな、もう儂には時間が残されてはおらんようだ」
「いえ、いえ……そのくらい、何てこともありません」
涙で言葉が擦れるリヒルト。
「ああ、心配してはおらんとも。お前なら出来る。……儂は駄目な親だ。お前に親として何もしてやれなかったな。子供の頃はほとんど相手をしてやれなんだし、こうしてお前には面倒ばかり押し付けて逝く。だが、そんな儂の元でもお前は真っ直ぐに育ってくれた。それが儂には嬉しい」
「……は、い」
「十四将家のことはカイネリュースに聞け。奴の家とは死者の群れが来る前からの盟友。信頼に足る同志だ。きっとお前に手を差し伸べてくれることだろう。……ところで、奴のことだ、何か言っていたのでは無いか?」
「我が友、ガンネロルド殿に、宜しく、と」
「はっは……ごほっ、ごほっ……我が友とは、彼奴らしい。では、そうだな。『先に待つ、じゃあな友よ』と、そう伝えておいてくれ」
「……はい。確かに、承り、ました」
「ああ、宜しく、頼む。……それで、ロニャーナ」
「……あい」
義妹が父の身体から顔を離す。その目から、鼻から、口から液体を垂らすその顔は、外では無表情と言われているなんて思えないほど崩れに崩れていた。
「そう泣くな、美人が台無しだぞ。……お前が結婚するまで見守りたかったが、不甲斐無い父を許してくれ」
「うわぁあああん」
義妹は更に激しく慟哭し、父に抱き付いた。
「……ははっ。ごほっ……あの家にはお前に手を出さぬよう何度も牽制してはいたが、儂が死んだと知れば、すぐさまお前を手に入れようと動き出すだろう」
あの家、というのは義妹の実家のことだろう。
「ロニャーナ、すぐにでも好きな男の元に嫁ぎなさい。でなければお前の縁談が裏で進められ、取り返しのつかないことになるだろう」
「……わがり、ばじだ」
何度も首を縦に振り、言葉を濁らせながらロニャーナは答える。
「ああ、幸せにおなり。……リヒルト、ロニャーナを守り、その望みを叶えよ。そのためなら先祖代々の家宝を幾ら売り払っても構わん」
「……分かりました。必ず、守ります」
父の瞳に宿る覚悟に、リヒルトは姿勢を正し了解の意を示した。リヒルト自体は義妹の実家と直接やり取りしたことは無い。だが、父がこれほど言うのだ。それほどの相手なのだろう。父の代わりに義妹を絶対に守ると、リヒルトはそう心の底から誓った。
「頼むぞ、リヒルト……っがはッ…ぐッ」
「旦那様!」
激しく咳き込んだ父に、その後ろで控えていたジェスフィが飛び出す。
「……も、もんだいない、わい」
「旦那様……」
「あの家とやり合ったときに、ちと無理をし過ぎた。だが、後悔はしておらん。こうして二人の子に囲まれ死ねるのだからな……」
そう満足そうに言い終えると、眠るように父は気を失った。
父が息を引き取ったのはそれから暫く経ってから。月の光も陰る暗い日の出前のことだった。
◆
父が亡くなってから、葬式を自ら手配しなければならなかったリヒルトは、父の死を嘆き悲しむ時間も無いほどの忙しさに目が眩みそうだった。
ほんの近隣にしかその訃報は届かないだろうに、それでも多くの人が葬式に来てくれ、そして父を偲び、あるいは悲しんでいった。
死者として起き上がらないよう念入りに焼かれた父の骨を墓に入れ、全てが終わり家に返って来れたのは父の死から二日後の夕方のこと。
リヒルトは成人したばかりの頃に父に譲って貰った着流しを羽織り、縁側で月を見上げ一人佇んでいた。
父を亡くして悲しいのに、涙は出ない。
それ以上に父に託されたことをしなければという想いが強いのだ。
だが、どうやって義妹を守ればいいのか、誰が敵で誰が味方なのか。そうして考えれば考えるほど、リヒルトには知らないことが多過ぎると気付く。
杯に酒を注ぎ、一口飲む。そうしていると、この縁側で父と初めて酒を酌み交わした日を思い出す。
「ご一緒しても宜しいですか」
振り向くと、浴衣姿の義妹がいた。リヒルトが頷くと、「よいしょ」と可愛い掛け声と共に義妹はリヒルトの左隣へと腰を下ろす。長い黒髪は頭の上に編み上げられており、いつもは見えない白いうなじが月の光で良く見えた。
義妹はリヒルトの飲み掛けの杯を手に取ると、それを自らの口に当て、喉をごくりと嚥下させた。
