「おれとの約束」
カルブはとっさに腕で頭部を覆ったが意味はなかった。
蚊柱は腕にまとわりつき、腕の隙間から顔へ、叫ぼうとした口へと押し入る。
吐き出そうとして口を開ければ、そこからさらに押し入ってくる。
耳の穴は羽音に埋め尽くされ、鼻の穴からも呼吸に乗って無遠慮になだれ込み、サンダルの上の足の指の一本一本まで蚊柱に捕らわれる。
蚊柱が吸い取っているのは、犠牲者の血液ではなく、生命力。
(魂が……! 肉体から引き剥がされる……!?)
カルブの意識が遠のいていく。
女神も兵士達もピクリとも動かない。
呼吸が止まる。
心臓も……
まぶしい。
もう朝なのか?
仰向けに倒れたカルブの目の前に、別れてから一日も忘れられなかった顔があった。
「ツタン……カーメン……様……?」
差し伸べたカルブの手は、半透明だった。
肉も骨も置き去りにした霊体。
「ああ……オレ……ツタンカーメン様に触れられる……」
「喜ぶなバカ!!」
カルブの右手を、ツタンカーメンの左手がガシッと掴んだ。
「まだやることがいっぱいあンだろうがバカ!! その年で死ぬんじゃねェよバカ!!」
ファラオが必死の形相で、同い年で身分違いの親友の霊体を肉体の中に押し戻す。
それでも魂は肉体から離れようとし続ける。
自然と浮き上がった左手を、今度はツタンカーメンの右手が掴む。
「叶える夢があるんだろ!? おれとの約束、忘れてんじゃねーよ!!」
浮き上がる左膝をファラオの右脚で押さえ、右膝に左脚を絡める。
カルブにはこれが夢なのか現実なのかもわからず、ツタンカーメンの叫びを、どこか遠くの歌声のようにフワフワした気持ちで聞いていた。
「世界一のミイラ職人になるって約束したじゃねーか!! だったら生きてなくちゃダメだろ!? ミイラ職人の手はみんなの悲しみを癒す手だ!! その手を持つおまえがおれを悲しませるんじゃねエ!! 出るな出るな来るな!! 戻れ戻れ戻れエエエエエエッ!!」
両手両足を取られて、それでも浮き上がる頭部に額を当てて押し返す。
ヘッドバット! ヘッドバット! ヘッドバット!
二人のひたいから星が散る。
比喩でなく、霊体と霊体がぶつかって、生命力が光を放つ。
光が爆発し、二人は同時に気を失った。
やわらかなシーツの中で目が覚めて、カルブは隣に誰かの気配を感じた。
ああ、あのイタズラ者の幽霊だ。
またオレをからかおうとしてるんだ。
まったく困ったおかただ。
久しぶりだし思い切り驚いたフリをしてやろう。
カルブはそっと目を開けた。
目の前にアテン神の顔があった。
「ギャーーーーーーーーー!!」
カルブは本気で悲鳴を上げて、アテン神をベッドから蹴り出した。
「ぎゃう!!」
ファラオのうめきは、アテン神の下から聞こえた。
アテン神を真ん中にはさんで、未来風に言えば川の字になって寝ていたのが、一緒に落っこちてしまったのだ。
「何で!?」
「何が?」
「何もかも!!」
「んー?」
ツタンカーメンは眠そうに目をこする。
「カルブ君、まず何について一番訊きたい?」
神の言葉に、カルブは王の顔を改めて見つめ……
「お元気でしたか?」
「おう。死んでるとは思えないぐらい元気だぞ」
窓の外で鳥が鳴いた。
ここはナイル川のすぐ近く、ミイラ作りや墓所の建設に関わる職人の集落の片隅にたたずむ、カルブの宿舎の中だった。




