「パンがふっくらしないだなんて」
床に敷かれたござの上には、パンの材料を混ぜるのに使う陶器のボウルが、きっちり三つ並べられていた。
「ハタプ神……最初からこのつもりでしたよね……?」
「何の話でしょう?」
ツタンカーメンのジト目を受けても、神は素知らぬ顔のまま。
「本当は脱穀や製粉も学んでもらいたいのですが、オシリス君をあんまり待たせるわけにもいきませんので、こちらはアアルの野に着いてからにしますね」
「冥界の王様を君付けとか、もう正体を隠すつもりないでしょ」
「さてはて何の話やら~? それよりファジュル君、ガサク君、パンの作り方はわかりますね?」
「時々だけどママのお手伝いをしていました!」
「盗み方なら……いえ、子供の頃に作ってます。すげー小さい頃ッスけど」
「では早速、始めてください。ツータン君にもお手本を見せてあげてくださいね」
「はい! でも……あの……ベス神さまの像はどちらでしょう?」
小麦粉は、水でこねて焼いただけでも食べられる。
原初はそれをパンと呼んでいた。
ツタンカーメンの時代では、塩や牛乳も使う。
ござの上にはそれらに加え、この時代では高級なバターや卵もそろえられていたが、ファジュルが言うものは厨房内のどこにも見当たらなかった。
「ベス神さまにお供え物をしないと、パン生地が膨らみません」
「そうですね。ベス神はご存知ですね? ツータン君」
「名前だけ。会ったことはまだないです」
「ベス神は庶民の守り神です。
エジプトの一般的な家庭では、ベス神の像を台所のかまどの上に飾って、ほぐしたパンの入ったスープをお供え物として捧げます。
捧げてから一晩経つと、かまどの熱で暖められて、パンスープの中の霊力が育ちます。
育った霊力はスープからふわりと飛び立って、空気中をただよい、パン生地やパン作りの器具に付着して、パンをふっくら柔らかく膨らませてくれるのです」
ハタプ神がしているのは、後に“酵母”と呼ばれるものの話である。
霊力は万物に宿る。
人にも、家具にも、砂粒にも。
食べ物にも、もちろん酵母にも霊力は宿る。
ハタプ神の説明では酵母そのものと酵母の霊力が混同されているが、そもそも目に見えない酵母の存在は古代の人々にはまだ知られておらず、ツタンカーメンに言ったところで混乱させるだけだろう。
「ふっくらとなったパン生地から、家族が食べるパンと、次のお供え物のスープにするパンを作ります。
エジプトの民はこれを毎日、何年も、何世代も繰り返してきたのです」
「俺の故郷の村にはそんな像を奉ってる家なんてなかったな。だからうちの村のパンはよその村のパンと違ってペタンコのカチカチだったのか」
「ガサク君の村は、アクエンアテン君の宗教改革に振り回されてしまったのですね」
先王アクエンアテンはエジプトの人々に、アテン神以外の神への崇拝をやめさせようとした。
反発した者は多かったが、しかしそこはファラオの命令、素直に従った者だって少なくなかった。
結果、アクエンアテンに従ってベス神の像を廃棄した家では、台所のお供え物がなくなり、酵母も失われてしまった。
「ああ、先王様……何て罪深いことを……パンがふっくらしないだなんて……」
ツタンカーメンは悲しげに首を振った。
「こんなのはアテン君が望んだことではなかったのですがね……
先王のせいでパンがふっくらしなくなったことは、民からの大きな不信を買いました。
それこそが、宗教改革が国民に受け入れられず、国を乱しただけで終わった最大の理由なのです」
先王には先王の高き理想があったはずだが、庶民にはそんなことよりも、パンがふっくらするか否かのほうが重要だったのである。
「しかも王宮では、ベス神のスープとは別の方法でパンをふっくらさせていたのです」
ハタプ神の言葉に、ツタンカーメンはますます深くうつむいた。
ツタンカーメンが幼い頃は、先王も健在で宗教改革も続いていたが、ツタンカーメンはペタンコでカチカチのパンなんかを食べたことは一度もなくて、それで余計にシュンとした気持ちにさせられた。
この物語はフィクションです!
アクエンアテンの宗教改革が失敗したのはパンがふっくらしなくなったから、というのは私ヤミヲミルメが勝手に考えた説でして……
少なくとも私が見てきた資料には、こんな理由を唱えているものは一つもありませんでしたっ。
なので真に受けないようにっ!
ハタプ神が言っているパンスープというのは、古代のビールのことなのですが、現代のビールとはかなり異なるようで、説明すると長くなるのでここではこういう表現にしました。
脱穀と製粉の工程は、資料をしっかりと調べて回ったのですが、書いても資料の丸写しにしかならないので省略しました。