「こうやって、義父さんとお酒、飲みたかったなぁ」
「……ああ、お前が大きくなった頃には、父さんもう酒駄目だったもんな」
「うん。……結婚式も見せられなかったし、子供も。七つ渦羽根の射手なんてやってる場合じゃなかったかもって今更ながら思うの。そんなことより親孝行しておけば良かったって」
義妹は瞳の先を地面に落とす。その落ち込んだ頭を左手で軽く撫でる。
「そう言うな。父さん喜んでただろ。お前が射手に選ばれたった報告したら、『七つ渦羽根の射手なんて、単眼族でも指折りの弓取りじゃないと選ばれないんだ』って、自分のことみたいにはしゃいでさ。あんなに喜んだ姿、俺はあれが初めてだったよ」
「……うん。ありがと、義兄さん」
「それで。親孝行しておけば良かったって言うんだ、相手は誰だ?」
義妹はきょとんとして大きな瞳をこちらに向けた。
「そんなもの、いないよ。……私は父さんが選んだ相手と結婚すればいいやって思ってた。こんなことなら、もっと適当に相手を見繕っておけば良かった」
「適当って……そんな風に選んだら、俺も父さんも反対するぞ」
「そっか。そうなんだ。……じゃあ、相手いないや」
義妹は空を見上げ、足を子供みたいにばたつかせた。
釣られてリヒルトも義妹の視線の先を見ると、叢雲が月に覆い被さろうとしていた。
「なあ、お前の生家のこと聞いていいか」
「そう言えば、義兄さんとは前の家の話全然してなかったね」
「お互い、何となく避けてたよな……」
「うん、そうだね……」
出会った頃はお互い子供だった。何となく触れちゃ駄目な気がしていて、それを聞く機会が今まで無いまま、こうして大人になってしまっていた。
「……私の生家はね、単眼族の八家紋の一つフェリス・レフェス家に仕える家臣の一家。その家で私の面倒を見てくれてたのはお祖母ちゃん。母さんは私が生まれた後すぐに死んだって聞いた」
月が陰り、義妹の頭が少しずつ下がって行く。
「あの家の人達はね、私をどう嫁がせれば家に最も利益を生むかって良く言い争ってた。私の母さんがね、一族で初めての七つ渦羽根の射手だったんだって。母さんは下らない男と一時の情を交わしてすぐ死んじゃったけど、生まれたのは幸い女の子だから、まだ良家に嫁がせられるって、そう言ってた」
「おいおい、それじゃあお前が射手なんかになったら……」
「大喜びだろうね。親子二代で射手になる、弓取りの血を次代に繋げられるって売り込めるとか考えてそう」
リヒルトは唖然とする。これは確かに、父があれほど念を押して来る訳だ。
「あの家から義父さんに連れ出して貰えて、この家で義兄さんやナネルエさん、ジェスフィさんに出会って、私は初めて愛情を知ったの。私はもう、あの家には戻りたくない」
「安心しろ、俺が絶対にそんなことにはさせない」
義妹の瞳を真っ直ぐに見詰める。父から想いを託されたからだけでは無い。リヒルト自身も家族として、義妹を深く愛しているのだ。
だが、そんなリヒルトに対し、義妹は困惑したように瞼を歪める。
「……それじゃあ、結婚しないとなぁ。でも、私はこうして義兄さんや皆と一緒に居られるだけでいいのに。ずっと一緒に居たいのに……」
そう言って義妹は目を逸らす。まるで感情を読み取られたく無いと拒絶しているかのように。
そんな義妹の姿に、リヒルトはこの問題が抱える矛盾に気付いてしまった。父の遺言は結婚せよと言うもの。それは義妹自身を守るために必要なことだ。だがしかし、愛する男性がいない義妹は、その嫁入りで確実に自らの幸せから遠ざかってしまう。
こちらで相手を選べるならば、まだ良識ある人物の元に嫁ぐことはできる。その分だけ義妹の生家に勝手な真似をされるよりはマシだろうが、どちらにせよ義妹にとっては望むべからざる状況であることには変わりは無いのだ。
「私はね」
泣きそうな声で切り出す義妹。月が隠れたせいで前髪の陰が義妹の顔を覆い隠している。
「母さんがなったって言う七つ渦羽根の射手になれば、母さんと同じことを感じられるかなって、そう思って射手になりたかったの。……変だよね。こうしてあの家に狙われるって心の底では分かってたのに、見たことも無い母さんの跡を追ってたんだ」
