「カルブのミイラ工房」
ツタンカーメンが冥界で審判を受けていたのと同時刻の地上。
エジプトの首都、テーベから、ナイル川を渡った西側。
船着場と墓地との間にひっそりとたたずむミイラ工房で、カルブは一人きりで次の仕事に向き合おうとしていた。
今朝もまた、目覚めてすぐに、ファラオの幽霊を捜してしまった。
ツタンカーメンの葬式が無事に終わってから、もう、ずいぶん経つ。
(今頃きっと、アアルの野でご両親と再会して、楽しくやっているはずだ)
パンを手作りしたりお風呂でグズついたりしていたせいで予定より遅れているなんて夢にも思っていない。
一方、現世を生きるカルブは、泣き暮らしたとは言わないが、心にポッカリと穴が開いたような無気力な日々を送っていた。
ファラオのミイラ作りという大役を十八歳の若さでやり遂げたスター職人には、その後、老若男女さまざまな依頼が殺到した。
けれどカルブは全て断った。
それがあまりに続いたために、このままでは駄目になると考えた祖父に、勝手に仕事を入れられてしまった。
(オレだって、このままじゃいけないってわかってるんだ)
ミイラ作りの第一段階である、皮膚の洗浄を終えたばかりの遺体を眺める。
カルブは今、ホッマという名の男の遺体を預かっている。
ひどく太った中年の貴族で、死因はマラリアらしい。
(ツタンカーメン様と約束したんだ。世界一のミイラ職人になるって)
エジプトで一番になれば、そのまま世界一である。
ツタンカーメンのミイラは、職人の真心がこもっていると、大神官アイに褒められた。
ホッマの遺族も同じようなものを求めているはずだ。
(無理だ)
あれは相手が“つーたん”だからできたのだ。
世の庶民の中には、相手が貴族だというだけの理由でどうせそいつは悪者だと決めてかかるような人も居るが……
ホッマはそれを差し引いてもなお評判の悪い人物だった。
(ツタンカーメン様の時みたいな気持ちになれない)
悲しくなれない。
切なくならない。
ホッマはツタンカーメンの時とは違って、幽霊になってカルブに話しかけてきたりはしない。
あれは神々の計らいによる、本当に特別な状況だったのだ。
けれど仮にホッマと話せたとしても、ツタンカーメンのように友達になれたとは思えない。
(ヤだけど……やらなくちゃ……)
虚ろな目で黒曜石のナイフを構え、臓器を取り出すために遺体の腹部に刃を当てる。
「!?」
ホッマの腹から、血液でも脂でもなく、黒い蚊柱のようなものが噴き出した。
「悪霊!?」
羽音が人の声のように聞こえる。
かすれているが、野太い男のうめき声。
(こいつ! ヤバいヤツだ!)
カルブは作業台のかたわらに備えていたアメン神の像を掲げた。
(遺族の話では、この人はアメン神の信者! なら!)
しかし声ある蚊柱は、怯む様子もなくカルブに襲いかかってくる。
カルブは飛び退き、奥の棚に飛びついて、手当たり次第に像をかざした。
冥界の王オシリス。
太陽神ラー。
自愛の女神ハトホル。
勇猛なる戦神メンチュウ。
(これじゃない!? これでもダメか!?)
ホルス神の像を取ろうとして、隣にあった像が落ちそうになって慌てて受け止める。
そちらの像に、蚊柱が反応した。
「ウウウウウ……ウオオオオオオッ!!」
「え!? 何で!?」
思わず叫ぶが、答えてくれる者は居ない。
(太陽神だからか……? でも、ラー様のは効かなかったし……)
空に太陽は一つ。
けれどエジプトには何人もの太陽神が居る。
その像は、かつて狂える王により、エジプト全土に強引に信仰を広められ……
それが神自身の意思だったとは思えないが……
多くの人の恨みを買い、その王の死後すぐに神殿を破壊されて、人の世の歴史から抹消された、異形の神のものだった。
蚊柱が外へ逃げる。
カルブは工房の窓から身を乗り出した。
蚊柱が飛び去ったのは、王家の谷の方角だった。
(ツタンカーメン様の墓所へ!?)
王家の谷には王族の墓が無数に連なるが、カルブの頭に浮かんだのはツタンカーメンだけだった。
心音が跳ねた。
(ツタンカーメン様……)
カルブは神聖な甲虫の形の護符のことを思い出していた。
葬式の前、想いを込めて、ツタンカーメンのミイラの胸の上に置いた。
心臓が早鐘のように鳴り始め、カルブは自分の胸を押さえた。
(ツタンカーメン様の心臓が守られますように……)
祈る。
古代エジプトでは、ものを考えるのは脳みそではなく心臓の役目だと考えられていた。
人間の人格、魂は、心臓に宿る。
鼓動の加速が止まらない。
明らかに異常だ。
外からの力で無理やり動かされているかのようだ。
それでもカルブの頭の中は、ツタンカーメンへの祈りでいっぱいだった。
悪霊の出現は、この工房だけの問題ではない。
何か、とんでもないことが起きている。
(ツタンカーメン様……! どうかご無事で……!)
祈りながら気を失った。
カルブの心情は、前作を書き上げた直後の作者自身の状態がモデルになっています。
本当に、つーたんロスになっていました。
毎朝毎晩つーたんのことばかり考えていましたっ。




