「空間転移」
川辺の葦は穏やかに揺れ、畑の麦は地上のものの何倍も巨大に育つ、アアルの野。
老商人サルワの魂は、オシリス神の宮殿の大浴場で寛ぎながら、冥界の旅の途中でツタンカーメンと一時をともにした際のことを思い出していた。
アアルの野では人は望む姿になれて、若返るのも羽を生やすのも自由自在。
だけどサルワは結局は死亡時の年齢の姿に落ち着いた。
泳げるほどに広大な湯船で、思い切り手足を伸ばす。
まろやかな湯は、老いた身だからこそ、その心地好さが良くわかる。
子供の姿ではついつい水遊びに走ってしまう。
(お風呂奴隷の件については、ファラオがお出でになったらじっくり話し合いたいのう。
いやいや、いっそサプライズで仕えてしまうのもいいかもしれんぞ。
もしもわしが若かりし日のムキムキの姿で現れたら、ファラオはわしじゃと気づいてくれるかいのう?)
そこにいきなりツタンカーメンが空間転移してきて湯船の上空に出現し、バシャンと落下し、お湯がザバーっとなってサルワを押し流した。
「これにて儀式は完遂せり! ツタンカーメンよ、アアルの野の清き水は汝を祝福せり! 汝は完全体となれり!」
いつの間にか戸口に立っていたオシリス神が宣言する。
水中でジタバタしているツタンカーメンを、一緒に飛んできたプタハ神が引っ張り上げる。
水と言いつつお湯を使ったのは、冷たいと心臓に悪いからである。
「オーケー。カルブ君にもらった心臓は完全にツタンカーメン君のものになりました。これでもう、空間転移をしても心臓だけ置き去りになる心配はありません。まあ、それでも防護服を着ての転移なので、飛べる距離は短くなりますがね」
プタハ神はツタンカーメンを小脇に抱えて再び転移。
力の余波による波を避け、オシリス神は素早く戸口を閉めた。
静まり返った浴場の壁際にひっくり返って。
「ファ……ファラオの入浴とはかくも激しいものなのかのォ……」
これにてようやくサルワの心に、お風呂奴隷の道へのあきらめが浮かんだ。
もう一つの死者の国、アメンテト。
太陽の船を見送って、ファジュルは小鳥の姿になったガサクを服の中から引っ張り出した。
あれからずいぶん経つというのに、ガサクはいまだに目を覚まさず、鮮やかなブルーだった羽は、理由はわからないが赤く変色してしまっていた。
(プタハ神さまには心配ないって言われたけど、本当に大丈夫なの……? お願い、ガサク。早く起きて……)
太陽の船が遠ざかる。
ファジュルはガサクを服の中に納め、冥界での自分の家である棺の中へ戻った。
ちなみに古代の衣服にポケットはなく、服の中に納めたとは、つまりは胸の谷間にである。
(ガサク、今、自分からもぐっていかなかった? ……気のせい……よね……?)
棺のはるか上空を、太陽の船を追いかけて、大蛇アポピスが飛び越える。
アポピスに気づかれないように山の陰に隠れながら、プタハ神とツタンカーメンは空間転移をくり返して少しずつ距離を詰めていく。
太陽の船の甲板からアメン・ラー神が光の槍を放ち、アポピスが急ブレーキでかわして、その隙にプタハ神とツタンカーメンはアポピスの体内に転移した。