「変なもんか。お前がやりたいって望んだんだ。それで生まれた迷惑くらい、俺も父さんも喜んで引き受けてやるさ。……それで、どうだったんだ? 何か分かったか?」
「うん、ありがと、義兄さん。……母さんの物とか記録は何も見付からなかったよ。けどね、水晶の塔から母さんが見てた景色を見て、七つ渦羽根を引いて、離す前の集中し切った一瞬があるの。その時だけ、多分母さんもこうしてたんだなって不思議なことだけど確信出来たんだ」
「それだけでも行った価値はあったな。……二代続けてだからな、きっと間違いないさ。凄いよ、お前もお前の母さんも」
リヒルトは心の底から、この母娘に尊敬の念を抱いた。七つ渦羽根の射手は単眼族の武人にとって最大の名誉とも言えるものだと言う。それは血筋だけでなれる訳では無い。リヒルトが知る義妹のように、彼女の母もその目標に向け並々ならぬ努力をしたはずだ。
「そ、それはいいから。……それじゃあ、次はそっちが話して。私も義兄さんの母さんのこと、何も知らないから」
照れたように慌てる義妹に口元を緩ませながら、リヒルトは昔を思い返す。
「そうだなぁ……実は俺も良く知らないんだ。俺が物心付いたときには既にいなかったし、代わりにナネルエさんたちが居たからな」
「ええっ、それって薄情過ぎません!?」
「確かに、そうかも知れないと俺も薄々感じていた。……だがなぁ、父さんはほとんど家にいなかったし、帰って来てもこう両方の口元を斜めに下げて、終始むすっと不機嫌面でさ。そんな状況だったんでな、聞くに聞けなかった」
「あの義父さんが、そんな姿を見せるなんて……」
手で口角を下げてあの頃の父の顔を真似てみたリヒルトに、今度は義妹が口を開け驚いた。
「……そっか、私にも色々あったみたいに、義兄さんにも義父さんにも色々あったんだよね。考えてみれば当たり前のことだね」
「俺にしてみれば、お前を連れて来てから父さんの雰囲気が一気に和らいで、本当に唖然としたぞ。中身が入れ替えられたかと考えて夜震えてたこともあった」
「へえー。そんなに変わったんだ、義父さん。それにしても、震えてたって、義兄さん……」
「わ、笑うなよ。実際あんなに急に変わったら誰でもそう思うさ」
義妹は小さく笑い声を漏らす。義妹が何も取り繕うことの無く自然な笑みを浮かべるのは、こうして今日語り合ってから初めてのことだった。
くつくつと笑う義妹の姿に、リヒルトは馬鹿らしくなって笑った。
この人見知りな義妹が辛い顔をしているよりは、自分の醜態を知られたとしても笑っていてくれる方がマシだった。そう思うと羞恥心なんて霧散してしまったのだ。
何としてでも義妹には幸せになって、笑っていて欲しい。
それは父との約束であり、義兄としてのリヒルトの義務だ。
だが、度し難いことに、義妹の未来には幾つもの壁が立ちはだかっている。
取り分け大きいのが結婚だ。
結婚すれば最悪の未来は避けられるが、義妹は大好きなこの家を離れなければならなく――
そこまで考え、「あれっ?」とリヒルトは一つの閃きが脳裏を過った。
――あるじゃないか、簡単な解決策が。義妹が不幸にならなくても済む、完全な答えが。
リヒルトは零れる笑みを押さえ切れないまま、顔を義妹に向けた。
「――なあロニャーナ。俺と一緒にならないか?」
「はいッ!?」
ロニャーナは素っ頓狂な声を上げて跳ね上がった。
「是、と」
「いや、いやいやいや、ちょっと待って義兄さん! 何でそんなことを急に……」
上半身を後ろに倒し、両手をぶんぶんと振り回す義妹。
雲が途切れたのか、一瞬だけ月の光が義妹を照らした。その顔は羞恥で真っ赤に染まっていた。
「お前はここに居たい。俺はお前を幸せにしたい。だからだ」
リヒルトは出来るだけ簡潔に答える。
「いやっ、確かにここに居たいとは言いました。でもですね……」
「兄妹と言っても義兄妹だ。血の繋がりは無い。何も問題は無い」
「何も問題は無いって……今までこうして兄妹だったんですよ!? 急に男女の関係になれって言われても、ちょっと答えられません」
「別に無理に関係を変えずとも良い」
「へっ?」
義妹は悪霊に化かされたような、女性とは思えぬようなだらしない声を出した。
