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「ガサク 2」

 散り散りに飛び去ろうとする悪霊を、アポピスがバクバクと喰っていく。

 ガサクは砂煙にまぎれて地べたを這いずって、どうにか岩陰に隠れた。


 胸をなでおろそうとして、胸部の穴に指が引っかかる。

(……覚悟できてたんじゃなかったのかよ……)

 自分の心がこんなに弱いなんて思っていなかった。

(……何であんな幻聴を……)

 アポピスの牙が眼前に迫った瞬間、ファジュルの声が聞こえた気がした。


 アポピスのしっぽが遠ざかり、ガサクは穴だらけの霊体カーでよろよろと歩き出した。

(……肉体がある状態でこんな怪我をしたら、きっと立つこともできないよな……)

 自分は死んでいるのだと、改めて思い知らされる。

 辺りはやけに静かで、逃げ延びた悪霊が戻ってくるような気配もなくて……

 それが、アポピスに負けず劣らず恐ろしい存在が迫っているからだったのだと……

 その姿が砂煙の向こうに浮かんで、ようやくガサクも気がついた。



(……神様……だよな……)

 人の形ながら見上げるほどに見事な体躯。

 イノブタに似た幻獣の頭。

(……地獄の神様……)

 ずしりずしりと足音が響く。

 何年も前、ガサクがほんの子供だった頃、盗みに入った家で主人に見つかって逃げ出す際に、こんな言葉を吐きかけられた。

“お前なんかセトに捕まって奴隷にされてしまえ!”

 邪神はガサクの目の前で立ち止まった。

 地獄の空に、おどろおどろしい笑い声がとどろいた。


「墓泥棒が居ると聞き、どんなバケモノかと期待して来てみたが、何だ、やけにキレイではないか」

 邪神がガサクの顎に手をかけた。

「案ずるでない。我輩のしもべにふさわしきよう汚してやろう」

 左手でガサクの顔をなでながら、右手の指をガサクの胸の穴に突っ込んで、バーに直接、触れる。

「ホホウ、若くして死んだ貧しい女に捧げる死者の書を欲したか。そうまでしてその女を楽園へ送ってやりたかった、と」

 痛いのともむずがゆいのとも違う、おそらく肉体や霊体カーでは感じ取れない感触。

「フムフム、墓守に見つかって切り殺された。まあ、貴族の墓に迂闊に押し入ればそうなるのも当然であろうな」

 振り払おうにも邪神の腕力は、人間ごときが適うものではない。

「クハハ、死体はそのまま砂漠に捨てられたか。おやおや、墓守め、せっかくお前を殺してまで死者の書を取り返したというのに、血で汚れてしまったからとその場に置いていきおった。お前の命などその程度の価値か」

 嘲笑が耳をなぶる。

 やめろと叫ぼうにも声が出ない。


「墓守を呪うか? いや、お前にはもっと呪わしい相手がおるな。いつの話だ? お前が五歳……六歳の頃か? となるとあの(・・)時代だな。異国の軍に故郷の村を焼かれたか」

 ガサクの体がビクリと震えた。

「それが全ての始まりか。異国が憎いか? 否、お前の恨みは内側に向いておる」

 ガサクの腕がグニャリと曲がった。

 骨も間接もなくなったようにグニャリと。

「ハハァン、見捨てられたのが悔しいわけか。村人がその身を犠牲にお前を逃がし、助けを呼ぶよう託したというのに、助けてくれるはずの相手、助ける義務があるはずの相手に、空虚な言葉を吐かれて突き放された」

 霊体カーが灰色に染まっていく。

 悪霊になりかけている。

「そやつの名は……クハハハハッ! 奇遇だな! そやつは我輩にとっても憎い相手だ!! お前はさぞや優れた悪霊となるであろう!! お前が憎む、そやつの名は……」

 ガサクは硬く目を閉じた。

 それが唯一できる抵抗だった。

「愛する女の名前を唱えよ!! 今がその名を覚えていられる最後の瞬間ぞ!! 次に目を開きし時、お前の魂は憎きアクエンアテンの名で埋め尽くされる!!」


 衝撃が走り、セトの手が離れた。

 ガサクはおそるおそる目を開けた。

 邪神とガサクの間に、もう一人、華奢でありながらも凛とした背中が立ち塞がっていた。

「……つー……たん……?」

 そう口にするのと同時に、その名が馴れ馴れしく呼んで良いものではないと今さら気づいて息を呑む。

 背中から生えたハヤブサの翼が、独特な形の頭巾が、彼が王権の神ホルスの分身・エジプト王ツタンカーメンだと示していた。


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