乙女は白色毛玉の夢を見るか
『こわい こわいよぅ』
━━━始めは空耳かと思った。
慌ててキョロキョロと周辺を見渡しても、泣いている子供の姿なんてどこにも見当たらなかったから。
『おかあさん たすけて! こわいのがくるよ』
でも、切羽詰まったその声は、明らかに何かに脅えて逃げ惑っている風で、気のせいだと放っておくにはあんまりにも悲痛すぎて。
しまいには居ても立ってもいられなくなり、私の身体は椅子を蹴倒す勢いで勝手に走り出していた。
「━━━おい、ネージュ?」
声のする方、大通りの人混みの中へ━━━━。
『うぇぇん・・・こわいよぅ・・・』
通りの雑踏に掻き消されてしまいそうなか細い声。
なのに何故かそれは私の耳にはっきりと届く。
周囲の人間が誰一人としてその声に反応する様子が無い事を訝しく思いながらも、私はひたすら声の主を捜して通りを歩き回った。
小さな子が親とはぐれる心細さは、身に染みて解ってるから。
それに・・・何かに追われて脅えているなんて、普通の状況とも思えない。
「早く見つけなきゃ・・・」
人混みに注意深く目を凝らし、少しの手掛かりも見落とさないよう耳を澄まして、━━━ふと何気無く視線を下に動かした瞬間、不意に目に飛び込んできたものに気付いてハッとした。
「え・・・?」
通りを行き交う人間達の足下を縫うようにして、こちらに駆けてくる小さな生き物がいる。
シグルーンが獣化した時の姿とよく似た、雪のように真っ白な毛並みのもふもふ。
そして、その背中には先端を切り取られた一対の翼━━━━。
『たすけて たすけて』
!!!
より鮮明に響く声。━━━この子だ、と瞬時に悟った。
そういえば、この通りは騎獣や家畜を扱う市を見掛けた場所。
じっくり眺める気になれなくて足早に通り過ぎただけだったけど、こうした小さな生き物もたくさん檻の中に囲われていたように思う。
「あそこから逃げてきたの・・・?」
獣が金で売り買いされるのは、どこまでも人間の都合でしかない。
売り買いされる獣にとっては迷惑以外の何物でもないだろう。
だから、縛めが緩めば本能に従い逃れようとするのはごく自然な行動だ。
そして自分も“人間”だ。そう思ったら、踏み出そうとしていた足が途端に重くなった。
・・・きっとあの仔には私も『敵』に見えるに違いない。
「━━━━いたぞ、絶対に逃がすな!回り込め!」
「!!」
でも、躊躇ってる暇なんて無かった。
『商品』が逃げ出した事に気付いた商人の追っ手が、すぐそこまで迫ってきていたから。
しかも小さな獣一頭を相手に屈強な男が五・六人がかりで追い詰めに掛かっている。
その手に捕獲用の縄や投網、弓矢まで携えて。
・・・まさか、あれで射るつもり!?
私は急いで小さな獣の正面に先回りすると、両腕を広げた。
「・・・こっちにおいで!逃がしてあげる」
『きゅっ・・・!』
予想通り白いもふもふは突然目の前に現れた私を警戒して立ち竦み、その場で固まってしまう。
この仔にしてみればどっちを向いても人間だらけのこの状況は、ひとりぼっちで天敵の巣に放り込まれたようなもの。
信じられなくて当たり前だ。
「お願い!このままじゃまた捕まって、お母さんに会えなくなっちゃうよっ」
『お・・・おかぁさん・・・。おかあさんに あいたい』
「うん、どうしても嫌なら噛みついて逃げてもいいよ」
『きゅー・・』
私は小さなもふもふを掬うようにして抱き上げると、急いで外套の内側に押し込めた。
思ったより抵抗が少なかった事に安堵してそのままその場を立ち去ろうと踵を返し、━━━━鼓動が跳ねた。
「おっと、すまねえな嬢ちゃん。そいつは迷子じゃなくてうちの商品なんだ。返してもらうぜぇ?」
しまった、と思ったけどもう遅かった。
自分がほんの一瞬躊躇い立ち止まっていた間に、追っ手に距離を詰められ先回りをされてしまったらしい。
ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべたあまり柄の良くない男達に前後左右を固められ、いつの間にかすっかり追い込まれる形になっていた。
「・・・・・っ」
普通に考えれば至極真っ当要求なだけに、反論する余地なんかどこにも残されていない。
商人の扱う品が『物』だろうと『獣』だろうと、それが同じ『商品』であることに変わりはないし、他人の持ち物と知った上で手を出すならそれは最早窃盗だ。
理屈の上ではちゃんと解ってる・・・。
でも、懐に匿った小さな獣の激しい脅えが伝わってきて、あっさりそのまま手渡す気にもなれない。
数人がかりで取り戻そうとする『大事な商品』なら、なんでもっと丁寧に扱わないの。
どうしてこの仔はこんなに脅えてるの。
「・・・お願い、乱暴に扱わないで!まだ小さいのに可哀想だよ!逃げ出したのはお母さんに会いたがってただけなんだから━━━━」
結局何の助けにもなれなかった罪悪感から、役にも立たない擁護の台詞が口をついて出る。
だけど、私の言葉を聞いた男達の顔からは、一斉に薄ら笑いが剥がれ落ちた。
「・・・チッ、早いとこ天狼の雛を取り戻せ!口輪を嵌めるんだ!親を呼ばせるな!!」
それまで余裕綽々の表情だった男達が、血相を変えて私から小さな獣を引き剥がしにかかる。
『やだよぅ・・ こわいよぅ・・』
「━━━━!!やめて・・・、乱暴にしないで!」
すっかり周りを囲まれ逃げ切れないと分かっていても、無意識に彼等の手を避けようと身体の方は勝手に動く。
そうこうするうちに無理な体勢で身を捩った際に足が縺れてバランスを崩し、勢いよく後ろ向きに身体が傾いだ。
「ひゃっ!!」
━━━両手は塞がってる。地面は石畳。とくれば後頭部を強打する未来しか思い浮かばない。
だけどいつまで経っても痛みはやって来なかった。
「なあああにやってんだ小娘ぇ~~~~!!」
「あ」
もふもふを腕に抱えたまま仰向けに引っくり返った私の目に飛び込んできたのは、市場の片隅に放っぽりだして置いてきた保護者の姿。
寸でのタイミングで私の身体はお爺様にキャッチされていた。