「だってそうだろう? 結婚さえしてしまえば、それで全てが万事無事解決するんだ。後はお前が望む関係でいればいい。お前はお前が幸せな関係を考えておけばいい」
「……それは、結婚しても今まで通り兄妹関係であれる、と?」
「お前がそう望むのなら、な。……どうだ? 凄く良い解決策だと思ったんだが」
義妹は長い溜息を吐き出した。呆れて物も言えないと、そんな想いが言葉に出されていないのにありありと伝わって来た。
「……義兄さん、私は今現在、義兄さんを一人の男性としては見れません」
「ああ、構わない」
「義兄さんは私を女として……いえ、やっぱり今の無しで。聞いたらきっと後悔する」
「そうか。なら今のは聞かなかったことにしよう」
「ええ、そうして。それじゃあ……」
そこまで言って、ロニャーナは深呼吸をして。
そして覚悟したようにその黒曜石のような瞳孔を大きく広げリヒルトを見た。
「……もう一回だけ機会を上げる。だから、今度はちゃんとした口説き文句で求婚して。それ次第では考えなくも、ない」
その顔は真っ赤で、言ってるうちに恥ずかしくなったのかその言葉は尻すぼみで最後の方はほとんど呟きだ。そして言い切った後にはさっきの覚悟がどこに行ったのやら、もじもじとなっていた。
そんなとき、今度こそ雲が晴れたのか、庭先から光が差し込み出す。そして、縁側に座る義妹の姿が足元から厳かに月影に照らし出された。
青い月光に染まる義妹の面映ゆい姿に、リヒルトの心臓が一際大きく揺れ動いた。その姿はこれまで見た女性の誰よりも可愛らしく、そして愛おしかった。
ロニャーナの病に感染したかのように、リヒルトも身体が火照って来る。
どくどくと高鳴る心音はまるで膜を限界まで張った太鼓の音のように大きく響き、息は興奮した犬の如く荒くなり。
満月の下、たった二人しかいない世界で、リヒルトは唾を大きく飲み込み、意を決す。
「ロニャーナ!」
「は、はぅ、いえっ、はいっ!」
「俺は笑っているお前が好きだ。思い詰めているお前を見ていたくは無い。……だから、俺の元へ来い、ロニャーナ! 俺が、お前の望みを叶えてやる! お前を幸せにして見せる!」
「にい、さん……」
ロニャーナはその大きな水晶のような瞳を潤ませ、胸の前で手を掻き抱いた。そしておもむろにその細く小さな右手をリヒルトの左手の上に重ね合わせた。
「……今度こそ、いいんだな?」
「……はい。不束者では御座いますが、幾久しく、どうか宜しくお願いいたします」
そう言って、ロニャーナはリヒルトの左手に寄り掛かり、その顔を押し付けた。
義妹から妻になる彼女が、どんな顔をしているのかが己の腕に隠れて見えない。だが、隠し切れていない耳が太陽のように真っ赤になっていた。
「……お願い。後生だから、今はこっち見ないで」
「すまん……」
リヒルトは慌てて視線を逸らし、月を見上げる。
少ししてロニャーナはリヒルトの左腕から顔を離した。
身動ぎしたロニャーナの右手がリヒルトから離れそうになり、リヒルトは慌ててその手を掴む。ロニャーナの手とリヒルトの手が位置を探り合うように動き合い、いつしか指と指の間に互いの指を通して握り合っていた。
そのまま、何も言う事が出来ず、顔を合わせることも出来ず、手だけで繋がり、ただ時間が過ぎて行く。
二人の瞳は空の彼方の満月を見上げたまま動かない。それが緊張してなのか恥ずかしくてなのか、原因が何なのかも分からない。だが隣のロニャーナも同じなのだという一体感だけが掌を通して伝わって来た。
「……今夜は、月が良く見えますね」
そうして動けなくなってどれだけの時間が経ったか分からない頃、ロニャーナが口を開いた。
「ああ、そうだな。綺麗な満月だ」
リヒルトは鷹揚に頷く。
「ええ。こんなに月が美しいなんて、思わなかったわ」
「こうしてじっと月を見上げることなんて、大人になってからは無かったな」
「私も。……ねえ、義兄…いえ、旦那様と呼ぶべきかしら」
「どちらでも。好きな方で呼べばいいさ」
「うん、じゃあ義兄さん。……私のこと、大切にしてね」
「ああ、勿論だ。約束しよう」
「うん、期待してる」
ロニャーナは自らの右肩をリヒルトの左腕に、ちょこん、とくっ付けた。
