屍を超えてゆけ、by乙女の母
ドン、という鈍い音がして、上空から濃い“気”の塊を叩きつけられたかと思うと、いつの間にか天狼の前脚に自分の首根っこを押さえ付けられていた。
「ぐ、重っ・・、」
今まで盛大に鳴り響いていた雷が嘘のように止んで、シンと静まり返った広場に響くのは、天狼の荒い呼吸音だけ━━━。
「・・・もう終わりだ!山の主が降りてくるなんて・・・!」
絶望が滲んだその呟きは、そのままこの場に居合わせた狩人全員の心の声か。
普段はけして山から降りて来ず、人間が直に目にする機会などほぼ皆無に等しい生き物であっても、その恐ろしさを疑う者はこの世にいない。
半ば伝説と化した龍種は別格として、目に見える形で災厄をもたらす天狼は、遭遇したくない魔獣の上位を常に維持している。
風刃や雷を自在に操り、下位の獣を意のままに従わせる力が脅威であるのは勿論の事、天狼が更に恐れられている最大の要因は、その気性の激しさと執念深さにある。
一度その怒りを買おうものなら、執拗に追い回されつけ狙われて、最悪周囲を巻き込む大惨事に至るケースも少なくない。
「もう駄目だ・・!あいつ食われちまう・・・」
「他人事じゃねえぞ。次は俺らの番だ、畜生っ!」
食われるかどうかは知らんが、確実にその前に圧死する━━━━。
気道を確保しようと身を捩った瞬間、ゴロゴロと何度も身体を転がされ、再び足蹴にされて、最早気分は猫に甚振られるネズミ。
こん畜生っ・・、人で遊びやがってーーーー!
傍から見てる連中には、さぞかし絶望的な光景に見えているだろうが、ある意味これは俺の日常でもある。
ネージュに構うともれなく天狼親子がセットでつき纏ってくるため、わりと高確率で毎回転がされている。
とはいえ━━、今回は“親”の機嫌が死ぬほど悪い。
これがただの八つ当たりでも、下手すりゃこっちは昇天しかねない。
「てめ、ま・・ちやがれっ、このっ・・・、」
身体を押さえつけている爪から逃れようと、俺が必死にもがく様に数分後の自分を見ている連中は、壮絶に悲壮な表情を浮かべて固まっている。
━━━埒が明かねぇ。
一旦獣化して逃れる事を真剣に考え始めた、その時。
頭の中に直接声が響いてきた。
『 お前は何をしている 』
「・・は?」
『 あれだけ娘に己の匂いを纏わせておきながら、
━━━何故何もせず放置している。
わたしの娘を弄ぶつもりなら、いまここで殺す
』
青天の霹靂ってのはこの事か━━━。
ネージュやグウィンとの間では、ある程度の意思疎通ができているのは知ってはいたが。
天狼の『声』が自分に届いたのは、これが初めてだった。
あの娘が己の庇護下にある事を示すためにやっていた、獣人向けのマーキングをこの“親”に指摘されるとは思わなかった。
しかも『何もしない』事を咎められるとは。
『 娘は見た目ほど幼くはない 番うつもりがないのなら離れよ お前がまとわりついていては 他の雄が近寄れぬ 』
何故いきなりこんな話になっているのか。
『 仔を守るのは親の役目 雌を守るのは番の役目 この不穏な状況で娘を放置するのなら 役目を放棄しているものとみなす 』
・・・・なんとなく飲み込めてきた。
種族にもよるだろうが、獣の番同士は四六時中行動を共にするものが多い。
番候補と捉えられても仕方がないぐらい、濃いマーキングを施しておきながら、大暴走の状況下であいつの傍を離れているのが気に食わないのだろう。
「人間と獣じゃ事情が違ぇ━━━!・・・ゲホッ」
叫んだ瞬間、自分を踏み付けにしている前脚にグッと力がこめられて、息が詰まる。
『 初めからわたしは お前が気に食わない 自ら目の前で何度も娘を拐かされるような雄は 信用ならぬ 』
「はあぁっ━━!?最初に俺からあいつをカッ拐ったのは、どこのどいつだと・・・グッ、」
『 不埒者なぞ その場で返り討ちにすれは良いだけのこと それができぬ雄に 娘はやれぬ 』
何言ってんだこの怪物親━━━━。
あの娘を嫁に取るなら、自分を返り討ちにしてからにしろと!?
・・・どんな猛者だ、それは。
もう少しまともに会話ができれば、色々と反論もするんだが・・・。
こうも身体を圧迫されていては、一声を絞り出すのもやっとで、おまけになんだかだんだん気が遠くなりやがる━━━━。
「シーーグーーー!!」
霞み始めた頭の隅で、今朝方会って別れたばかりのネージュの声が聴こえた。