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「王家の谷」

 カルブが目を覚ますと、ミイラ工房の中は真っ暗になっていた。

 ほのかな月明かりを頼りにランプに火を点す。

「あ! やばい!」

 作業台の上に放置されたホッマの遺体にハエがたかってしまっていて、慌てて虫除けの薬をかけて、布で覆う。

 見回すと、床に神の像が散らばっていた。

(アレは夢じゃなかったんだ)

 工房があるのはナイル川の西岸。

 ホッマから出てきた蚊柱は、工房よりもさらに西の、王家の谷へ……

 ツタンカーメンの墓がある方角へ向かった。

 気がつけばカルブは走り出していた。



 谷の入り口で息をつき、日頃の運動不足を痛感する。

(工房の神像を一つ持ってくれば良かったかな……)

 だけど取りに戻るのも面倒に思える。

 蚊柱が工房に現れたのは何時間も前。

 それが本当にこっちへ来ていて、まだ近くに居るのなら、見張りの兵士が騒いでいるはずだ。

(兵士と話して様子を確かめたらすぐに帰ろう)

 カルブはあくまでミイラ職人。

 悪霊と戦う力なんかないのは自覚していた。

(それにしても、どうしてあれだったんだろう?)

 蚊柱は、工房にあったたくさんの神像のうち、アテン神の像にだけ反応していた。



 谷の道は西へと伸びる。

 北の崖と一体化する形で建てられた壮麗な葬祭殿は、闇の中で寝静まっている。

 葬祭殿の前を足音をひそめて横切り、もう少し進めば、見張りの兵士の詰め所がある。


 でこぼこの地面を乗り越えた先、連なる岩山の間に……

 兵士達が倒れていた。


 彼らを見下ろし、蚊柱が渦を巻いている。

 渦の中央では、まるでそこだけ切り取られたように、蚊の居ない空間が浮かび上がっている。

 その空間は、人に似た形をしていた。


(コブラの頭に、人間の女性の体……この辺りの山の守護神のメレトセゲル様?)


 神の姿がただの透明な空間にしか見えないのは、カルブが生きている人間だから。

 けれど蚊柱状の霊魂が神の全身にまとわりついているために、神の形が月下に浮かび上がっているのだ。

 その姿が倒れ、それによってようやくカルブは、蚊柱が女神を襲撃していたのだと気づいた。


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