そのまま月が空の天辺から降りて行き、朝日が昇るまで。二人はそのまま空を見上げ続けていた。
◆
善は急げと言うことで、リヒルトはロニャーナを連れ、その日の内に奉行所へと婚姻を申し出た。義兄妹と言うこともありあっさりと受理され、これで二人は書類上では正式な夫婦となった。
帰ってからナネルエとジェスフィに事後報告すると、二人は驚いたものの安心したと揃って言い、リヒルト達を祝福してくれた。
とはいえ、その日に出来たのはそこまでだった。夜の間は気が昂っていたとはいえ、すぐに溜まった疲労が隠せなくなり――特に見上げ続けたせいで肩と首の痛みが深刻となり――その日は祝賀会も出来ず、明るいうちに床に就くことになった。
そして次の日の朝、まだ暗いうちに女中二人に見送られてリヒルトとロニャーナは実家を発ち。二人の職場であるセンドルス城に着いたのは日が中天を通り過ぎ、少し落ち出した頃だった。
センドルス城の城代居室。
帰還の報告をするため、二人は来る前と同じように城代カイネリュースの元を訪れていた。
リヒルトはまずは格別の配慮をしてくれたカイネリュースに感謝を述べ、続いて今回の経緯を掻い摘んで話した。父の死に目に会えたこと。カイネリュースの言葉を聞いて『先に待つ、じゃあな友よ』と答えたこと。ロニャーナの生家のこと。そして――
「――そう言う訳で、ロニャーナと結婚しました。式はまだ日取りも決めてはいませんが、書類上は既に夫婦です」
「ほっほ。ガンネロルド君の死は残念だったが、今回の件でそれだけはめでたいことじゃな。どれ、事を荒立てんためにも、ロニャーナ君の実家にはこちらから伝えておこう」
「……宜しいのですか?」
「ああ、勿論だとも。彼もあの家との諍いで相当苦労しておったからの。この老骨はもう身体は動かんが、いつの間にか人間ならば動かせるようになってたのでな、亡き友の子らの新しい門出にケチは付けさせんよ」
「……それは、大変心強いお言葉です。有難う御座います、カイネリュース様」
ロニャーナは少々下げ過ぎでは無いかと思えるくらい深く頭を下げる。
そんなロニャーナを見て、「ふむ」とカイネリュースは顎に手をやる。
「ロニャーナ君。感謝を言えることは美徳じゃが、残念なことに君ももう十四将家当主の奥方となった。この場には気心の知れた我々しかいないが、他の者の前ではどれだけ頭を下げるかは慎重に判断し給え。……勿論リヒルト君もじゃ」
「はい、分かりました。お言葉、胸に刻みます」
「夫の言葉と同じく。私も胸に刻みました」
「ほっほ。宜しい。聞き分けの良い若者は教え甲斐があって良いのう……むっ」
カイネリュースが眩しそうに窓の外へと視線を動かす。見れば、夕日が山向こうを朱に染めていた。
「……ふむ、もうこんな時間か。随分と長く話し込んでしまったの。そろそろ自室に戻り休みなさい。ロニャーナ君には明日の朝から七つ渦羽根を任せよう」
「畏まりました」
二人はその場で一礼し、そして部屋の出入り口まで来てもう一礼をして立ち去った。
◆
二人がそれまでいた扉を、カイネリュースは見やった。
友の死は悲しいが、それでも彼の跡継ぎは良く育っている。
特にあの息子は、顔立ちも考え方も、若い頃の友に髪の色以外はそっくりで、それが愉快で堪らない。
しかし、それにしても。
「――単眼族の美女を妻にする所まで同じとは。リヒルト君は本当にガンネロルド殿に良く似ておる」
カイネリュースが何気無く溢したそんな言葉を、二人が耳にすることは無かった。
ラブコメタグで飛んできた方、ご無事でしょうか。
「 死 亡 確 認 」
ええ。そうだと思います。だって滅茶苦茶重いですもん。
言い訳をさせて下さい。最初はこんな重い話になる予定は無かったんです。
可愛い単眼ちゃんとイチャイチャするだけの話が出来るはずだったんです。
それがどういう訳かこのような重苦しい話に。ええ、私にも何が何やらさっぱり分かりません。
これはあれです、不可抗力って奴です。つまりは仕方が無かった。そう、人間諦めが肝心なのです。
ほら、見て下さい。タグに「重い」って入れてますし。予防線はバッチリ張ってますよ。
ですから、どうか。どうかその銃口をおろし―――――――――<手紙はここで途切れている。>