乙女の朝の一コマ
敷居をヒョイと跨ぐ感覚で麓の町から山の家に戻ると、グウィネスさんは既に起きていて、厨房で朝のお茶を淹れているところだった。
「たまには自分でやんないとね。あんたも香草茶でいいかい?」
「ありがとうございます。朝の支度が遅れてすみません」
「独り暮らしの頃は自分でやるのが当たり前だったんだから、何も問題無いよ。ほらほら、座った座った」
「はーい。あ、別宅から軽食取り寄せますけど、何にします?」
「この間食べた“シナモンロール”とかいうのが美味しかったね」
「かしこまりぃー」
このところ延々短距離転移の特訓をしていた成果か、すっかり空間操作の腕が上がって、慣れた場所からの『お取り寄せ』なら、空間の歪みを最小限に留めた状態での物の出し入れが可能になった。
グウィネスさんやシグの前では異能を隠す必要がないので、適当な空間に手を突っ込んで取り出せば“お取り寄せ”完了。
「あんたのソレ、何も知らない人間が見たら、なんでもかんでも取り出せる便利な魔法だと思うに違いないよ」
「あはは、流石に『なんでも』は無理ですね。私のこれって隠し芸みたいなものだし」
当然タネも仕掛けも必要なわけで。
異界部屋の存在は真に奇跡だけど、それ以外は自らの仕込みと特異体質のなせる技。
創作の設定でよくある異空間収納みたいなのとは別物なのだ。
『容量無限大の不思議な空間』とかがどこかにあるわけじゃなくて、同一次元上にある現実の空間同士を繋げて、穴を開けて物を出し入れしてるだけ。
だけどグウィネスさんに言わせると、その『だけ』が既に有り得ないぐらいおかしいんだから、絶対に人前でやるなと釘を刺されている。
「そう言えば、シグがしばらくこっちに帰って来れないって言ってました。なんでも危険な獣が町の近くに出没してて、警戒レベルが引き上げられてるみたいで」
「まあ、そういう事もあるだろね。中央山脈の麓にある町っていうのは、どこも獣の被害に頭を悩ますものさ。作物を荒らされたり、家畜や人が襲われたりとかね。それの対処にあたるのが狩人組合の役割なんだから、精々仕事をするがいいさ。あの男は家に居たってゴロゴロしてるだけなんだから」
グウィネスさんのシグに対する認識が、私と全く一緒だった。
「ハネズ。無駄に頑丈なあの男の心配なんざするだけ損だよ。金剛に踏みつけられてもピンピンしてる奴が、そんじょそこらの畜生にやられるはずがないんだから」
『金剛』というのは天狼のお母さんにグウィネスさんが付けた名で、彼女だけがその名で呼んでいる。
「あぁ・・、そういや過去に何度か足蹴にされてましたねぇ」
あれはお母さんが手加減してたのもあるだろうけど、シグ本人の頑丈さもかなりのものだ。
「そういえば・・、町の近くに出没してる獣と関係があるかどうかはわからないけど、前に金剛がちょっと気になる事を言ってたね」
「・・お母さんがですか?」
天狼親子との意思疎通は魔力を介しての《心話》のようなものだから、波長が合う合わないは人によりけりで、私はどちらかというとお母さんよりチビちゃんとの方が“合う”気がする。
その点グウィネスさんは私よりスムーズにお母さんと会話ができるようで、たまに二人して何やら語らっている事もある。
「金剛の領域に他所から獣が流れ込んで来ているというのさ。それも相当数」
「えーと、つまり・・・?」
獣の生態にあまり詳しくないので、いまいちピンと来ない私。
「大陸中央の山岳地帯が『獣の領土』と呼ばれいて、魔獣の巣になってる事は前に説明しただろう?そしてそのほぼ全ての峰に、捕食者の頂点に位置する《アンブレラ種》がいる━━━猿山にボス猿が君臨してるようなものだと言えばわかり易いかね」
「あぁー。ハイ」
生態系を示すピラミッドの頂点部分の生き物をそう呼ぶのだと、そういえば何かで見た記憶がある。
「アンブレラ種を頂点に据えた周辺の領域ってのは、生態系のバランス上手く取れて獣の数が安定してる所が多いんだよ。シトラス山の周辺は金剛の縄張りで、ここ数十年落ち着いてたんだけど、どうも去年あたりから“はぐれ”の数が増えてるらしくてね」
既に完成している食物連鎖の環の中にイレギュラーな存在が入り込むと、環に綻びが生じてしまいかねない、という事だろう。
イレギュラーの捕食対象となるものは必要以上に数を減らし、捕食されて数を減らした生き物の、そのまた糧となる生き物は天敵が少なくなった事で爆発的に増え、次には数を増やし過ぎて餌が足りなくなった獣が人里に降りるようになる。
それもまた自然の成り行きなんだろうけど、人間側だってただ黙って大人しく喰い物にされてやるわけにはいかない。
“はぐれ”が増えた原因なんて、私には想像もつかないけど、何某かの意見を求められて言う事があるとすれば、これしかない。
「働け、ニート」